|
▼kokaさん:
>ただ、診断名を貰うことで諦め、「できない」とそれを理由にしている人が多いと感じたのでそのことについて書いたまでです
案外、診断名をもらうことで諦めているように受け止められるような人の事情としては、長年、いじめや家庭内不和・学業不振・ミスマッチによる離職など、過酷な人生を独りで背負って生きてきて、その上に『あなたは発達障害者なんです!』という宣告を受けたということが多いのだと思います。もう『これ以上何を努力すればいいの(>_<)』と、限りなく暗黒に近いくらいに意気消沈していて、いやアンデルセンの『雪の女王』に出てくる『悪魔の鏡の破片』が心臓に降り注いだ人のように心が凍り付いてしまっているような感じといってもいいでしょう。 事実、僕が知っている限り、3人のASの成年者の方が、告知後に、自らの首に縄をかけこの世を去っています。
『自分がこの世で生きていけるかどうか?』という疑心暗鬼さから、『気持ちを受け止めてくれる仲間を得られるかどうか…』ということに、メンタル系障がい者の場合は、安心感のポテンシャルが強く働き、このことがスレが『愚痴っぽく』なってしまう原因なのでしょう。
最近、『ピアカウンセリング』という当事者活動が注目されていますが、その基本ルールの中には、『決め付けや相手のあら捜しをせずに、白紙の心で・同じ目線で、その人の抱えているトラブルの解決の糸口を探しましょう』ということがうたわれています。
前向きに生きていけるかどうか…それはある意味、人生の鏡というかモデルというものに、その人が恵まれているのかということでも大きく左右されてきます。
百の批判の弁より、わずか一つの感謝とか『こうするとうまくいくんじゃない?』という声かけのほうが、凍った心を溶かす暖かい涙になるものなんです。
そして、『また文化をみんなで一緒に築こうよ』という力の源になっていくと思います。
>あと、お聞きしたいのですが。。
>人間の限界点って一体、どこにあるんですか?
>私の場合は、心と身体に症状が出始めた時が「その時」の限界点です
>でも、また回復すればその限界点は延びます
>なので、「通過点」として捉えることは無理なのでしょうか?
>その時は限界点だった
>だけれど、時期が経つと限界点ではなくなっている
障害というものには、本人の努力や工夫で乗り切れるものと、どうあがいてもぬけられないものがあります。
だから僕個人としては、『克服するもの』という捕らえ方は、『命がけで身体を壊してまでも…』という感じがしてしまうので、すごく違和感があります。
そうではなくって『つき合うもの』という捕らえ方のほうが、『そのとき自分ができる精一杯のことをしていれば、いつかは必ずHAPPYなことが来る(^_〜)』という期待感がもてるので、なびかざるを得ないのです。
|
|