アスペルガーの館の掲示板

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[#21611] It is not a disease, it is a way of life Ryu 07/8/22(水) 1:00 [未読]

[#21816] POLINECIAさんへ Ryu 07/9/2(日) 2:31 [未読]
[#21824] Re:POLINECIAさんへ(訂正) POLINECIA 07/9/2(日) 18:01 [未読]
[#21855] Re:POLINECIAさんへ Ryu 07/9/3(月) 21:38 [未読]

[#21816] POLINECIAさんへ
 Ryu メールホームページ  - 07/9/2(日) 2:31 -

引用なし
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   ▼POLINECIAさん:

こんばんは、初めまして。ご意見ありがとうございます。

>>お二方とも意見の違いこそあれど、
>アスペルガー理解には
>豊富な臨床経験あるいは他の当事者と関わった経験が必要
>との認識を共有されているとお見受けいたします。
>しかし、本当にそうなのでしょうか?

えーと僕の場合は、秋桜様に臨床経験を訪ねられたので答えましたが、あまり自分の肩書きや経験を語って自分の意見に威厳を持たせるような説き伏せ方は好きではありません。本来ならば僕は、単に当事者としての立場から自己主張したものがきちんと受け入れられればそれに超したことはないと思っています。ただこの掲示板を見ていると、例えば「自分でも何を言っているか分かっていない自閉症者の言うことは聞くに足りない」「当事者よりも専門知識を持った専門家の方が当事者のことをよく分かっている」とでも言わんばかりの発言(ちょっと極端に書いています)も過去にあったような記憶があるので、少しは権威の衣も身につけなければ話も聞いてもらいにくいのかな、と思っています。まあ僕にとっては権威の衣なんて裸の王様の透明な服を着ているようでスースーしますけど。

ただこれは自閉か定型かに依らず誰にでも言えることだと思いますけど、自分のことを客観的に見て自分自身を理解するためには、ある程度他人という鏡に自分自身を映して観察してみる必要はあると思います。他人というのは別に同じ自閉圏の人でなくても構わないし、人間でなくても構わないと思います。僕の場合はネコでした。(こんなこと言っても僕が何を言っているのか分かってくれない人も多いかもしれませんが、分からなかったら気にしないでください。)
だからそういう意味では、臨床経験や他の当事者との関わりも自分を客観視するいい材料にはなると思います。

>海外の当事者運動の動向を見る限り、
>アスペルガー当事者が支援の世界の解釈体系とは一線を画して
>自らの体験としての障害・団体独自の見解を提示することは
>決して珍しいことではございません。
>また、それらを語るのに特に臨床経験が必要との話も
>聞いたことはございません。
>むしろ、専門家でなく臨床経験のない者がアスペルガー理解について
>語るなという態度こそが問題にされる場合さえございます。

そうですね。僕が連絡を取っているような団体でもことさら専門家の意見を仰がなければ当事者が自分自身について語れないなんてことは全くありません。
例えば一つ前の返信[#21752]でご紹介したANIという団体のホームページを見るとこう書いてあります。

The best advocates for autistic people are autistic people themselves.
「自閉症者にとって最良の擁護者は自閉症者自身だ。」

そしてこの団体の創始者であるJim Sinclairという人は最初にご紹介した新聞記事でもこう言っています。(長いので訳しません。)

"It's just that most of them were talking in terms of advocacy for rather than by autistic people. They were mostly parents, speaking up about what they thought were important issues and they did a lot of good things, in terms of advocating for more community services and opposing things like the use of [harsh behavioural] 'therapies'. But I think I was one of the first autistic people to promote the idea that autistic people can and should speak up for ourselves."

>あたし自身は、
>それが当事者の間で語られていることなのか・
>臨床家によってなされた説明なのか・
>自己基準なのかを含めて出典をはっきりさせること、
>いかなる説明であれ、それはアスペルガー当事者を一面からしか
>捉えることには成功していないということ
>さえ踏まえていれば、
>説明は誰がやってもいいことだと理解いたしますが
>如何なものでしょうか?

