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▼ウォルフルさん:
>こうした言葉が流行るのも、ひとえに場にいちはやく同調することだけにコミュニケーションについてのほとんどのエネルギーが費やされているという、コミュニケーションすることへの過剰なまでの命令文が日本人が人間関係を維持していく上での厳格な規律となっているのです。
なかなか鋭い分析だと思います。
ン十年前の『甘えの構造』で問題提起されて以来久しいですが、
”察する”といった”甘え”合いを求められることは、確かに日本では
多いというのが実感です。
しかし、「同調することだけ」にまったく意味がないのなら、これだけ長く
文化的に続いてこなかったのではないか?という疑問もあります。
要は、井戸端会議的な会話の中でいきなり深刻な疑問を投げかけたり、
ひとの話の流れを遮って自説を強硬に展開したり、そういう”やり方”が
「KY」と言われるのであって、話の内容ではないのではないでしょうか。
えー、だとすると、いわゆる”会話のマナー”的な練習をしたり、
本を読んだりすることによって、ある程度は回避できるのでは?と
思っているのですが…
ちょっと古い本になりますが『やさしさの精神病理』(大平健、岩波新書)
など、私としてはかなり参考になりました。
この本によると、従来の「やさしさ」がひとの気持ちを推し量って
同調しようとするのに対し、若いひとたちが葛藤を抱きがちな”やさしさ”
というのは、互いに相手の気持ちを推し量らざるを得ないような踏み込んだ
関係を回避する、予防的な、ウォームな心の働きだそうです。
定型発達のひとでもこんなややこしい、かつ曖昧な基準を意識して
押したり引いたり、苦労してるんだな、とフシギな気がしました。
また同時に、「人の気持ちを推し量って同調しようとする」、いわゆる
「やさしさ」「思いやり」といった、私にはなかなか理解しがたかった
論理?の限界というか、問題提起は、既に日本でも出てきているのだな、
という思いも強くしました。
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