アスペルガーの館の掲示板

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[#2055] [投稿者削除] [未読]

[#2625] Re:オールオアナッシングの傾向 世捨人 04/12/28(火) 13:41 [未読]
[#2627] 失敗に学ばない人 penpen 04/12/28(火) 18:08 [未読]
[#2648] Re:失敗に学ばない人 世捨人 04/12/29(水) 13:42 [未読]
[#2649] Re:失敗に学ばない人 penpen 04/12/29(水) 14:11 [未読]
[#2667] Re:失敗に学ばない人 世捨人 04/12/30(木) 9:41 [未読]
[#2674] Re:失敗に学ばない人 penpen 04/12/30(木) 13:43 [未読]
[#2719] Re:失敗に学ばない人 世捨人 05/1/3(月) 12:38 [未読]
[#2737] Re:失敗に学ばない人 penpen 05/1/4(火) 10:34 [未読]
[#2815] Re:失敗に学ばない人 世捨人 05/1/8(土) 12:43 [未読]
[#2819] Re:失敗に学ばない人 penpen 05/1/8(土) 17:09 [未読]
[#2888] Re:失敗に学ばない人 世捨人 05/1/13(木) 13:22 [未読]
[#2901] こだわり続ける penpen 05/1/14(金) 9:19 [未読]
[#2997] Re:こだわり続ける私は何者? 世捨人 05/1/19(水) 13:37 [未読]

[#2625] Re:オールオアナッシングの傾向
 世捨人 メール  - 04/12/28(火) 13:41 -

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   ▼penpenさん:
>▼世捨人さん:
>
>> この人物の精神的な受動性(感受性の粗さと懐疑心の欠如)及無思慮さと、先の例から推測されうる身体的知覚の鈍さとは、もしかするとどこか関係があるのではないのかと考え込んでしまいました。
>
>確かに精神的な感受性と身体的な鈍さはつながっているかもしれません。
>わたし自身、身体的な鈍さはかなりあります。
>熱い寒いに鈍いまたは過敏。
>空腹感、疲労感の自覚に乏しい。
>自分の感情についてもしばしば無自覚です。
>なんだか知らないけれど元気がでない。
>なぜだろうと考えてはじめて自分が悲しいことに気がつくなど……。
 
 失礼ながらそのような状態は、何か我を忘れて没頭なさっているときのことを、描写しておられるのでしょうか。もしそうであるならば、精神的な集中の裏面乃至代償とも考えられなくもありません。
 
 私は思春期の頃から外部との直の接触を避けて、具体的に述べるならば、自室から夕焼空を眺めやたり、好きな本の内容を思い返したりするなどして、自己の気分に浸っていることが多かったのです。その後大学に通っていた頃は、東京都心の車窓が恐ろしくもあり不快ではあったけれども、いつもその光景が自己の意志に反して網膜に深く入り込んできました。殊に高層建築の形が不気味で、しばしば前面と上方から圧し潰されるような驚愕に襲われたものでした。その頃私自身は精神分裂病を疑っていたのですが、今にして思うとこのような視覚的敏感さは、当時の私の視力(右1,5 左かなりの遠視だが0,8)と、何かしら関連があったのかも知れません。そのうえ、自己の体調やその都度の感覚的知覚に引き摺り回されるだけではなく、いつも自己のなんとも形容し難い、漠然とした気分に捕えられていたので、それを何らかのかたちで乗り越えて、何か日常的または現実的な事柄を実行するのは、いつも本当に骨の折れることでした。このような症状も、若しかすると神経衰弱の一種に止まらず、他にも甚だしい低血圧並びに自律神経障害も影響していたのではなかったのかと憶測しているのです。
>
>> なぜなら、私としては、たとえ斜めに生えている親不知歯であっても、一二回抜歯を経験するならば、あのような辛さと痛さを避けるべく、ある程度の歯についての知識を蓄えたり、一日数回の嗽と歯磨きを習慣とするようになると思うのですが。
>
>親知らずを抜くのはなかなか大変ですよね。
>わたしも親知らずを抜くのに半日がかりの手術をしました。
>ところで世捨て人さんは前述の人物とは正反対のかたでしょうか?

