アスペルガーの館の掲示板

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[#16856] 質問(私達が10年後、HAPPYであるために…) Cyperus 06/12/27(水) 16:05 [未読]

[#16887] ウォルフルさんへ Lao Tzu 06/12/30(土) 16:33 [未読]
[#16901] [投稿者削除] [未読]
[#16908] お返事ありがとうございます。 Lao Tzu 07/1/3(水) 15:13 [未読]

[#16887] ウォルフルさんへ
 Lao Tzu メール  - 06/12/30(土) 16:33 -

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   ▼ウォルフルさん:
返信ありがとうございます。

結論からいって、ウォルフルさんの考えは僕の考えとほぼ同じですね。
僕やウォルフルさんの言っていることは、万物に共通する宇宙の法則みたいなものですから、本来違うはずはないですけどね。
自閉圏の人は、普通の人よりもこの真理を会得しやすいのだと思っています。

僕は今、このアスペや自閉圏の人達の特性について議論するために、googleのグループ機能を使って行なわれているディスカッションに参加させてもらっています。

http://groups-beta.google.com/

ウォルフルさんとは是非これからも意見を交わさせていただきたいので、以下のアドレスにウォルフルさんのハンドルネームと参加希望と書いたメールを送って、意見交換に参加していただけないでしょうか?

beltline-aspe@googlegroups.com

僕はこのグループのオーナーではないですが、ウォルフルさんのハンドルネームをオーナーに伝えておきます。

または、右上の僕のメールアドレスにご連絡ください。
よろしくお願いします。

>アレルギーは自然界の多様性な摂理や細菌と親しく共生している部族にはほぼ皆無なのですが、環境が一様に整備された先進国に非常に多い。現在の日本でもその学校給食の食品に気を付けないといけない子供はクラスに一人か二人は必ず存在すると言います。花粉症に悩む人はここ最近数十年で急激に増えています。そしてこのアレルギーの原因が、細菌との共存共生が難しくなった現代環境にある、と言われているのです。

僕は子供の頃から花粉症がひどかったのですが、10年ほど前に2年程住んでいた南米でアメーバ赤痢という寄生虫のような細菌に感染したところ、日本に帰国したら花粉症が治ってしまいました。免疫機能が正常に働くようになったみたいです。
この菌を持っていると日本では隔離されてしまうらしいので、もちろん帰国時には駆除しましたが、体内に保有していてもそれほど害は無かったように思います。

>本来は無害なものを害あるものと誤診しみなしてしまうのが、今の現代社会です、これっていかにもファシズム的ですよね。最近メディアでも騒がれているイジメも、同じ学びの仲間なのに、彼等は集団にとって非自己とみなされて排除されます。今の社会は人間の多様性が受け入れられず、皆の居る絨毯(じゅうたん)からほんのちょっとはみだした者が否定され嫌悪され排除されます。キモいだとか、オタクだとか、ムカつくだとか浮いているだとか言われてね。

ファシズムというのは、簡単に言えば全ての人間が同じでないと気がすまない、という気持ちから生まれます。これをもっと掘り下げると、他人が自分より優れていることを受け入れられない、他人が常に自分よりも劣っていて見下されるべき存在で無ければならない、つまり自分以外の存在を敬うことができない、という偏狭で未成熟な精神構造が根底にあるのです。

いじめの問題は、大人の社会にはびこるこのファシズム的な思想が野放しになって、子供達の心に伝染してしまうから起こるのです。本来は、大人が自戒の念を持ってこのファシズム的思想の根絶に取り組んでいれば子供に伝染することも無いのですが、それがされていないので精神的に未成熟な子供達の問題として表面化してしまうのです。
ですからこの問題を改善するには、大人が自分達の問題であることを自覚し、自らの人格を成熟させなければならないのです。
そうすれば、同じ根を持つ自閉症の問題も、自然に解決に向かいます。

>残念な事には、今の社会は余りにも小綺麗に整えられて人間臭がほとんどしない様な状態にされて、いまの子供達は様々な多様性、わけても人間の多様性、人間同士のナマの多様な交流、それに出会う切っ掛けを全く欠いているという非があります。今の子供達は親子関係すら殆ど交流がなく、親は会社であくせく献じし子供と向きやってやれず、子供は子供で昔の様なダイナミックな人間交流に触れる事なくテレビゲームに夢中でその日その日を送っているのです。実に非常に閉鎖的で一面的な人間関係しか築けていないのが今の子供達なのです。結果として外部との多様な性質と直に触れる機会がない。家庭と社会を繋いでいた地域社会は既に無くなっています。

そうですね。本や教科書ばかりに頼った教育、テレビやゲームなどの仮想世界と接することが多くなり、直に人間や自然と接して本質を学べる機会が少なくなったために、本来の自然の多様性を養うことができなくなってしまったのだと思います。

