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▼wentさんへ
はじめまして。
WENTさんの思う事、とてもよく分かります。
私をはじめ、我が家はアスペファミリーで、協調性や社会性のみを強要されたり、強調されると大変しんどい立場に陥ります。
私が、このレスを立てたのは、強引にソーシャルスキルを学ばせたいと思ったからではなく、息子本人に人と関わりあいたいという興味が芽生えてきて、それに親としてできることはないか?と考えたからです。
息子も、友達がほしいと思う反面、一人で遊ぶ事が楽しいと思う場面がありますから、それはそれでいいと思っています。
問題は、本人が誰かと関わりたいと思ったときに、そういう環境がないというのはとても寂しい事です。
人と関わるチャンスを失うことになるからです。
> 最初に断っておきますが、このスレ参加の皆さんを揶揄しようという意図は私には全くございません。「子供本人が『楽しいと思うこと』を優先されている」立派な皆さんだと、思っています。
大丈夫ですよ。wentさんの意見も一理ありますし、理解できます。
というより、私の中にもそういう考えもあります。
> 子供時代の私にとっては、「『ソーシャルスキルを学ぶために、友達と遊ぶことは大切だ』ということを、声高に主張しないこと」が、最も気をつけてほしいことでした。
> 他に、次のことにも気をつけてほしかったです。
>・「楽しいと感じるツボは、人によっては大きくずれていることだってある」と認めること
>・「『群れていれば安心』というそぶりを見せることができなければ、ソーシャルスキルを学び取れていないと、決め付ける」ことをされたら、(少なくともwentにとっては)辛いということ
>
> こんなことを書くのは、子供時代の私にとっては、「友達と一緒に遊んで、楽しいと思えないようではいけませんよ」「人の輪の中に入って、協調性や社会性を学ばないといけませんよ」という言葉はプレッシャーに思えたからです。
> 実際、次のような言葉を、身近な大人からしょっちゅう浴びました。
> 「友達との遊びを楽しめないのは、考え方や感じ方が他の人と違っている、変わり者だからだ。変わっているところをなおして普通になるよう、努力しなければいけない。他の人が喜ぶことを話したりしたりしなければいけない。他の人の気分を害するようなことがあってはならない。」
貴重な意見だと思っています。
『こうあるべき』というのは、結局、定型発達者スタンダードか、古い日本の教育慣習だと思っています。
そのものに、私も随分と苦しめられてきました。
通信簿の『協調性』の欄に『△』が付くたび、落ち込んだものです。
> 「私が考えたり感じたりすることには、どうせロクなものなどない。私の本心が他の人にバレたら、バカにされたりひどい目にあうに決まっている。また、たった一度でも誰かの気分を害したら、その人は私を許さないだろう。」という思いにとらわれた状態で、私は他の子供と接していました。
> こんな状態では、「ソーシャルスキルを学ぶ余裕」なんかありません。ただただ、「人と接するのは疲れる。だけど、疲れると言うと怒られる。疲れると感じる私は、悪人だ。人間的に欠陥があるんだ。」という思いが強まるだけでした。
私は、自分がwentさんと同じ様に苦しんだので、二人の子供たちには、ソーシャルスキルを学ぶ余裕のなくなる、人間関係の構築は良しとするつもりはありません。
どうしたら、本人にとって『楽しく』人の中で暮らしていけるかなと考えたいのです。
どんな事に気をつけたら良いか・・・皆さんに聞く事ができたら良いなぁと思って書き込みしたので、書き込みしてくださって嬉しいです。
> 私は、「人形遊び」とか「ゴムとび」とか「トランプ」とかいった、他の女の子が楽しんでいた遊びを楽しめない子供でした。図鑑とか子供向け科学雑誌(特に組み立て付録)の大好きな子供でした。
> 他の女の子にとっては、図鑑や子供向け科学雑誌は、退屈な本とうつっていたらしいです。「一生懸命がんばって読む本」だったらしいです。
> 私は、いろいろな人(特に大人)から、次のことを言われていました。