 全く反対の性格乃至素質であると述べて差し支えないかと思います。例えば日常会話でも、自己の用いる言葉(少なくとも名詞に関して)については、その都度意味内容を思い起こしながら細かい使い分けをしてしまうのです。また、固有名詞の略称や通称を用いるのを好まないので、わざわざ・・百貨店、++鉄道などという正式名称を述べてしまいます。。従って、件の人物のように、果汁と清涼飲料をジュースという一語で片付けるなどは、私の全く思いもよらないことです。
 さて、前述の人物は、人の表情等を(不快または上機嫌の程度までは)瞬間的に読み取ることはできるようですが、その印象を既に記憶に存する事柄と関連付けてあれこれと考えることについては不得手であるように見受けられます。ところで、なぜ何本も完全抜歯に至るほど歯の状態が悪くなったにも拘らず、当人が殆ど気にかけていない様子なのは、恐らく痛覚の鈍さが原因ではないかと推測していました。しかしながら、幾度も歯科治療室と待合室で過したであろう少なからぬ時間も、この人物にとって生活習慣と歯の状態との関連への洞察を目覚めさせるに至らなかったというのは、なんとも不可解としか言いようがありません。

[#2627] 失敗に学ばない人
 penpen  - 04/12/28(火) 18:08 -

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   ▼世捨人さん:
>>わたし自身、身体的な鈍さはかなりあります。

> 失礼ながらそのような状態は、何か我を忘れて没頭なさっているときのことを、描写しておられるのでしょうか。もしそうであるならば、精神的な集中の裏面乃至代償とも考えられなくもありません。

いえ、特に何かに没頭している時でなくても、わたしはどうも自己洞察力に欠けるようです。
なので世捨人さんが例に挙げた人物は自己洞察力に欠けるという点で
わたしに似ていると思います。
わたしのある種の鈍感さは人に(家族からも)いぶかしさを感じさせる時があるようです。

> そのうえ、自己の体調やその都度の感覚的知覚に引き摺り回されるだけではなく、いつも自己のなんとも形容し難い、漠然とした気分に捕えられていたので、それを何らかのかたちで乗り越えて、何か日常的または現実的な事柄を実行するのは、いつも本当に骨の折れることでした。

わたしもごく簡単なことができなくて困ることがあります。
例えば年賀状を書くとか、図書館の本を返すとか……。
また自分の感情を“形容しがたい、漠然とした気分”としか自覚できないことが多いのも似ているように思います。
わたしは“漠然とした気分”になることを
自分の感情に対する洞察力が欠けているせいと感じています。

>>ところで世捨て人さんは前述の人物とは正反対のかたでしょうか?
>
> 全く反対の性格乃至素質であると述べて差し支えないかと思います。
>しかしながら、幾度も歯科治療室と待合室で過したであろう少なからぬ時間も、この人物にとって生活習慣と歯の状態との関連への洞察を目覚めさせるに至らなかったというのは、なんとも不可解としか言いようがありません。

不可解であるなら正反対とも言い難いのではないでしょうか。
たとえ言葉の使い方その他、違っている部分があったとしても……。

と、ここまで書いて、どうもわたしの口調は世捨人さんの揚げ足を
とるような言い方かなと気になってきました。
でもわたしとしては世捨人さんが例に挙げた人物の不可解な鈍感さに
多少共感する部分があります。
人に不審を感じさせるまでの自己洞察力の欠如、無頓着さは
わたしに似ていると思うからです。

世捨て人さんにはその方の自分の身体に関するある面での無頓着さ、
鈍感さ、失敗してもなお学ばない懲りなさに共感するところはないでしょうか。

[#2648] Re:失敗に学ばない人
 世捨人 メール  - 04/12/29(水) 13:42 -

引用なし
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   ▼penpen様:
 御返信有難うございます。少しばかり補足を試みてみました。

>▼世捨人さん:
>>>わたし自身、身体的な鈍さはかなりあります。
 
 私の運動能力は極めて低い水準にあり、学校に通っている頃は、球技が全くといって良い程出来ませんでした。また現在のところ、パソコンの外付マウスの使用も諦めています。それから暑さに対して大変弱く、気温が二四度を超えると、頭脳の機能が急激に低下するのです。脈拍もいつも乱れがちで、過激な運動はもとより、コーヒーどころか緑茶の摂取も控えなければならないことが度々あります。但し痛覚は普通の水準の様子で、虫歯の痛みについても(例えば、顔の半分が引きつる、脳の片半分が握り潰される様な痛みと表現するなど)、他の人達から不審がられることなしに話題にすることが出来ます。
>
>> 失礼ながらそのような状態は、何か我を忘れて没頭なさっているときのことを、描写しておられるのでしょうか。もしそうであるならば、精神的な集中の裏面乃至代償とも考えられなくもありません。
>
>いえ、特に何かに没頭している時でなくても、わたしはどうも自己洞察力に欠けるようです。
>なので世捨人さんが例に挙げた人物は自己洞察力に欠けるという点で
>わたしに似ていると思います。
>わたしのある種の鈍感さは人に(家族からも)いぶかしさを感じさせる時があるようです。

