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笛です。
めえめえさんのお書きになったことが私には非常に難しくて、理解できない部分が多かったです。残念です。
▼めえめえさん:
>原典の自閉症者の自伝(テンプル・グランディンさん、他)から具体例を
>引用するほどおぼえてないのですが、肯定されれば自己評価が上がる、
>否定されれば傷ついて自信を失う、という、セルフエスティームの仕組みは
>非自閉者と同じである、ということを言いたいのだと思いました。
その「肯定されている」のか、「否定されている」のかさえ、自閉症には判断が難しいように思います。
わからないから、自己評価が低くなるのだと私は考えます。
>確かに、自閉症者の体験世界を定型発達の方々が実感として体験することは
>難しいと思います。
>(だからこそ「そこは違う」「ここは似てる(同じ)」と確認していくことも
>必要なんだろうな、と思う所存です。)
完全に不可能なのではないかと私は考えるのですが、「難しい」けど可能だという意味でしょうか。
>長期にわたって観察していれば、「ほめれば”あたかも”嬉しいかの
>ような反応(顔や体の筋肉が和らぐ、スキルが身につく等)を示す、
>叱られれば”あたかも”悲しいかのような反応(顔や体の筋肉がこわばる、
>できてたことができなくなる等)を示す」ということも観察でき、
>こういう観察を元にある程度は心理を想像(予測)できるかと思います。
定型発達の方々は、こんなすごいことが出来るのですね。初めて知りました。
予断ですがずっと前に「反省だけなら猿でもできる」というフレーズが流行したことがあるのを、なぜか思い出しました。
実は猿はあたかも反省しているかのようなポーズをとっているだけでした。
後々、定型発達の方々の世界ではポーズをとることが重要なのかと考えたりもしました。
今でもよくわかりません。
>また、心の理論は便利な説明用ツールですが、決してその欠落自体は
>障害ではないのでは?と私は思っています。
心の理論が欠落していることこそが、自閉症を自閉症たらしめているのではないのですか?
私は心の理論について知ったことで、自閉症の人々と定型発達の人々の根本的な違いが理解できました。
それまで生きていて腑に落ちなかった事なども…
>実際には、心の理論が欠落した状態で自分の中では統合されているため、
>かえって心の理論があって統合されていない人よりも、
>(独特かもしれないけど)筋が通ってるのでは、とさえ思うのです。
すみません、難しくて理解できません。
>しかし、定型発達の人に「心の理論の欠落」と言ってしまうと、
>下手すると”心の欠落”と誤解され、冷淡で自己中心的で、相互交流が
>不可能な異質なもの、と誤解されがちであるのを恐れています。
「心」って何でしょう。
心の理論は、脳の器質的に「正常な」働きを説明するものです。
うつ病などの事をよく「心の病気」と呼んだりしますが、結局は脳内物質のアンバランス等によって引き起こされる症状に過ぎません。
定型発達の方々が「心の欠落」ということに対してどのような感覚を抱かれるのか、私にはわかりません。
「冷淡」「自己中心的」「相互交流が不可能な異質なもの」という感覚を抱かれるのは、定型発達の方々の世界での解釈であって、
自閉症の人々の実際とは何の関係もないと私は考えます。
ただ、定型発達の方々が大多数の社会で生きていかなければならない場合は、自閉症者は、実際に冷淡であろうとなかろうと、「冷淡に思われないような態度」を身につけた方が楽だとは考えます。
>自閉者は自分のファンタジー世界に没頭しがちかもしれませんが、
>決してスタンドアロンな存在ではなく、インタラクティブな存在である
>という点では、定型発達者と同じではないでしょうか?
>(そうでなければ社会性の障害が障害たり得ません)
社会性の障害が障害たり得るのは、定型発達の方々が大多数の社会の中で生きていくからであって、
必ずしもインタラクティブな存在であるからではないかもしれません。
>そうですね。自分を客観的にみることは難があります。
>こういうのはパターンを学習していって、自分の臨界点を知ることで
>ある程度自分でも予測ができるようになると期待しています。
そうなれると良いですね。
私は未だに「未然に」ということが困難です。
色々書いてしまいましたが、今まで生きてきて得た私の知識と理解に過ぎません。
もしお気に触る部分がありましたら読み飛ばして下さい。
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