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やこさんの彼が、どれだけ私と共通するか分かりませんが、
私自身に当て嵌めて考えました。
見当外れでしたら済みません。
一緒に食事をするというのは、食べ物を一緒に食べるというだけではなくて、
それを作った気持ちも味わって欲しい、ということが含まれているんですよね。
手作りでない場合も、同じ物を食べて、この味、この甘さ、
辛さを、今、相手も味わっているんだなと感じる。
同じ場所で同時に食事という行為をしているだけではなくて、相手の気持ちも味わっている。
そのように自分が味わっているように、相手も味わっていることを確認する。
そういう意味に、私は長い間、気付きませんでした。
相手が忙しい時は自分が調理を担当すれば責任を果たしていると考えていました。
疲れているのに作ってくれたんだ、と味わう方が喜ばれるだろうなんてことは、全く想像もしませんでした。
相手の気持ちが見えないという事は、ほんとに酷いことです。
共感性の欠如といってしまえば、それまでですが。
ただ、私自身への願望的推測もこめて言えば、
共感性が不足しているということは、共感の拒否ではないと思うのです。
指摘されないと分からない想像力の欠如なんて、言い訳できませんが、
相手の気持ちが具体的に理解できた時は嬉しいと思うのです。
パートナーの気持ちへと意識を誘導してもらって、
ああ思って、そう思って、こう感じているという機微まで教えて欲しいなど、
私はあんたのママじゃない、と呆れられても当然ですが。
たとえば、クイズ形式は、今回はダメですか。
「この料理で、私が最も気をつけたのは何でしょう」
「料理している間、私は何を考えていたでしょうか」
「今日、呼んだ最大の期待は何でしょう」
相手の気持ちが見えていないこと自体さえ、明示されないと分からないというのは情けないのですが、見えれば、見えたと思えることは喜びだと思います。
見えていないことを、身内に関しては、意識していないのです。
だから、自分では気遣っているつもりでさえいます。
問われて答えられない事態に直面して、知らないことを初めて自覚することがありました。
やこさんの書き込み、他の方々のレスを読むと、パートナーへの深い愛情にうたれます。
そうした書き込みを前に、相手の気持ちが見えないなどという話は恥ずかしく情けないです。
でも、だからこそと書きたいのですが、
どうか、指摘というよりも、あぁそうなんだと、納得して喜べるような、意識の誘導をお願いしたいです。
やこさん達の哀しみと同列には語れるはずもありませんが、
病的な鈍感さを手遅れになってから後悔する側も哀しいものです。
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