 >以前お書きになられていたように、敏感さと鈍感さの並存というだけであれば、いわゆる放心状態と、何かに気を取られているときに、しばしば起こり得ることではないでしょうか。

>> そのうえ、自己の体調やその都度の感覚的知覚に引き摺り回されるだけではなく、いつも自己のなんとも形容し難い、漠然とした気分に捕えられていたので、それを何らかのかたちで乗り越えて、何か日常的または現実的な事柄を実行するのは、いつも本当に骨の折れることでした。
>
>わたしもごく簡単なことができなくて困ることがあります。
>例えば年賀状を書くとか、図書館の本を返すとか……。
>また自分の感情を“形容しがたい、漠然とした気分”としか自覚できないことが多いのも似ているように思います。
>わたしは“漠然とした気分”になることを
>自分の感情に対する洞察力が欠けているせいと感じています。

> この「漠然とした気分」、何とも形容し難く定かな形を取らない曖昧模糊とした感情とは、極めて日常的なものでありうるとも考えられます。。自己の気分が常に明瞭な表現を取っており、自他にとって常に理解できる状態であるなどという方が、私にとって余程不気味に思われます。自我の不透明さと曖昧な影に耐えられず、無理に自分の気分を既成の型枠に嵌めて、日常生活からの心理の逸脱の兆しや暗闇を見ようとしないとする態度こそが、「自己の感情に対する洞察」への抑圧ではないでしょうか。
 ところで、リルケの『マルテの手記』で描写されたこのような心理状態は、ハイデガーとサルトルによって実存の理解への鍵として論じられています。また、日常の中の曖昧な不気味さはカフカの著述にとっての主題となりました。

>>>ところで世捨て人さんは前述の人物とは正反対のかたでしょうか?
>>
>> 全く反対の性格乃至素質であると述べて差し支えないかと思います。

>不可解であるなら正反対とも言い難いのではないでしょうか。
>たとえ言葉の使い方その他、違っている部分があったとしても……。
>
 いや、私は自分がまさに感じたり頭に引っ掛かっていることを脇に置いて、誰かの意見を受容するということは出来ないのです。恐らくその為か二十代前半頃迄は、しばしば噛み付くようなものの言い方をすると咎められていました。先日も、かつての私はいつも神経がぴりぴりしているようだったと、さる知人が述懐しておりました。彼は今でも件の人物に接する機会があるのですが、後者関して、組織の長に対して極めて従順であるばかりでなく(つまり思考が与えられた枠を越えず)、それ以外の人からどんな反応が生じても、自己のやっていることが間違っているのではないのかと絶対考え込んだりしない人物であると語っています。
 さて、私が後者の歯の状態に気づいたときから、ひょっとしたら最も切実な身体的知覚をも無視できるような意識構造か、または元来の痛覚の鈍さが、(ありきたりの話題を無批判に繰り返すような)かような人格の基礎を成しているのではないのかと疑うようになりました。さらに、ロボトミー手術の結果とは、もしかするとこのようなものではないのかという考えが幾度か私の頭に浮かんだことがありました。

[#2649] Re:失敗に学ばない人
 penpen  - 04/12/29(水) 14:11 -

引用なし
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   ▼世捨人さん:
>> この「漠然とした気分」、何とも形容し難く定かな形を取らない曖昧模糊とした感情とは、極めて日常的なものでありうるとも考えられます。。自己の気分が常に明瞭な表現を取っており、自他にとって常に理解できる状態であるなどという方が、私にとって余程不気味に思われます。自我の不透明さと曖昧な影に耐えられず、無理に自分の気分を既成の型枠に嵌めて、日常生活からの心理の逸脱の兆しや暗闇を見ようとしないとする態度こそが、「自己の感情に対する洞察」への抑圧ではないでしょうか。