>そこでイジメ(無害なものを、自己の細胞までも非自己として攻撃するアレルギーの様な症状)が問題となったんだと思います。僕は多様性を受け入れられる社会を作るという考え方はもちろん重要なのですが、いち早く解決しなければならないのが、人間の多様性に関するナマの交流です。お年寄りから子供まで地域ぐるみでお付き合いしていた昔の日本の姿にもう一度立ち返る必要が現の日本にはあるのだと思います。現代社会は機械化された社会機構に揉まれて互いに浅はかな人間関係しか持てず、人間は孤立し合い、多様性の中で呼吸が出来なくなったんだと思います。多様性を他にして人間は内部で自壊作用を引き起こすか、さもなくば病んで仕舞うのです。

日本は単一民族で地理的にも島国であり、日本語という独特の言語を用いているために、必然的に異文化との交流が閉ざされてしまい、多様性を見失ってしまうという地政学的リスクが存在します。このリスクを顕在化して打ち消すような努力をしなければ、先に述べたように多様性を失ってファシズム的思想に流されてしまうのです。

第二次世界大戦で日本の同盟国であったドイツも、オーストリアと共にドイツ語というゲルマン語系言語で、他のヨーロッパのラテン語系言語からは言語的に孤立していましたし、北方をアルプス山脈で隔てられた半島に位置するイタリアも地理的、言語的に隔離されていたので、同じような地政学的リスクを抱えています。

ドイツ語圏であるオーストリア人のアスペルガーやカナーが自閉症という特徴を発見したのも、これは別に偶然ではなく、このような言語学的、地政学的リスクによって生み出される当時のファシズム的風潮が、この特性の違いを病気として浮き彫りにしたのです。

だから、この流れを止めなければ本当に歴史は繰り返し、悲惨な結果を招くことになりますよ。

[#16901] [投稿者削除]
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   この書き込みは投稿者によって削除されました。(08/6/17(火) 18:22)

[#16908] お返事ありがとうございます。
 Lao Tzu メール  - 07/1/3(水) 15:13 -

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   ▼ウォルフルさん:
お返事ありがとうございます。
掲示板上とはいえ、新年早々ウォルフルさんのようなお考えの方とお話しができることを嬉しく思います。明けましておめでとうございます。

>例えばそれは綱渡りで右に傾斜して落っこちそうになれば、とっさに左手に重心をずらして平静を保とうとしますよね、精神とはちょうどその様な働きなんだと思います。人間がある一面的な方向に重心が傾いてバランスを見失う時、その反対の方向に向かって別の力が働く。精神とはある二つの属性のバランスであり、ある二つの属性の全体そのものなのだと思います。

ウォルフルさんの仰る通りだと思います。精神は本来、中庸に向かってバランスをとるための働きを、自ずと行なうものだと感じています。

>自閉圏の人はよく「森を見ずに一本の木だけを見ている」という様な比喩のされ方をして「細部や部分を着目して見ている」と言われます、これを自閉圏の特有な性格だと専門家は皆申し合わせた様に口を揃えて言いますが、実はここに一線があるのです、そう、自閉圏の人間は細部に特に着目して仕舞う故にこそ、また全体(Lao Tzuさんの仰る宇宙真理の様なもの)をも同時に見るという能力を授かる、という事なのだと思います。

はい、僕もこの比喩は一面的な捉え方に過ぎないと思います。
自閉圏の人間が、所謂「木を見て森を見ず」と言われてしまうのは、その時点では未だ森を見る心の準備が出来ていないからというだけで、成長して色々なものが受け入れられるようになると、「森を見ながら木を見る」ことができるようになってくると思います。

>また、いかに人間が不完全な存在たるべく宿命づけられているかを理解する者は、畏敬の感情を宗教的感覚として持ちます、神や自然や宇宙のある姿は完全であり調和そのものだからです。日本人はもともと「天」という感覚を持っていました、そうやって「おてんとう様」は不完全な存在でしかない自分達を戒め、人間の本来あるべき調和ある姿に導いていたのです。

本当にそうですね。
これは別に宗教を宗教として信仰していなくとも、本当に科学を理解している者ならば理解できることだと思います。人間がいくら科学技術を発達させようとも完全な存在には成り得ないことが実感できるはずだと思います。日本は科学技術で優位と言われていますが、実際の所この宗教的感覚を持ち合わせる人が表に出ることが少ないので、大多数が単に科学技術をカルトのように信仰しているだけなのでしょうか。

>強い光のある所には強い影があります、よく「光と闇」だとかいった言葉がその時代背景を語る上で重要なキーワードとして言われたりしますよね。この光と闇の二つの関係は、もともと人間が精神的な存在であるという一つの証明なのだと思います、光があればこそ闇がある、闇があればこそ光がある、この相互の関係が成り立つところに、自然や人間存在があるのです。

