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ひなたさん、早速のレスをありがとうございました。
>「躾」というのは、人として最低限出来ていなければならないと考えられること一般なのだと捉えています。
最低限できていた方がよいことではあります。
>よって、それすら完璧に出来ていないというのは人間たる資格が無いということと同義になると思います。
>ですから、人格否定にも感じてしまいます。
「人間たる資格がない」という発想が飛躍のし過ぎだと思いますね。
「注意すること=ひなたさんの存在を否定したい。嫌いだから言う」ではないです。
相手は、今後改めてほしいと思っているだけではないでしょうか。
ひなたさんが他の場で注意されたり、恥ずかしい思いをしないように言ってくれる場合もあると思います。
>親の躾がなっていない、といわれる場合、自分の行いの所為で親までも責められていると思い、悲しくなります。
先天的な機能障害のせいなのに、「親の躾がなっていない」と責められるのは、辛いことですね。
でも、私は発達障害の宿命だと思っています。
だって、子どものうちならともかく、成人してしまえば、理由がどうであろうと障害は免罪符になりませんから。
他人に何か言われても、落ち込みません。
それよりも、少しでも改めて、生きやすくなる方がいいです。
だから、よく注意されることや、自分で直したいと思うことがあれば、身近な人に「私はこういう傾向があるから、見かけたら指摘してほしい」と頼んでいます。
「障害を理解してもらう」とは、「自分や親のせいではないから、見逃してもらう」ことではなく、「自分がやりやすいように、サポートしてもらう」ことだと思っています。
(発達障害のこと自体は話していません)
他者とスタート地点や努力する内容が違う。
ただ、それだけのことです。
ひとつでもできることが増えたら、うれしい。
だから、人生終えるまで、小さな目標を持ち続けるつもりです。
一気に完璧は目指しません。
ひなたさんは、「人格否定」の部分にこだわっていらっしゃるようですが、私のレスの他の部分については、どう感じられたのでしょうか。
一番伝えたかったのは、次の部分なのですが。
>躾がなぜ大事かといえば、自分の立ち居振る舞いで周囲の人に不快感を与えることなく、気持ちよく過ごせるようにするためです。
>注意されたら、「すみません。気をつけます」と謝罪することが大切だと思います。
>「自分は至らない人間なんだ」とマイナスに考えるよりも、「躾を身につけることで、お互いに気持ちよく過ごせるんだ」とプラスに考えた方がいいと思いますよ。
躾があたり前のように身についている人は、その努力が目に見えにくいですよね。
でも、相手に行儀作法が身についているからこそ、自分も気持ちよく過ごせているということは、日常のなかで多々あるのだと思います。
マナーや礼儀作法とは、つまりは周囲を思いやっての行為。
その思いやりを還していくつもりで自分も身につけていこうと考えた方が、人生も楽しくなります。
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