他人に理解されるかどうかはともかく
わたしは自分の感情は自分で明確に理解したいと思っています。
既存の型枠しかないならそれでいいと思っています。
自分自身を単純化することは浅薄化することであるかもしれませんが、
わたしの自分理解は自分の行動をコントロールするということにつながっているので
わたしには切実に必要な作業です。

> さて、私が後者の歯の状態に気づいたときから、ひょっとしたら最も切実な身体的知覚をも無視できるような意識構造か、または元来の痛覚の鈍さが、(ありきたりの話題を無批判に繰り返すような)かような人格の基礎を成しているのではないのかと疑うようになりました。さらに、ロボトミー手術の結果とは、もしかするとこのようなものではないのかという考えが幾度か私の頭に浮かんだことがありました。

実は世捨人さんがロボトミー手術の結果かと形容するその人物に
わたしは自分が知っているアスペルガーという障害にとても近いものを感じています。
権威に弱く、自己洞察力が不足し、人間的な感情が希薄に感じられるなど……。

世捨人さんがその人物をどう評価しているかわかりませんが
わたしは他人を自分には不可解と切り捨てることはしないようにしています。
例えば殺人を犯した人を自分とは全く違う人間であると断じ
自分は殺人をしない人間と信じきることはできません。

ある危うさをわたしも自分に感じますし、
過ちを犯すこともある人間だと思っています。
(でも殺人をすることはないと思いますが……)

[#2667] Re:失敗に学ばない人
 世捨人 メール  - 04/12/30(木) 9:41 -

引用なし
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   ▼penpen様:
 いつもながらの早速の御返事、大変嬉しく思います。 

>>> 自我の不透明さと曖昧な影に耐えられず、無理に自分の気分を既成の型枠に嵌めて、日常生活からの心理の逸脱の兆しや暗闇を見ようとしないとする態度こそが、「自己の感情に対する洞察」への抑圧ではないでしょうか。
>
>他人に理解されるかどうかはともかく
>わたしは自分の感情は自分で明確に理解したいと思っています。
>既存の型枠しかないならそれでいいと思っています。
>自分自身を単純化することは浅薄化することであるかもしれませんが、
>わたしの自分理解は自分の行動をコントロールするということにつながっているので
>わたしには切実に必要な作業です。
 
 全く同意致します。但し、既存の型枠をある程度御自身に合わせて作り変えるという選択肢もお忘れにならないで下さい。もしも自己理解への意欲を欠くならば、その様な人達の行き着く先とは、まさに精神的破局であると思います。しかしその一方では、かような自己認識への希求を欠くような人物も少なからず存在するということです。
 ついでながら、自己を既成の枠組みに嵌める代りに他の様々な可能性を消去するという問題を取上げた、『ある指導者の幼年時代』というサルトルの短編小説を思い出しました。
 また、私は十代の頃から明るく集団生活を謳歌するという高度消費化社会の風潮に苛立っておりまして、殊更陰気な事柄を取り上げるのが癖になってしまったようです。一方では、「自己実現」とか「社会参加」とかいう言葉に釣り出されて、私生活に於いても産業活動の論理に絡め取られてしまった人(例えば出産時機を逸してしまった「キャリア・ウーマン」等)の多さに驚いています。
>
>> さて、私が後者の歯の状態に気づいたときから、ひょっとしたら最も切実な身体的知覚をも無視できるような意識構造か、または元来の痛覚の鈍さが、(ありきたりの話題を無批判に繰り返すような)かような人格の基礎を成しているのではないのかと疑うようになりました。さらに、ロボトミー手術の結果とは、もしかするとこのようなものではないのかという考えが幾度か私の頭に浮かんだことがありました。
>
>実は世捨人さんがロボトミー手術の結果かと形容するその人物に
>わたしは自分が知っているアスペルガーという障害にとても近いものを感じています。
>権威に弱く、自己洞察力が不足し、人間的な感情が希薄に感じられるなど……。
>
>世捨人さんがその人物をどう評価しているかわかりませんが
>わたしは他人を自分には不可解と切り捨てることはしないようにしています。
 
 もしも件の人物が、お子さん達の担任教師であるとしたら、いったいどうなさいますか。さらにこの種の人物が、学校や大学に優先的に教員として採用されるとしたならば....。

