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▼百合奈さん:
>ちなみに
>重度どころか知的に障害ある方に
>私含めアスペの友人がやたら好かれ
>私の場合は学校へ行くのが怖くなったり
>(異性で、すぐに服脱いでいきなり動き回る子だったので)
>付きまとわれて騒動になったり
>友人の場合は授業中に邪魔をされ住所まで勝手に調べられたという
>よくわからない共通点があるのですが
>やっぱり類は友を呼ぶんでしょうか……。
>
>
>正直、困りますが
>障害者を差別するな!仲間だろう!と言われるのが怖く
>実社会ではなかなか言い出せません。
私が似たような目に遭ったら「私は人間できてないから,これ以上は耐えられない」と
さっさと白旗挙げます。
これ差別ですか?
自分の許容を超えることは定型でもきつく感じますよ。
お給料いただいてる医療及び福祉従事者にだって
「できることと,できないこと」が存在してます。
百合奈さんは学生だし,そういう方々からお給料をいただいてる訳でもないし
ボランテイアでもないから辛いことは辛いと感じたら,たんわり断る権利はあると思いますよ。
仕事なら多少不快な相手でも,我慢する必要性はあるかもだけど
どんな立場の方でも許容の限界はありそうな気がします。
私は当事者の特性と言われる「つまらない合理性」を搭載してるので
自分の能力外のことを考えてもできない場合は潔く「できない」と言います;
当事者だから「相手の気持ちが理解できるに違いない」と思われてたら
「当事者だから自分のことが精一杯で解っててもできないこともあるよ」と言えます。
これ自己防衛だと定型から笑われても私は平気です。
できないことを安請け合いする自分自身が私にとっては
恥ずかしく感じます。
それって一部の定型に見られる「つまらない自尊心の保持」に見えませんか?
本当の優しさって自分の気持ちをひたすら我慢すること?
一方的な我慢で成り立つ相手の満足って自分自身が辛いような気がします;
因みに定型親へ「私みたいな子供なんか要らないし育てるときもウザイと本当は思ってるんでしょ?」と聞いたことあるけど返ってきたのは
「できが悪い子ほど放っておけないし可愛いと思うからだよ」と言われて
優しさと責任感の違いを考えたことがあります。
百合奈さんがその方へ感じる感情は同情以外に感じないなら
突き放すことも一つの方法かもしれないですよ(^_^;)
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