アスペルガーの館の掲示板

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[#16856] 質問(私達が10年後、HAPPYであるために…) Cyperus 06/12/27(水) 16:05 [未読]

[#16908] お返事ありがとうございます。 Lao Tzu 07/1/3(水) 15:13 [未読]

[#16908] お返事ありがとうございます。
 Lao Tzu メール  - 07/1/3(水) 15:13 -

引用なし
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   ▼ウォルフルさん:
お返事ありがとうございます。
掲示板上とはいえ、新年早々ウォルフルさんのようなお考えの方とお話しができることを嬉しく思います。明けましておめでとうございます。

>例えばそれは綱渡りで右に傾斜して落っこちそうになれば、とっさに左手に重心をずらして平静を保とうとしますよね、精神とはちょうどその様な働きなんだと思います。人間がある一面的な方向に重心が傾いてバランスを見失う時、その反対の方向に向かって別の力が働く。精神とはある二つの属性のバランスであり、ある二つの属性の全体そのものなのだと思います。

ウォルフルさんの仰る通りだと思います。精神は本来、中庸に向かってバランスをとるための働きを、自ずと行なうものだと感じています。

>自閉圏の人はよく「森を見ずに一本の木だけを見ている」という様な比喩のされ方をして「細部や部分を着目して見ている」と言われます、これを自閉圏の特有な性格だと専門家は皆申し合わせた様に口を揃えて言いますが、実はここに一線があるのです、そう、自閉圏の人間は細部に特に着目して仕舞う故にこそ、また全体(Lao Tzuさんの仰る宇宙真理の様なもの)をも同時に見るという能力を授かる、という事なのだと思います。

はい、僕もこの比喩は一面的な捉え方に過ぎないと思います。
自閉圏の人間が、所謂「木を見て森を見ず」と言われてしまうのは、その時点では未だ森を見る心の準備が出来ていないからというだけで、成長して色々なものが受け入れられるようになると、「森を見ながら木を見る」ことができるようになってくると思います。

>また、いかに人間が不完全な存在たるべく宿命づけられているかを理解する者は、畏敬の感情を宗教的感覚として持ちます、神や自然や宇宙のある姿は完全であり調和そのものだからです。日本人はもともと「天」という感覚を持っていました、そうやって「おてんとう様」は不完全な存在でしかない自分達を戒め、人間の本来あるべき調和ある姿に導いていたのです。

本当にそうですね。
これは別に宗教を宗教として信仰していなくとも、本当に科学を理解している者ならば理解できることだと思います。人間がいくら科学技術を発達させようとも完全な存在には成り得ないことが実感できるはずだと思います。日本は科学技術で優位と言われていますが、実際の所この宗教的感覚を持ち合わせる人が表に出ることが少ないので、大多数が単に科学技術をカルトのように信仰しているだけなのでしょうか。

>強い光のある所には強い影があります、よく「光と闇」だとかいった言葉がその時代背景を語る上で重要なキーワードとして言われたりしますよね。この光と闇の二つの関係は、もともと人間が精神的な存在であるという一つの証明なのだと思います、光があればこそ闇がある、闇があればこそ光がある、この相互の関係が成り立つところに、自然や人間存在があるのです。

科学技術を妄信してしまっている暗い闇がこの日本にはあるからこそ、自閉症を取り巻く問題やいじめ、教育問題などに光があたるのでしょうね。

>僕はクラシック、わけてもモーツァルトが特に好きで平素より夢心地にて座って聞いているのですが、短調の楽曲が何とも言えず好きです。そこで長調は伸びやかで溌剌と明るい曲なのに対して、短調は暗く何処と無く哀愁感に憂いを秘めた曲と言う訳なのですが、日本人はこの短調曲を特に好んでいると言います。長調は歓喜を表現するのに向いていて、短調は悲しみを表現するのに向いている。ところが日本人の音覚は西洋人とは変わっていて、例えば演歌にも見られる様に、短調の曲想の中で、人生の「喜び」を歌い上げております。日本古来の万葉の詩人達は好んで「かなし」という言葉を度々も使っている、この「かなし」意味は人生のはかない無常感を人生の前向きな態度として直知する為の重要な鍵だったそうです。しかしこういう感覚を西洋人は持っていないそうなのです。ですから西洋人は人生の喜びを表現するのは明るく伸びやかな長調でなければならず、短調の曲はただ暗く、おどろおどろしく、音楽に楽しみを求める大衆の前で演奏するには余りにも不向きなので敬遠され勝ちだったそうなのです。

