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▼じゅんこさん:
こんにちは、お返事ありがとうございます。
レスをいただいていたことに気がつかず、お返事が下と前後してしまいました。
すみません;
私もこちらでは、書き込む人も読む人も文章と表現しようとしている内容の乖離をある程度想定して交流していると感じ(健常者社会での空気を読むとは違った意味で)、日常の場よりもとても接しやすい、理解しやすいなと感じています。
以下はお返事なのに自分分析ばかりになってしまったので、お時間のあるときにでも目を通していただけますと幸いです。
>保護者さんご自身が、自分の子育ての進む方向を決定して、前に進み出せるような場になればいいなぁと思っています。
とても大事なことだと思います。
私の親は私が幼い頃から他の子供と異なっている事に気づいていながらも、個性として特に何の対応もしませんでした。
個性であることは間違いありませんが、大きくなるにつれ周囲との差異に私が不安を感じても「それはお前の個性だから、みんなと同じでなくていい」と繰り返すだけで、なぜ違いがあるのかや周囲になじめない理由を考えてくれようとはせず、また「みんなと同じでなくてよい」と言う口から「なぜ皆と同じことが出来ないのか」ととがめました。
おそらく両親も戸惑い、その責任を夫婦でなすりつけあったり、私を怒鳴ることで解決しようとしていたのだと思います。
その結果私は両親への関心を失ったのですが、これは両親が今でも私を心配してくれる様子をみて残念なことになったと思います(私の方に両親の感情に答えようとする意欲がまったく生じないので)。
なので、ASのお子さんをお持ちの親御さんへのケアは、是非早期に充実させてほしいと思います。
>答えは与えられるものではなく、自分で見つけだす
お言葉の通りだと思います。
私自身長年自分がなぜ周囲とずれてしまうのか、その答えをずっと求めてきました。
「ありのままでいい」「気にしすぎ」などといわれても、その原因を探らなくては気がすまないのです。これは多くの失敗をし批判に晒されてきたからというよりも、単純な探究心なのだと思います。
「そんなことを気にしていては生きていけない」と人は言いますが、私にとってはちょっと大げさですが「それを解明できないのなら生きている意味はあまりない」のです。
こうしてASを知ることが出来たのは本当に幸運だったと思います。
> 議論って、やはりバトルみたいになってしまいませんか?
なりますね…。
お互いに感情を廃するという条件を整えなければ、答えを導き出せる議論はできないと思います。
健常者の多くが、感情を廃したやりとりそのものを求めない傾向にあるように感じるので(おそらく機械的に整理された言葉の端々から言外の意味を読みとろうとして疲れたり傷ついたりするのだと思いますが)、議論をする際にはあらかじめ互いを傷つける意思がないことを明示する必要があるのだと思いました。
>この不確かな空気
これについてはまだよくわからないのですが、私の感じる不確かな空気は”人が私のことを知ろうとして何がしかの信号を発信し、それを感じ取った私が触覚過敏同様の反応を示して警戒する”という現象なのではないかと考えています。
その理由として、非常に社交的で友人を多く持つ人と相対するとき、そうした相手のひととなりを全く知らない初対面であっても私の感覚が強烈な警戒反応を示し、また内向的な人と同等の条件で相対する場合にはリラックスできる、というパターンが私の経験上成り立つからです。
もちろんこれは仮説ですし、他にもいろんな条件があるかと思います。
>少しずつ、みんなが自分の思いを伝えあえるように、互いに調整しあい、相互理解を深めていきたいと思います。
>こういう努力が子どもたちへの最大のメッセージになるんだと信じています。
大賛同です。
健常者同志でも互いを理解できないことはよくあることで、それは情報の共有や共感をより求める人たちにとってはとても悲しくつらいことだと思います。
共感することだけが愛情表現ではないこと、これを伝えられるのはASの人ならではなのかもしれませんね。
じゅんこさんの努力を知り、私もなにか人の役にたちたいと感じるようになりました。
ありがとうございます。
長くなってしまいすみません。
ただ、私の体験がじゅんこさんや他の方の今後の活動に少しでも役に立てたらと思い記させていただきました。
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