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コメントありがとうございます。
長くなるのでケータイから投稿できません。このため今ネットカフェにいます。
▼チェリーさん:
>我慢することを、得か?損か?という風に考えた事がなかったので、自分なりに分析してみました。答えは、得とか損という一言では表せないというところでしょうか。プラスかマイナスかという方が少し好い言い方かもしれませんね。
やはり最初からプラスかマイナス、という表現のほうが、皆さんにとっても当たり障りがなかったかもしれません。
>これは私の経験です。数年前、命に関わる病気にかかったことがありますが、そのために、かなり苦痛の伴う副作用のきつい治療をしなければなりませんでした。それでも、生きるという目標のために我慢して、何とか終了しました。
>結果、私は今生きています。これは、私にとって我慢した事がプラスとなった事の一例です。
そうですね。
生命にかかわる病気なら私も経験がありますが、病院の対応も早かったために九死に一生を得ました。この世のものとは思えないほどの激痛を感じる注射もありましたし、水薬を水代わりに飲まなければならない時期もありましたが、やはり私も我慢した結果はプラスになりました。
しかし私は別の医療機関では我慢した結果がマイナスに出たのもありました。度々コメントしている整形外科での誤診です。
9歳のときに受けた先天性股関節脱臼の手術でした。誤った診断による誤ったメスだったので、平衡感覚が悪いために姿勢が狂っていたことがダメ押しし、脊柱側彎(せきちゅうそくわん)という2次障害が発生しました。しかしそこまで悪化が進んでも、病院では脊柱側彎を「ショルダーバッグが原因」だと思い込んで、付け焼刃的な対応をしました。その結果、弱冠19歳にして変形性股関節症が末期状態に至ってしまいました。
これぞまさしく我慢がマイナスに作用した典型です。
>子供が不適切な行動をしても、怒りたいのを我慢し、罵倒しない、怒りをぶつけない。その代わりに、良い点に注目し、ほめる。
>これは、明らかに子供にとってプラスであり、ひいては私自身のどなってしまう自己嫌悪にもプラスでしょう。
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>その他、人間関係を円滑にするためには(たとえ夫婦間においても)、言いたい事をぐっと我慢するという事が必要な場面は多々あると思います。思わず口を突いて出た言葉で人を傷つけるよりは、ぐっと我慢して言葉を飲み込む方がプラスなことが多いものです。
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>つまり、得だから我慢をするという訳ではなく、結果、自分のため、又は他の人のためになるということなんだと思います。
そうですね。私も目からウロコです。
自分が我慢することで相手の顔を立てることができ、その結果トラブルも落ち着くことは実際多いですからね。
高速道路を愛車で走っているとき、大型トラックとカーチェイスになっていても、自分よりもっとスピードの速い暴走族の車までぶっちぎるようなことはしません。
自分の身を守るためには、時に引いて構えることも重要だと感じています。
>しかし、おそらく、Chiquititaさんがおっしゃっている、「我慢」とは、他人の自分に対する不当な言動に対する「我慢」ということではないでしょうか?それは、マイナスに働く事の方が多いのではないかと思います。
そうですね。将におっしゃるとおりです。
再三コメントしているように、親元では発達障害だけでなく身体障害に対しても常軌を逸した偏見があるために、家族の者まで嫌がらせを日常的に受けていたこともあります。こういった環境は、我慢すればするだけストレスになるでしょう。
>不当な事に対しては人間として、当然怒りが出ます。しかし、その怒りを抑えて、我慢することで怒りが内に貯まります。逆に、我慢せず怒りが外に現れると、他の方がおっしゃっているように、暴力という形となります。
>そうではなくて、内側に向いてしまった場合、自分を責め、鬱という形となって精神面で病んでしまう結果となります。
>
>過去に人に傷つけられ、本当につらい事があった人がさらに辛い目に合うという悲しい現実が多くあります。周りにもそういう人たちがいます。特に身内からの傷ほど大きいものです。
死んだ親父も、会社こそ勤続20年で表彰されましたが、リストラで系列会社に配置転換され、会社の環境になじめずストレスを感じ続け、連日の深酒で命を縮めました。親父には仕事そのもののストレスだけでなく、私の身体障害&発達障害で嫌がらせを受けていたことに対するストレスもあったのでしょう。事実、親父の言葉による虐待は、北海道のN市からM市へ引っ越してから急激にエスカレートしました。(もちろん家族の者に対するDVもエスカレートした)
>しかし、過去を変える事はできませんし、その辛かった出来事にこだわっている限りはトンネルの出口になかなか近づけないと思います。
>簡単な事ではありませんが、その当事者を、赦し(ゆるし)てあげてください。赦すことは、不当な行いをした人を正当化する(無罪)という意味ではありません。でも、自分の手に固く握っているその出来事(うらむ気持ち)を離す事によって、心が解放されるはずです。
>ひどい事をした人のために赦すのではなくて、自分のために赦すのです。
>それから、赦すのは、感情ではなく、決心です。その人を赦したいと思うから赦せるわけではなく、まず、感情は伴わなくても、赦すという決心をすることです。
>(愛するということが、ただ好きという感情でなく、この人のために命を捨てられるという決心であるのと似ているかもしれません。)
>
>もし、今もこのような苦しい思いを我慢していると感じておられるのでしたら、それは、プラスではなくマイナスなのですから、もう我慢する必要はありません。
そうですね。
私が何時まで経っても過去を振り払うことができないのは、再三コメントしているように、小学校1年生のときに体育の授業中、平均台から転落して左腕を骨折した事故があったのと、そのときの骨折を整形外科の病院が処置を誤ったために左ひじが変形し、その古傷が36年後の今も痛むからです。
心療内科でデプロメール25mg×3を処方されていたときは、追跡者に対する恐怖感も緩和したのと同時に左ひじの古傷も痛みは徐々に緩和していきましたが、処方がトレドミン25mg×3に変わってから古傷の痛みが拡大し、今では心療内科で診察を受ける前よりも痛みがひどいです。変形した骨が神経を圧迫しているので左手がしびれることもあります。
しかもこの平均台転落事故が、いじめが拡大するきっかけになっているので、どうしても骨折の処置を行った病院も許すことができません。民事で訴えようとしても36年が経っているので公訴時効はとうの昔に過ぎています。
加えて、私が左腕を骨折したというのに転落事故の結果クラスメートに笑われた、という事実は非常に呪わしく、心療内科の助けを借りないとこのまま泥沼にはまりそうです。
だから、古傷の痛みがトリガーになってフラッシュバックから逃れられません。
本当のことを言うと、心療内科と整形外科とどちらから先に対応してもらったほうがいいのか解らないくらいです。
でも当時のいじめの加害者に復讐することを考えたら、映画「ランボー」みたいな展開になってしまうことは避けられません。
でもそんなことをしてPTSDが治るはずがないことは百も承知です。自分を苦しめた存在に報復するより、自分が苦しみから解放されるほうがずっと楽でしょう。
このサイトは、そんな私にとって苦しみから解放してくれるための水先案内人です。
そして私と同じ苦しみを味わっている人に対しては、今度は私が手助けしてあげたい。
皆さん、ありがとうございます。
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