これも宗教観の違いなのかもしれないと感じます。西洋人は、キリスト一人に罪を負わせることで、自分達の罪を忘れ去り喜びに浸ることを選んだのかもしれませんが、東洋人は昔から自分達で少しづつでも罪の意識を分って、自分を戒めながら生きてこようとしたのかもしれません。
                            
>ファシズムは自我が人間にとってもっとも価値あるものとされる自我至上主義にも似ています。自分達が今ただ生きているという事実だけが実存性の最高値とされ、従って人間死んで仕舞っては無に帰する訳だから、過去に死んでいった人間から学ぶ事等自分達には何もないんだ、今自分が生きている事実こそが「真実」なのに何故過去から学ぶ必要があるのか、と。ところで「自我」という存在に高尚的価値を置く事は、人間の「精神」の働きを全く無視した事であり、精神とは相容れないものなのだと思います。

>人間はまずもって精神の存在として定められているのであり、自己の精神を一度も認識した事がない人が、自我至上主義に陥り、ファシズムに陥るのです。

僕は本から勉強することが出来ないので哲学などの学問を学問として勉強したことがありません。ですから言葉の意味も百科事典で調べた程度の知識しかないのですが、ウォルフルさんが仰る自我至上主義やファシズムは、例えばユングなどの精神分析用語で言えば、自我インフレーションと呼ばれる心的現象なのではないかと考えています。

>僕はどうやらLao Tzuさんに誘われて仕舞っている様です、さてどうしましょうか、というのが本音です。僕の守備範囲は哲学も持っていて、従って「アスペや自閉圏の人達の特性を主題とした議論」に参加するには申し分ない条件が僕には揃っているだろうという訳なのですが、いまいちピンと来ません。というのは僕が自閉圏に属する人間にも関わらず、自分のその特性のみを抽出して考える事に関しては余りにも冷淡な感情しか持っていない所から発しているのです。それは丁度自分の性格が僕という主体性にとっては付随品でしかない様に、僕のその性格だけを取り上げて思考する事には全く興味が持てないのです。つまり、付随品という部分は僕の主体性という全体と少しも釣り合っていないじゃないかというのが僕の考えなのです。また、全体の中の一部分と一部分もまた少しも釣り合っていない、しかし全体と全体は常に釣り合っていますから、この条件に限って提起される議論になら参加させてもらってもいいです、この条件を他にしたいかなる条件も結局は無駄なものでしかないので。この点はLao Tzuさんなら解ってくれると思います。

自閉症の特性についての議論などと、たいへん失礼なお誘いをしてしまい申し訳ありません。ウォルフルさんのような方には特に、このような議論などは下世話に聞こえてしまうということは十分にお察しいたします。
僕自身も、高機能や低機能などと人間の機能ばかりを主題として取り上げて議論することには意義を感じていません。
しかし、狭い世界に住んでいる僕は、今までウォルフルさんのような方とお会いしたことがなかったので、議論をしながら理解者を増やしていくという方法しかないのかと思っていたのです。

確かに、お誘いしたグループは20代の若い人で構成されているためか、全体を見ながらの議論ができるというレベルには程遠い状態です。
ウォルフルさんの仰る付属品というのは、人間の自我の一部分の機能と理解していますが、自己を一度も認識したことが無い若い人達にとっては、自我の機能を客観的に捉えることが難しいので、どうしても一部分の機能について主観的に意見を述べ合うことに終始してしまいがちです。ですからウォルフルさんのような方から見れば無駄な議論であることは御尤もです。

もう議論に参加してくれなどというお願いはしませんので、よろしければ全体同士のお話を個人的にさせていただけないでしょうか?
もちろん何か結論を出すための議論などという拙速なことを期待しておりませんので、ご安心ください。

メールをお待ちしています。よろしくお願いします。

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