[#2674] Re:失敗に学ばない人
 penpen  - 04/12/30(木) 13:43 -

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   ▼世捨人さん:
> いつもながらの早速の御返事、大変嬉しく思います。 

実はわたくし、かなりひまです。(=^・^=)

>しかしその一方では、かような自己認識への希求を欠くような人物も少なからず存在するということです。

そうですね。わたしも一番避けたいと思う人は自己認識への希求を欠く人です。
言い換えれば問題行動、障害、傷病、精神疾患を持つ人を避けはしないけれど
自覚を欠く人、反省心を欠く人はわたしとは最も遠い場所にいると感じています。
自覚のない人はしばしばとても強引なので迷惑をこうむることも多いです。

> ついでながら、自己を既成の枠組みに嵌める代りに他の様々な可能性を消去するという問題を取上げた、『ある指導者の幼年時代』というサルトルの短編小説を思い出しました。

確かに選択はあるものを捨て去ることですが、
捨て去ることに伴う自虐的な快感というのもあるかもしれません。
“どうせわたしはばかなのよ!”と思い切ってしまうことの気楽さのような……。

> また、私は十代の頃から明るく集団生活を謳歌するという高度消費化社会の風潮に苛立っておりまして、殊更陰気な事柄を取り上げるのが癖になってしまったようです。

そうなのですか?! 笑

>一方では、「自己実現」とか「社会参加」とかいう言葉に釣り出されて、私生活に於いても産業活動の論理に絡め取られてしまった人(例えば出産時機を逸してしまった「キャリア・ウーマン」等)の多さに驚いています。

下手に自己実現的なパフォーマンス(?)や社会参加が出来る能力を持つ人のほうが
大きな問題を抱えることがあるかもしれません。

> もしも件の人物が、お子さん達の担任教師であるとしたら、いったいどうなさいますか。さらにこの種の人物が、学校や大学に優先的に教員として採用されるとしたならば....。

そうですねえ。その時はその時で必死に対応するしかないでしょう。
でも、わたしは先生にあまり大きな幻想は抱いてはいないのです。
前に福祉関係の仕事をしていた時に新任の先生のボランティア参加を50人単位で
受け入れていました。
先生といえどやっぱり現代ッ子というか、
県の教育委員会の方針に不服ということでいっさい活動に参加せず
すみっこでたばこをふかす人もいましたし、最初から最後まで
あれこれ不服を言い立てる人もいました。
基本的に先生になろうという人は子供が好きで人が好きという
明るくてポジティブなやさしい人が多いように思いますが……。
(ついでに言うとたくさんの人を短時間に相手にする場合は
その中のリーダー格を見極めるのがポイントのようです)

アスペルガー的な困った人はたくさんいると思います。
アスペルガーの人は頭がいいので
試験や資格を容易にとって思わぬ指導的な立場に立たされることも多いように思います。
指導的な立場になることで本人も周囲もしゃれにならないくらい困ることもありますが
自覚して自分を理解するというスタート地点にその人が立たない限り
援助は難しく他人はその人を切り捨てることで被害を最小限にとどめるしかないように思います。

わたしは世捨人さんが例に挙げた人物に自分との共通点を見いだしていますが
かといっておそらくまだ自分の迷惑ぶりを自覚しないであろうその人と
関わろうとは全く思いません。

[#2719] Re:失敗に学ばない人
 世捨人 メール  - 05/1/3(月) 12:38 -

引用なし
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   ▼penpen様:
 いつの間にか新年となりましたが、これまで幾度にも亘って御意見を伺えたことを大変光栄に思います。また今後もひとつの問題の追究に固執する私の態度は矢張りAS的であるという自覚を胡麻化さずにいるつもりでおります。
>
>>しかしその一方では、かような自己認識への希求を欠くような人物も少なからず存在するということです。
>
>そうですね。わたしも一番避けたいと思う人は自己認識への希求を欠く人です。
>言い換えれば問題行動、障害、傷病、精神疾患を持つ人を避けはしないけれど
>自覚を欠く人、反省心を欠く人はわたしとは最も遠い場所にいると感じています。
>自覚のない人はしばしばとても強引なので迷惑をこうむることも多いです。
>
 全く同感致します。ところで、いったい何がこのような人達に対してつける薬になるのか御存知ありませんか。
>
>確かに選択はあるものを捨て去ることですが、
>捨て去ることに伴う自虐的な快感というのもあるかもしれません。
>“どうせわたしはばかなのよ!”と思い切ってしまうことの気楽さのような……。

