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笛です。お返事が遅くなり申し訳ありません。
▼mayoさん:
>笛さんは「世の中、不可解なことが多い」ともおっしゃっていましたが、
>ほかにどんなことが「不可解だ」と感じていらっしゃいますか? あるいは
>すでに学習してしまったことでも、かつて「定型のやつらって変!」と思って
>いたことがあったら教えてください。
私は診断を受けてからまだ2年ですので、未だに「定型の人々」という括りで自分に対してどう、という捉え方はしていません。
それよりも、定型の人々の脳はこのような機能があるらしい、ということを勉強している最中です。
定型の人々ならば誰でも生後ある一定の期間内に自然に機能し始めるらしい脳の特定の機能には驚くばかりです。
めえめえさんのツリーで「心の理論」という表現をしましたが、この存在を知ってからは、自閉症の私に不可解な事が多いのも理論的には納得できました。
逆に、生まれつきその機能が備わっている定型発達の人々には、その機能はごく自然のものなので、それがない状態を想像するのは非常に困難であると考えます。
私には使い分けのわからない言葉の定義がたくさんあります。
「率直」と「きつい」
「素直」と「わがまま」
「正直」と「融通がきかない」
「礼儀正しい」と「よそよそしい」
「物覚えが良い」と「執念深い」
「おおらか」と「だらしがない」
「よく気がつく」と「神経質」
「よく気がきく」と「大きなお世話」
ほかにもたくさんありますが、同じ言動に対して場面によって評価が異なるようなものは、対処に困ります。不可解です。
社交辞令というようなものも、場面によってどう反応すべきか困ることが多いです。
それから、「嘘も方便」と「嘘をついてはいけない」も場面に応じて使い分けるのは難しいし、なぜ嘘をついても良い状況があるのか不可解です。
あとは、名詞と固有名詞の省略形。なぜ省略形を使う必要があるのか不可解であるのと同時に、省略形には音韻的に美しくないものが多いので生理的にも受け入れがたいです。
たとえば、
「ファミリー・レストラン」を「ファミレス」
「木村拓哉」を「キムタク」
「アスペルガー」を「アスペ」
「メール・アドレス」を「メアド」
などなど…。
なぜ省略形を使うのかが不可解である(その名詞が本来示しているものとは別物としか受け取れないということもあります)のと、
自分が美しくないと感じる音韻を使いたくないというとらわれ(よく「こだわり」と呼ばれますが、本人が自分の意志でこだわっているのではないため、「とらわれ」という表現の方が適切なように思います。)もあります。
これらは私にとっての「不可解」のほんの一部ですが、上記のようなことをごく自然にやり取りして生きている定型発達の人々とその世界自体が不可解なのです…
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