科学技術を妄信してしまっている暗い闇がこの日本にはあるからこそ、自閉症を取り巻く問題やいじめ、教育問題などに光があたるのでしょうね。

>僕はクラシック、わけてもモーツァルトが特に好きで平素より夢心地にて座って聞いているのですが、短調の楽曲が何とも言えず好きです。そこで長調は伸びやかで溌剌と明るい曲なのに対して、短調は暗く何処と無く哀愁感に憂いを秘めた曲と言う訳なのですが、日本人はこの短調曲を特に好んでいると言います。長調は歓喜を表現するのに向いていて、短調は悲しみを表現するのに向いている。ところが日本人の音覚は西洋人とは変わっていて、例えば演歌にも見られる様に、短調の曲想の中で、人生の「喜び」を歌い上げております。日本古来の万葉の詩人達は好んで「かなし」という言葉を度々も使っている、この「かなし」意味は人生のはかない無常感を人生の前向きな態度として直知する為の重要な鍵だったそうです。しかしこういう感覚を西洋人は持っていないそうなのです。ですから西洋人は人生の喜びを表現するのは明るく伸びやかな長調でなければならず、短調の曲はただ暗く、おどろおどろしく、音楽に楽しみを求める大衆の前で演奏するには余りにも不向きなので敬遠され勝ちだったそうなのです。

これも宗教観の違いなのかもしれないと感じます。西洋人は、キリスト一人に罪を負わせることで、自分達の罪を忘れ去り喜びに浸ることを選んだのかもしれませんが、東洋人は昔から自分達で少しづつでも罪の意識を分って、自分を戒めながら生きてこようとしたのかもしれません。
                            
>ファシズムは自我が人間にとってもっとも価値あるものとされる自我至上主義にも似ています。自分達が今ただ生きているという事実だけが実存性の最高値とされ、従って人間死んで仕舞っては無に帰する訳だから、過去に死んでいった人間から学ぶ事等自分達には何もないんだ、今自分が生きている事実こそが「真実」なのに何故過去から学ぶ必要があるのか、と。ところで「自我」という存在に高尚的価値を置く事は、人間の「精神」の働きを全く無視した事であり、精神とは相容れないものなのだと思います。

>人間はまずもって精神の存在として定められているのであり、自己の精神を一度も認識した事がない人が、自我至上主義に陥り、ファシズムに陥るのです。

僕は本から勉強することが出来ないので哲学などの学問を学問として勉強したことがありません。ですから言葉の意味も百科事典で調べた程度の知識しかないのですが、ウォルフルさんが仰る自我至上主義やファシズムは、例えばユングなどの精神分析用語で言えば、自我インフレーションと呼ばれる心的現象なのではないかと考えています。

>僕はどうやらLao Tzuさんに誘われて仕舞っている様です、さてどうしましょうか、というのが本音です。僕の守備範囲は哲学も持っていて、従って「アスペや自閉圏の人達の特性を主題とした議論」に参加するには申し分ない条件が僕には揃っているだろうという訳なのですが、いまいちピンと来ません。というのは僕が自閉圏に属する人間にも関わらず、自分のその特性のみを抽出して考える事に関しては余りにも冷淡な感情しか持っていない所から発しているのです。それは丁度自分の性格が僕という主体性にとっては付随品でしかない様に、僕のその性格だけを取り上げて思考する事には全く興味が持てないのです。つまり、付随品という部分は僕の主体性という全体と少しも釣り合っていないじゃないかというのが僕の考えなのです。また、全体の中の一部分と一部分もまた少しも釣り合っていない、しかし全体と全体は常に釣り合っていますから、この条件に限って提起される議論になら参加させてもらってもいいです、この条件を他にしたいかなる条件も結局は無駄なものでしかないので。この点はLao Tzuさんなら解ってくれると思います。

自閉症の特性についての議論などと、たいへん失礼なお誘いをしてしまい申し訳ありません。ウォルフルさんのような方には特に、このような議論などは下世話に聞こえてしまうということは十分にお察しいたします。
僕自身も、高機能や低機能などと人間の機能ばかりを主題として取り上げて議論することには意義を感じていません。
しかし、狭い世界に住んでいる僕は、今までウォルフルさんのような方とお会いしたことがなかったので、議論をしながら理解者を増やしていくという方法しかないのかと思っていたのです。

確かに、お誘いしたグループは20代の若い人で構成されているためか、全体を見ながらの議論ができるというレベルには程遠い状態です。
ウォルフルさんの仰る付属品というのは、人間の自我の一部分の機能と理解していますが、自己を一度も認識したことが無い若い人達にとっては、自我の機能を客観的に捉えることが難しいので、どうしても一部分の機能について主観的に意見を述べ合うことに終始してしまいがちです。ですからウォルフルさんのような方から見れば無駄な議論であることは御尤もです。

もう議論に参加してくれなどというお願いはしませんので、よろしければ全体同士のお話を個人的にさせていただけないでしょうか?
もちろん何か結論を出すための議論などという拙速なことを期待しておりませんので、ご安心ください。

メールをお待ちしています。よろしくお願いします。

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