>選択とそれに伴う責任の自覚なしに生きていけると思い込むのは、それこそ自己欺瞞というものでしょう。少なくとも自己に対してだけは嘘をつかないようにしないことには・・・。
>
>>一方では、「自己実現」とか「社会参加」とかいう言葉に釣り出されて、私生活に於いても産業活動の論理に絡め取られてしまった人(例えば出産時機を逸してしまった「キャリア・ウーマン」等)の多さに驚いています。
>
>下手に自己実現的なパフォーマンス(?)や社会参加が出来る能力を持つ人のほうが
>大きな問題を抱えることがあるかもしれません。

> 十代後半の頃「全く正常」な私の姉は、試験前になるとよく胃の調子を崩して、母から特別の献立を作ってもらっていたものでした。一方札付きの学校嫌いにして集団生活不適応者の私は、試験なぞは答案返却と通信簿受領の前後数分間しか気にしたことがなかったので、胃痛などというものを知らずに済ませていました。

>> もしも件の人物が、お子さん達の担任教師であるとしたら、いったいどうなさいますか。さらにこの種の人物が、学校や大学に優先的に教員として採用されるとしたならば....。
>
>そうですねえ。その時はその時で必死に対応するしかないでしょう。
>でも、わたしは先生にあまり大きな幻想は抱いてはいないのです。

 けれども、これは既に現実のこととなっているのです。本当に問題なのは、件の人物並びにその同類を好んで傍に置きたがる人がしばしば居るというということなのです。件の人物は「嫌味がない」という点を気に入られた故にか指導教授に可愛がられ、およそ考えられ得る限りの推薦状とそれに伴う特典を手に入れ、(論文の水準が問題外であったのにも拘らず)遂には後任者に指名されました。当時の副官格の助教授も、なぜか件の人物だけは苛めたりしごいたりせず、あっさりと同僚として受け入れた模様でした。
 当時の同窓生達は半端面白半分にしか件の人物について一言二言触れる以上のことをせず、私の方でも件の人物に関して従順な性格にして精神的に極めて平板という印象しか持っておらず、また暫くして別の土地に移ったので、その人物について殆ど忘れかけていました。数年後ふとしたことから専任教員に採用された件の人物と顔を合わせる機会があり、以前からこの人事を怪訝に思っていたことでもあったので、幾度か談話を試みてみることにしました。その結果はというと、極めて鈍感にして無思慮な件の人物と未だに交際を続けている人達の良識並びに神経を疑ってしまう程、(知識水準その他に関しても)まさに驚愕に次ぐ驚愕の連続となりました。
 以上の経緯から、彼等は件の人物の中身を知ろうとしていないか、又は(私の一友人の見解によると)知っているが故に通用させているのかという疑問に直面するに至ったのです。もし前者であれば、彼等の人物眼のなさの証明と見做し得るでしょうし、また後者であれば、何はともあれ最も安直な方法で支配しうる人物しか許容しないという、例の指導教授とその取巻き達の有する信念を、この人事の例に於いて読み取れはしないでしょうか。

[#2737] Re:失敗に学ばない人
 penpen  - 05/1/4(火) 10:34 -

引用なし
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   ▼世捨人さん:
>ところで、いったい何がこのような人達に対してつける薬になるのか御存知ありませんか。

話は戻りますがわたしと世捨て人さんと間で見解の一致を見たとしても
あくまで“わたしは思う”が前提にあるので
もしかしてわたしたちが間違っているのかもしれません。
もしかして薬を使用しなくてはいけないのはわたしたちかもしれません。
わたしとしては他の人の価値観を正そうという考えはありません。
ですのでそのような人につける薬も知りません。

>少なくとも自己に対してだけは嘘をつかないようにしないことには・・・。

そうですね。自覚の範囲の中ではそうしたいと望んでいます。

>件の人物は「嫌味がない」という点を気に入られた故にか指導教授に可愛がられ、およそ考えられ得る限りの推薦状とそれに伴う特典を手に入れ、(論文の水準が問題外であったのにも拘らず)遂には後任者に指名されました。

“嫌みがない”というのは大きな徳だと思います。

> 以上の経緯から、彼等は件の人物の中身を知ろうとしていないか、又は(私の一友人の見解によると)知っているが故に通用させているのかという疑問に直面するに至ったのです。

