|
そろそろ退散しようかなと思ったんだが、
テーマに惹きつけられたんで、
ちょいとばかしコメントさせてもらおう。
コメントの都合上、引用する順番は少し変えてある。
>白い杖でもワッペンでも貼って下さい。
>目の見えない人がヨロヨロ歩くのは障害だから許されるのです。
>私たちが私たちAS文化流で行動しても許されなければなりません。
障害文化論について俺の知っていることを話しておこう。
障害文化というのは、「目が見えない人がヨロヨロ歩くことを認めよ」
という主張ではないと思う。
むしろ、目が見えない人が「生きるため,生活するために編み出したスキル」
のことを指す。
例えば、ろうあ者にとっての手話、
最近はあまりこの職種に就く視覚障害者は少なくなったが、
視覚障害者が職能として身につけた針灸や按摩などの漢方医学
などがこれに当たる。
>白い杖でもワッペンでも貼って下さい。
歩行の補助,あるいは障害を抱えていることを周知させるために
白い杖を利用するというのは、
もし視覚障害者本人がそれを編み出したのであれば、
障害者文化と言ってもいいかもしれない。
(なかには聴覚障害者に対する言語訓練,読唇訓練のように、
健常者文化の押し付けと見なされているスキルもあり、注意を要するが)
要するに「障害文化」というのは障害者にとっての自然ではなく、
障害者が人為的に創造されたスキルなのだと思う。
「障害者のありのまま(自然)を認めよ」という主張とは
少し違うかもしれない。
ただし、ここで1つだけ付け加えておこう。
「障害者のありのままも認めよ」
という主張も決して無意味なものではない、と。
この主張は医学的にはより重度と見なされる自閉者
(あるいは発達障害者)を擁護する理論になりうるからだ。
自閉者,発達障害者にとっての「障害文化」は複雑だ。
障害文化を創造すること自体に困難のある人間も多く、
仮に一握りの自閉者,発達障害者が創造したとしても、
やはり多くの自閉者,発達障害者はその文化に参加することはできない。
(例えば、PCを利用して職域を開拓した自閉者は存在するが、
それを全ての自閉者の文化として応用することは困難)
いちおう、「障害文化」と「障害者のありのままを認めよ」
という主張は異なる主張であるということを確認した上で、
それぞれに固有の価値があるということを述べた。
次に「共生論」の話でもしておくか。
>『診断は決して「免罪符」ではありません。
>自分が変わらないと、決して周りは変わりません。』
>という意見をいう人が多くいます。
>私はハッキリそれは間違っていると思います。
障害者と健常者の「共生」という時に、
「障害者側からの歩み寄り」と「社会の側からの歩み寄り」
のどちらに重点を置くかについては意見が分かれる。
俺自身は両方の考えが拮抗しせめぎあいをしながら、
双方の歩み寄りが進んでくれればそれでいいと思っているが、
ひとまず「社会の側からの歩み寄り」に重点を置いてコメントをしている。
発達障害支援が療育中心に組まれている以上、
その議論は必然的に「障害者側の歩み寄り」を要求するものになりやすいからだ。
議論を拮抗させるために「社会からの歩み寄り」を強調しているという感じだな。
補足しておくと、自助努力というのはあくまで己が好きでやることであって、
他人や行政機関から要求される性質のものではないという考え方は可能だ。
「個人としては社会と折り合いをつけるための努力はするが、
社会には障害者との歩み寄りを求める」という生き方もありだろう。
じっさいのところ「社会からの歩み寄り」を求める障害者は、
「障害者の側からの歩み寄り」を重視する障害者よりも損をして、
むしろ個人的な努力をしなければならない場合が多い。
そういう意味で「社会への歩み寄りを要求する=自助努力をしない人」
という図式には必ずしもならないということは指摘しておこう。
以上だ。
|
|