そう思います。

>※一面しか捉えられていないというのは、
>どんな臨床家のもと・支援団体・当事者同士であっても
>それぞれのカラーがあり、
>そこには非常によく似た特徴・世界観を持った当事者が
>集まってきやすいという意味でございます。
>たくさんの当事者と関わっているということは、
>必ずしもアスペルガーを全体的に理解している
>ということを意味しないのではないか、と。

ここはPOLINECIAさんの仰ることを僕がちゃんと読み取れていないかもしれないのでお尋ねします。理解できているか自信がありませんが、例えばこういう風にも言い換えられるでしょうか?

言葉に表される部分というのは意識のほんの一部であり、必ずしも言葉にした内容が意識全体を言い表しているとは言えない。だからどのような集団の主張も、その集団の意識で把握しているものの一面しか表していない。

>また、これは対話形式の問題なのですが、
>意見のやりとりで極端な経験主義
>(「あなたには経験がないのだから、語るべきではない」的な態度)
>に陥るのはあまり好ましいことではないと考えてございます。

そうですね。僕も会社勤めの頃は先輩からよくこういうことを言われて悔しい思いもしましたしね。自分はそうなりたくないと思っています。

>(補足)
>一方で、あたしの仲間内では
>これらの主張が別種の能力主義に陥っているのではないか、
>という議論がなされたことがございました。
>AS当事者が自らのあり方・生き方を肯定するのに、
>自分たちは『能力が高いんだ』『社会に参加できているんだ』
>『社会の役に立っているんだ』『別の形でできる人間なんだ』
>ということを強調する必要があるんだろうか?
>あるいは、できる・役に立つ・参加できているなんてことに、
>誇りを感じる必要があるんだろうか?と。
>
>「できる」ということの強調,個人的な困難の否定,
>知能検査をはじめとする支援の評価尺度の否定といった主張には、
>その裏返しとして「能力に対する強い憧れ」という側面がない訳でも
>ございません。
>
>この点については、Ryuさんの知っている範囲で、
>議論などはございますか?

僕自身は他人とこういう内容の議論をしたことはありませんが、少し考えを述べてみます。

僕はまず前提として、別に自閉症者が「出来る人間」とか「役に立つ人間」ということを社会に対して主張しないで済むならしないに越したことはないと思います。

また逆に「出来ない」ということで社会に役に立っている場合も多々あると思います。もしみんなが「出来る人」になってしまって超効率的な社会が形成されどんどん文明の発達が加速していったとしたら、人類はこの地球上で他の生命体と共存して暮らしていけなくなると思うからです。つまり「出来ない人」というのはこの人類の文明が自然界からスピンアウトしてどこかに飛んでってしまうのを防ぐための重しみたいな役割も担っていると思うのです。

それから人間は、もしみんなが同じ認知学的特性だったならば、みんな同じようなことばかり考えているわけですから、他人が何を考えているのか考える必要がなくなって他人のことを考えなくなってしまうと思うのです。みんなそれぞれに考え方の違いがあるからこそ、他人に対して興味がわくし腹が立つし可笑しいし悲しいし辛いんだと思います。そのためにも認知学的特性に違いがあるということは必要なことだと思います。

ただ「出来る」ということを主張しなければいけなくなってしまったのは、人間が診断基準という物を作って自分たちに当てはめてしまったからです。本来ならば人類を二分するような診断基準などないに越したことはなかったと思います。

以下のリンクにあるPDFファイルを開いてみてください。

http://submariner-spirit.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_4035.html

自然界にある物は全てこのような分布曲線に従ってバラツキがあると思います。そしてこれは人間の認知学的特性についても例外ではありません。例外であるという方が不自然です。ただ「それでも一応ある程度は同じような考え方をしている生き物だ」として扱えるのは人間が言葉という道具を持っているからです。
本来なら自分で何かを発見できて生活を豊かにすることができる人も居ますが、何も発見できずにそのままの生活を送る人も居ます。しかし人間は言葉を使うことによって他人から知恵や発明を受け継ぎ利用することが出来るので、自分で何も発見できない人でもできる人とある程度同じように振る舞えてしまうのです。言葉を授けることによって行われる今の学校教育は、ほとんどこのためにあると言えます。

