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▼Cyperusさん:
>(3)思いやり・お節介に関して…
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>思いやり
>「相手の言動や行動を自分の尺度で測らない」
>「自分がされたり、言われたりするといやなことをしない」
>「やってあげたというおしきせでなく、さりげない行為」
>お節介
>「自分がしてほしいと思うことを相手にやってあげることが正しいと信じて、相手の意向を確かめずに、無理矢理おしつける」
>「上からやってあげたという印象を与えてしまう」(じゅんこ さん)
> 様々なサービスというものが、最近世の中に出回ってますが、それを思いやりにするのか、お節介にするのかという分かれ目は、『利益』『効率』あるいは『見返り』というものを相手方に必要以上に求めようとしてしまうということにあるのかなという気がします。
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> かつて心身障害者の作業所でボランティアをしていた折り、がんとして動かなかった重度のダウン症の青年をだっこして、ロッカールームまで運んだ僕を、職員さんが『そんなことをしたらx君、歩けなくなってしまうよ』と叱ったことがありました。寂しそうににしてたので僕はそうしたのですが、結果的に彼の自主性をそいで、そのうえちゃんと動けるということを信じてあげるということができなかったのでした。そんな意識の掛け違いということもあるのでしょう。
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>思いやりですが、相手が好意に感謝するしない関係なく、
>何気なく、手を差し伸べることだと思っています。
>また、自分の気持ちを汲み取ってくれる人も、思いやりのある人だと思います。
>お節介は、施す側が、気になって仕方が無いから、敢えて口を出すとか
>手を出すような、お節介する側の主観的な行為の感じがします。(温室さん)>
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>『思いやり』は相手主体、『お節介』は私主体ではないでしょうか。
>でもこれも、個人によって温度差がありますから、
>こちらが『思いやり』と思って相手を察して動いたつもりでも、
>相手によっては大きな『お節介』ってときもありますよね。
>そこらへん、相手には相手の「適温」があるんだということを理解して、
>相手の「適温」に合わせようとするのが『思いやり』かしら。(めえめえさん)
> 出し手と受け手の意向ががあって、互いに育っていくのが思いやり、すれ違ってそれが達成できないのがお節介という見方もできるでしょう。
> 相手の気持ちを察するというのは、わりに僕にとっては不得手なことです。
>毎日毎日が勉強です。ハイ
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