そうですねえ。
わたしも世捨て人さんの友人の見解に近い推理をします。
少しとんちんかんでもいやみがなく、一生懸命で研究以外の世界ではおそらく通用しないと思われるその人の将来をおもんぱかった人事ではないでしょうか。

>もし前者であれば、彼等の人物眼のなさの証明と見做し得るでしょうし、また後者であれば、何はともあれ最も安直な方法で支配しうる人物しか許容しないという、例の指導教授とその取巻き達の有する信念を、この人事の例に於いて読み取れはしないでしょうか。

わたしたちには理解できない価値観があるのかもしれませんね。
純粋に優秀な論文のみを求めてはいないのでしょう。
そのかたの指導教授は……。

[#2815] Re:失敗に学ばない人
 世捨人 メール  - 05/1/8(土) 12:43 -

引用なし
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   ▼penpen様

>いかが御過しでしょうか。私の方では、幾分体調を崩しかけていて、幾分返信が遅くなりました。

>>ところで、いったい何がこのような人達に対してつける薬になるのか御存知ありませんか。
>
>わたしとしては他の人の価値観を正そうという考えはありません。
>ですのでそのような人につける薬も知りません。

 先の私の言葉はほんの冗談のつもりで書いてしまったのです。当然その様な薬などあるわけがないという確信を有しているが故にです。若しお気を悪くなされたのであれば、心から御詫び致します。
 
 ふとしたことから、この異常な程鈍感にして無思慮な件の人物(以後Xと表記)に関わる問題について大いに気に掛かってきたので、X本人のみならず、私のかつての先輩等に対しても、様々の点について注意深く問い質してみました。その結果として、幾人からも、単にXの論文が問題外の水準であるばかりでなく、翻訳さえまともに出来ない、文脈に即する言葉の意味に気付こうとせずに、文章を機械的に訳してしまう、という一致した答えを得るに至りました。さらに、Xは自分の出来ることの範囲を知らない、何でも自分にも出来ると思い込んででしゃばりたがる、いくら反論しても聞く耳を持たない、何度も断られても平気で頼みごとをする、全く恥というものを知らないかのようだ、と複数の人が語っていたのです。

 私が最後にXを見掛けたのは、今から四年位前のことです。その時Xは今から・・・の平和論について発表報告を行うと話しかけてきたので、極めて不快ではありましたが、念のためにどれ位戦争についての知識を有しているか幾つか質問を試みてみました。Xはベトナム戦争の余波、例えば米国内における社会的影響(帰還兵の自殺並びに心理的障害の夥しい発生、及び公権力の威信低下、著しい治安の悪化等)についても今まで一切聞いたことがないという暢気な言葉が返ってきました。しかし私より一回り年長であるXの生年(1956?)と居住地(付近に在日米軍の最大規模の飛行場並びに通信施設)を留意するならば、やはりこの答は奇怪としか言いようがありません。
 
 私の数少ない話相手の一人は、今でもXと接しなければならない立場にあるのですが、本当に頭を抱え込んでいます。Xを教壇に据えた指導教授と助教授は、弟子達の不満や不審の念に対して一切気付かない振りをしつづけており、現在まで誰に対しても謝罪や釈明を行なっていません。
>
>>件の人物(X)は「嫌味がない」という点を気に入られた故にか指導教授に可愛がられ、およそ考えられ得る限りの推薦状とそれに伴う特典を手に入れ、(論文の水準が問題外であったのにも拘らず)遂には後任者に指名されました。
>
>> 以上の経緯から、彼等は件の人物の中身を知ろうとしていないか、又は(私の一友人の見解によると)知っているが故に通用させているのかという疑問に直面するに至ったのです。

>そうですねえ。
>わたしも世捨て人さんの友人の見解に近い推理をします。
>
>>もし前者であれば、彼等の人物眼のなさの証明と見做し得るでしょうし、また後者であれば、何はともあれ最も安直な方法で支配しうる人物しか許容しないという、例の指導教授とその取巻き達の有する信念を、この人事の例に於いて読み取れはしないでしょうか。
>
>わたしたちには理解できない価値観があるのかもしれませんね。
>純粋に優秀な論文のみを求めてはいないのでしょう。
>そのかたの指導教授は……。
 