言葉は、というか人間の文明は、少数の人達が発明した物を言葉という道具を使って複製し多数の人達で同じように利用できるようにするためのものであると言えます。つまり本来は認知学的にバラツキがある人間がみんな同じように暮らせるようにするために言葉を使い始めました。

それなのに人間は、その言葉によって成り立った科学によって、今度は逆に自分たちを分断する基準を作ってみんなが同じように暮らせないようなシステムを作ろうとしているのです。または認知学的に違う人達と同じように暮らすことを放棄して、少数派を作り替え多数派に合わせようとしているのです。つまり分布曲線をまっすぐな一本の棒に書き換えようとしているのです。

でも自然界の物は全て、この分布曲線に従っていなければなりません。分布曲線に従ってばらついているからこそ種としてのバランスが取れ生態系を維持しているからです。自然界で人間だけが例外であるということは考えられません。一見同じように見えていたのは、それは言葉によって違いが覆い隠されていたからに過ぎないのです。

認知学的特性が違う者達が同じように暮らせるようにするために言葉を使った人間が、今度は自分達を分断して同じように暮らせないようにするために言葉をつかう。または自分達を窮屈にして作り替えようとしている。ここに文明の自己矛盾があると思うのです。

僕はこのバカバカしい自己矛盾を打ち消すために主張しているんです。分布曲線上にいる一人の人間として、言葉を武器として使うのではなく便利な道具として使うべきだと言っています。

まとまりがなくてごめんなさい。能力主義に陥っているのかどうかは明確に答えられなかったかもしれませんが、POLINECIAさんの問いに対するお答えになったでしょうか?

Ryu

[#21824] Re:POLINECIAさんへ(訂正)
 POLINECIA  - 07/9/2(日) 18:01 -

引用なし
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   丁寧なご回答ありがとうございました。
アメリカの当事者団体の主張だけでなく、
Ryuさん自身の生のご意見も伺えて非常に有意義でした。

テーマを対話形式とRyuさん自身の特性に対する持論に分けて
レスしてまいりたいと思います。

1.対話形式

▼Ryuさん:

>ただこの掲示板を見ていると、例えば「自分でも何を言っているか分かっていな
>い自閉症者の言うことは聞くに足りない」「当事者よりも専門知識を持った専門
>家の方が当事者のことをよく分かっている」とでも言わんばかりの発言(ちょっ
>と極端に書いています)も過去にあったような記憶があるので、少しは権威の衣
>も身につけなければ話も聞いてもらいにくいのかな、と思っています。

時々、この掲示板でトラブルになったスレッドが
どんな論理空間に支配されているのかを自分なりに分析しておりますが、
そのような側面もあると認識してございます。

・当事者の発言を生身の声として受け止めず、
「認知に歪みないし偏りがあるからだ」と歯牙にもかけない言説。

・支援の有資格者の見解を絶対視するような言説

は少なからずございますね。(イチイチ証拠は挙げていきませんが)

ニキ・リンコさんの単著
(『自閉っ子、深読みしなけりゃうまくいく』)では
アメリカではこの状況がさらに深刻と伺っております。
Ryuさんが紹介しておられるANIの言説活動というのも
専門家主義パターナリズム,生の管理の打破
(支援者や保護者が当事者の生き方,価値観までも決定することへの抵抗)
当事者が支援諸科学に縛られず自らの世界観を自由に語る空間の確保
といった出発点があると認識してございます。

しかし、だからこそ、
支援者,保護者などの非専門家批判
(専門家ではない者が好き勝手に語っている)
に付き合って、「自分にはこういう経歴や肩書きがある」
と強調する必要はないとも思うのですよ。
むしろ相手の世界の価値観(専門家主義)に巻き込まれてしまい、
本来の当事者の語りの意義が失われてしまうのではないか、と。