> 「爬虫類や両生類に触っても平気な女の子なんて、おかしい。そのようなものを見たら、「キャー」とか言って逃げ惑う女の子の方がまともだ。」
> 「電気器具の配線とか機械いじりに興味を持つ女の子なんて、おかしいい。そういうことは面倒なことだと、思うはずだ。」
> こうして私は、「楽しいという感情が、まともに湧かない子供なんだ」という罪悪感を持つようになりました。
私も、機械いじり好きでしたよ。
家の時計やおもちゃをすぐ分解するので、こっぴどく怒られましたけど。
多動もあったので、外で遊ぶ事が多く、半ズボンでショートカット、自分のことも『僕』と呼んでいたので、周りからは『女の子らしくない』とのレッテルは沢山貼られましたが、その頃の私は楽しかったので、まあいいかと思っています。
> 現在私は、カラオケ・ボウリング・スキーを楽しいと思えます。「20代後半になって、一緒にいて楽しいと思う人達といっしょにやる」まで、それらを「楽しいことだと」強要する人に出会わなかったのです。
> そのことが、楽しめる理由だと思っています。
子供たちにもwentさんの様に、楽しめるものが見つかると良いなと思います。
自閉症スペクトラムの子供たちは、余暇を過ごす方法を見つけることが難しい子もいます。
だから、wentさんのような方は、すごいなと思いますよ。
>
> ソーシャルスキルという言葉、私にとっては謎の言葉です。
> もっとも、私が子供の頃はそのような言葉は使われていなくて、「協調性・社会性」という言葉が使われていましたが。
>
> 次のようなことが、私にとっては謎のことに思えるのです。
>・ソーシャルスキルというけれど、一体何なのか?
>・(大人たちにとって)子供に身につけてもらいたいソーシャルスキルとは、一体どういう内容なのか?
>・そもそも、ソーシャルスキルというものは、友達と遊んでいれば極自然に身に付くものなのか?
>・ソーシャルスキルが訓練によって身に付くものならば、どうして「いじめの加害者」に適用しようとしないんだ? いじめの被害者に対して「いじめられているから、ソーシャルスキル訓練をさせたい」という話は時々聞くのだが。
>
これは自論ですが、私のとっての『ソーシャルスキル』とは、人とこう付き合うべき、人としてこうあるべきというのもではなく、
相手を思いやる事が出来たり、一緒にいたいと思う相手と時間や楽しさを共有するときに、人間関係が潤滑に行く程度のほんの少しの譲り合いを『お互い』が持ち寄れる事だと思っています。
だから、『訓練』などでは身に付かないと思いますし、むしろ、訓練で知ることができるのは『傾向と対策』のようなものだと思っています。
傾向と対策自体も、その子本人が、手段として使うか使わないかは別として、持っていてもいいかな〜と私は思っています。
私自身は、そういう傾向と対策を、誰も教えてくれなかったから、出来なかったんだよという思いを抱いた事もあったので・・・
> ソーシャルスキルに関して具体像を示さずに、協調性・社会性という、圧迫感を与える表現をされるのは、ソーシャルスキルが足りない(と思い込まされた)子供にとっては、対応策が見つかりにくいものとうつるかもしれません。
> 意地悪な見方をすれば、ソーシャルスキルを持った(ということにされている)人にとっては、「スキルアップのための策が見つかりにくい」ということは都合のよいことかもしれません。
> 何でもかんでも「協調性・社会性・ソーシャルスキル」という言葉で片付けようとしている(と私が思った)人に対して、次のようなことを思ってしまうのです。
>「『協調性・社会性・ソーシャルスキル』という言葉を使うのなら、時と場合に応じて、その言葉を違う言葉に置き換えて説明してほしい。」と。
そうですね。
子供に『ソーシャルスキル』と言ったところでわかるはずもないですものね。
私も、出来ればそれが本人が人の中にいて(本人が望む範囲で)、具体的に教えてやれたらなぁと思っています。
ご意見、肝に銘じて、これからの私に反映させますね。
ありがとうございます。
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