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▼yume☆さん:
こんばんは。息子さんの件は当事者としても支援者としても身に覚えがあるだけに大変だな、と感じました。
ただもうひとつ私が引っかかったのはそんな先生に対して「素晴らしい」ということばを使うyumeさんの態度です。私にはとても矛盾しているように感じました。
先生の行動の努力を評価するのは大切だと思いますが、先生がやっていることは「素晴らしい」という表現に値するものでしょうか?本当にyumeさんは「素晴らしい」と思ったのでしょうか?息子のために努力しているのだから、素晴らしいと思わなければいけないと考えていませんか?
教師だって人間ですから間違えることだってあるし、不適切な行動をとることもあるでしょう。むしろそういうことを息子さんに教えるいいチャンスだと考えることはできないでしょうか?
またyumeさんは、息子さんは学校にいる時間が長いから、できるだけ快適な空間で過ごしてほしいという考えかもしれません。でも学校にいる時間って人生の全体の時間から考えればかなり短い時間ですよね。だとしたら学校外の時間で人生を楽しむ趣味などを見つけるようにして、学校は将来就職して思い通りにならない時にどうやって対応していけばいいのか、相性の悪い上司とどうやって付き合ったらいいかを学ぶいい機会だと考えるのもいいのかな、という気もします。
私自身義務教育期間はかなりひどいいじめに遭いました。体調を崩して蛋白尿とか出たこともありました。教師も今ほど協力的ではなかったし、母も大分苦労したと言っています。
でもそれでも学校へ行ったのは、「いじめている子どもと同じように私にも学校へ行く権利がある」「義務教育だから今はイヤでも学校へ行っておこう」「将来損するのは自分だ」という気持ちがあったからです。日曜日になると教会へ行って仲のいい友達に会えるから、それまでがんばろうと指折り数えて日曜日を待っていました。
今振り返ってみるとこの頃に大分私は「感情と事実は別物だ」「大きな目で考えて損得を考えることが大切だ」「転んでもただでは起きないぞ」「自分の力ではどうにもならないことは、できるだけのことをやって後は周りの人に助けを求めればいい」というたくましさや図々しさを身に付けたと思います。小さい頃から母はそういうことを教えてはくれていましたが、少しずつ意識的にできるようになってきました。同時に大人が言っていることに対して疑いや批判の気持ちが出てきて裏づけを取るように意識し始めたのもこの頃です。
分かってもらえない、ということを悲しいと思うのは自然な感情かもしれませんが、「ま、それも仕方ないか」「しょうがない人だなぁ」と思うことも時には大事だと私は考えています。
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