>だからそういう意味では、臨床経験や他の当事者との関わりも自分を客観視する
>いい材料にはなると思います。

これについては異存ございません。
相手の言っていることを批判的に論じる場合でも、
相手の議論を徹底して知り尽くすことは大切だと思うので。

>言葉に表される部分というのは意識のほんの一部であり、必ずしも言葉にした内
>容が意識全体を言い表しているとは言えない。だからどのような集団の主張も、
>その集団の意識で把握しているものの一面しか表していない。

どちらかと言えば、類は友を呼ぶという話だと思ってください。
臨床家さんであれば自分の得意領域があって、
その結果としてたまたまその臨床家の周りに集まる当事者さんは
非常によく似た共通点を持っているという場合もございます。
当事者グループであっても、
ウェブ・サイトでグループの方針を示しておけば、
その方針に共鳴するような当事者さんが多く集まります。
従って臨床家の説明であれ、当事者の語りであれ、
いくら数多くの当事者と関わっているとは言っても
全体像を理解するには至らないという話でございます。
あたしの身の周りにいる当事者さんの中にも、
「別に支援諸科学で発達障害についてどんな事実が明らかにされ
提言されていたとしても、
俺がそれに従わなければならない理由はない。」
(ヴィトゲンシュタイン風に言うと
「科学的事実はいかなる行動原理にはなりえない」)
という手合いが多うございます。
しかし、だからと言ってAS当事者がそういう奴ばかりとも
限らない訳です。

2.Ryuさんの持論について


>僕はまず前提として、別に自閉症者が「出来る人間」とか「役に立つ人間」とい
>うことを社会に対して主張しないで済むならしないに越したことはないと思いま
>す。

Ryuさん自身がそういう観点を持っていることを知り、
非常にうれしく思います。

「アスペルガー当事者は有能だ」
という言説の出所はハンス・アスペルガーにあると言われます。
ナチス政権下のドイツで臨床家として活動していた
H・アスペルガーはナチスによる障害者安楽死計画
(10万人の障害者が犠牲になりました)が進行する中で、
自らが担当していた子どもたちが迫害されるのを恐れ、
彼らが有能で国家の役に立つことを強調したと言われています。
しかし、ナチスから「有能ではない」
とみなされた障害者10万人はやはり殺されてしまいました。
また、あたしが掴んでいる情報では、
日本の省庁でもAS当事者の就労を支援の取り組みは
それなりに始まっているのですが、
その理由は「『軽度』であり、『重度』よりも就労が実現しやすそうだから」
というもの。
悪く言えば、就労の実現が難しいと見なされた当事者たちは
苦難の道を歩むことになりそうです。

当事者の所得保障の実現、迫害のリスクを防ぐという意味で
「能力の高さ」を強調するという戦略は
極限下では必要なのかもしれません。
しかし、当事者自身が自らそれを信仰してしまう事態は
あまり好ましいものではないかもしれないと考えてございます。
(どうやら、Ryuさんは信仰しておられないようですね。)
能力・役に立つ・適応できているといった価値観
に当事者が囚われすぎないようになることも、
一つの課題とは言えるでしょう。

認知特性に関するお話は非常に面白く
拝聴させていただきました。
学問によって学問に対抗するという戦略。
今回の件に見られるように水掛論に巻き込まれるリスクは高う
ございます。
(あなたには臨床経験があるのか、
学会で認められているのか、
専門家であり、有資格者なのかと言った専門家主義的議論に)
しかし、是非とも深めていってくださいな。

当事者の語りの世界に正答も誤答もございません。
それが学問的な方法でなかったとしても、
どこまで常識を疑い、問題を抉り出し、
とことん突き詰めて考えることができたかといったことに
価値がございます。
守ることは人に語る時の対話のルールぐらい。。。

ご健闘を祈ります。

[#21855] Re:POLINECIAさんへ
 Ryu メールホームページ  - 07/9/3(月) 21:38 -

引用なし
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   ▼POLINECIAさん:

