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▼Cyperusさん:
> とはいっても、この世に『生』を受けたということは、神様は私に何らかの『存在意義』をお求めになったのでしょう。他の発達障害の人も、同様なのだと思います。
哲学的ですね。私こういうことを考えるのが好きですよ。
「神様は、存在意義を求めて、生を授ける」のでしょうか。
言い換えると、
「神様は、存在意義のないものには、生を授けない」でしょうか。
そう思って、世の中を見てみると、
不必要なもの、ないほうがマシなのものが、多数存在しています。
生物を見てみると、異常発生する生物もあれば、環境を破壊する生物もいます。
人間という種も、環境を破壊してますね。大規模に。
環境保護を突き詰めていくと、人間は存在してはいけないようです。
私の説は、「神様は、存在意義にはこだわらない」です。
>あなたが思うところ、『発達障害者』の『存在意義』って、何でしょうか?
前提として、人間世界の話では、
「生まれてきた人間には、みんな存在していい」と思ってます。
存在する権利がある。とも思ってます。
障害があろうと無かろうと、それが誰で、どんな条件であろうと。
障害者の存在は、健常者に、
世の中には、いろんな違った人が存在することに気づかせてくれる。
発達障害者は、その特性に気づけば、
こういう感じ方をする人もいる。こういう視点もある。ということを、
他の障害者よりは簡単に、表現することができる。
発達障害者が、何ができて、何が苦手か。
世の中へメッセージを送ることで、世の中にあらゆる幅を広げてくれる。
また、同じ障害を持つ人への応援にもなる。
という存在意義を、私は思いつきました。
存在意義というものは、作り出すものかもしれないです。
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