スレッドが移ったようですが、POLINECIAさんのメールアドレスも存じませんし、僕の投稿の締めとしてここに返信します。

>1.対話形式
>
>しかし、だからこそ、
>支援者,保護者などの非専門家批判
>(専門家ではない者が好き勝手に語っている)
>に付き合って、「自分にはこういう経歴や肩書きがある」
>と強調する必要はないとも思うのですよ。
>むしろ相手の世界の価値観(専門家主義)に巻き込まれてしまい、
>本来の当事者の語りの意義が失われてしまうのではないか、と。

ご意見ありがとうございます。
僕が自分の経歴を語ることで他の当事者の方が発言しにくくなってしまうことがあるかもしれないですけど、僕自信はは専門家主義に巻き込まれることはないと思います。何故なら僕には専門家と同列に考えられない要素も多く、例え専門家の肩書きを持ったところで当事者としてのスタンスは失われないからです。

例えば僕は本があまり読めないので、言っていることのほとんどは僕が自分で考えついたオリジナルの内容です。他の多くの専門家と違って中学もまともに行っていないし高校へも行っていません。確かに現在ならLDの生徒向けの大学プログラムも海外にありますから、そういうところで勉強して普通に専門家を目指す道もあるかもしれません。でも僕はあえてそういうことをしようと思わないのです。

それは何故かといったら、自分自身で自閉症本来の特性を体現するためです。アナログ思考の自閉症は、本来なら文字や言葉から学問を修得するのではなく、自分の体験から自然現象や社会現象のしくみを習得する方が得意なのです。小さな子供が落下という現象自体を重力加速度やニュートンのリンゴの話を聞く以前に理解するように、自閉症の人は実際の現象から学ぶ方が得意なのです。普通の人は学校へ行って専門的なことを勉強しなければ学問は分かるようにはならないと思っているようですが、自閉症者にとってはむしろ何でも言葉で教えようとするから分からなくなるのです。それをみんなに分かってもらうために、僕はあえて専門家の資格や肩書きを得るために言葉を使って物事を理解しようと思わないのです。

そしてそれは、資格や肩書きを見るとすぐに信じてしまい、その言説の中身を自分で疑ってみようとしない人達に対する啓発でもあります。裸の王様の透明な権威の衣を信じ、自分の目で目の前のことを見ようとしない、または自分の心の中の声を聞こうとしない人達に対する一声です。これはもしかしたらPOLINECIAさんの仰る専門家主義や権威主義に対する批判にもなるかもしれません。その際声を上げるのは、同じような権威の衣を着ている人達ではなく無垢な少年の方が効果があるからです。(僕は少年といえるような歳ではありませんが。)


>2.Ryuさんの持論について

>しかし、当事者自身が自らそれを信仰してしまう事態は
>あまり好ましいものではないかもしれないと考えてございます。
>(どうやら、Ryuさんは信仰しておられないようですね。)
>能力・役に立つ・適応できているといった価値観
>に当事者が囚われすぎないようになることも、
>一つの課題とは言えるでしょう。

社会的な価値観に当事者が囚われすぎないように、というのはごもっともだと思います。僕は自閉症者全てが社会的に認められるような能力があるとは思っていませんが、人間としての能力ならば皆が同じように持っていると思います。自閉症者でも普通の人でも、社会的に認められる能力を発揮できるのは、分布曲線状でデジタルとアナログの特性がほどよくバランスの取れた一握りの人達だと思います。しかしそれは時代によって診断基準が移り変わるように、社会で求められる能力もいつも同じとは限らないので、何をもって社会的能力というのかを考える必要もありますね。

>ご健闘を祈ります。

お付き合いいただき、ありがとうございました。


それからもう一つ最後に見ている方に言っておきますが、この投稿の最初のテーマである'It is not a disease, it is a way of life'という主張は、別に当事者文化の中だけで言われていることでもなく、明言している専門家の方も沢山います。

例えばこのオーストラリアの精神科医も有名な方ですが、トップページの右側でアスペルガー症候群は障害ではなく違いだとはっきり言っています。

http://www.tonyattwood.com.au/index.html

要は、特性を障害と受け取ってしまうか違いと受け取るかはその人と関わるそれぞれの人の捉え方によるのです。

Ryu

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