 このXの「嫌味のなさ」とは、物事の上っ面しか見ようとしない習性、自己及び他者の誤りに気づこうとしない姿勢乃至素質を意味すると解釈し得るでしょう。まさにXの思考が与えられた枠組を決して越えず、限りなく従順にして、指導教授の錯誤や知的限界に想像が及ばぬというのは、後者にとって全く都合の良い条件が揃っているとは考えられないでしょうか。つまり弟子共に対して、Xと同じ位に無知無思慮になり、感受性と想像力の萎縮を期待しているということになのです。そうであった方が、権力をより容易く揮えるようになりますから(戦前の日本や共産圏諸国のことを考え起こせば、それ程不思議とは感ぜられません)。

 さて以上の私の考えを、以前のの知人達に伝えようとしたところ、貴様は阿呆だ、なぜそんな下らない事に頭を煩わすのだと咎められました。それに対して私は、なぜ目の前の事象を見据えようとしないのか、これらは我々にとってとんでもない愚弄にして侮辱ではないのか、そしてその責任を担う者の心の暗闇を洞察しようとしたり、また彼らに対して怒りを叩きつけようとしないのかと反論したのですが、殆ど答が返って来ませんでした。彼等はこの様な人材の逆選択について本当に嫌気が差す余り、若しかしたら精神的にも無気力になってしまったのでしょうか。仮にそうだとしたら、本当に昔の指導教授一味の罠に嵌まってしまったことになるのではないでしょうか。
 
 以上の通り、私なりに物事を徹底的に考え抜こうと試みてみました。けれども、余り一事に拘泥すると、自らが「大成」出来ないという見本になってしまったような気もしないでもないのですが。

[#2819] Re:失敗に学ばない人
 penpen  - 05/1/8(土) 17:09 -

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   ▼世捨人さん:
 
> 以上の通り、私なりに物事を徹底的に考え抜こうと試みてみました。けれども、余り一事に拘泥すると、自らが「大成」出来ないという見本になってしまったような気もしないでもないのですが。

はは、おかしいですね。
この一文……。わかっていながらついこだわることってありますよね。
世の中には理不尽なことも腹ただしいことも不正なことも
理解不能なこともありますが
基本的にわたしたちはちょっと(?)コミュニケーション能力に欠けるところがあるので
正しいことを他者に伝えようと思うとまずややこしくことはこじれがちです。
妙な誤解を受けたりもします。
残念ですが不正は不正としてそれを正す能力は自分にはないと思い切るのも
ひとつの生き方かもしれません。

不正を見抜く目を持っていてもそれを正しく伝えることばは
わたしたちのものではないかもしれません。

[#2888] Re:失敗に学ばない人
 世捨人 メール  - 05/1/13(木) 13:22 -

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   ▼penpen様
 御返信有難うございます。
> 
>> 以上の通り、私なりに物事を徹底的に考え抜こうと試みてみました。けれども、余り一事に拘泥すると、自らが「大成」出来ないという見本になってしまったような気もしないでもないのですが。
>
>はは、おかしいですね。
>この一文……。わかっていながらついこだわることってありますよね。
>
>不正を見抜く目を持っていてもそれを正しく伝えることばは
>わたしたちのものではないかもしれません。

 我ながらしつこいという自覚を持ってはいますが、絶えざる思考とは全くの対極を成す、極めて無思慮にして判断停止を常とする鈍感な人間という問題に今なお拘わずらっております。今まで説明してきたような人物(X)が実際に存在するだけでなく(本人は本気で哲学研究に従事していると思い込んでいる様子です)、また、このような性格の者を好んで傍に置きたがる人物も往々にして居るという現実に対して、どうしても目を閉ざすことが出来ないのでいるのです。
 
 私は元来人付合いがかなり悪い方で、大学院在学中は二三度しかXと三分以上に亘る会話をしたことがありませんでした(その内の一回、本当に立腹したことがあります)。当時の私はXについて、精神的に受動的にして極めて平板、出来合いの言葉を直ぐに鵜呑みにするという程度の印象しか有していませんでした。要するに私は、Xは精神的にどこか欠けていると感じており、また交際も事実上無かったのですが、指導教授はXを殊の外可愛がるだけでなく、その副官格の助教授と他の大学院生達も、何かの機会にXと一緒に出掛けたり、ことある毎に酒席(Xは全く酒煙草を嗜みません)を共にしていた様子でした。その頃私の二人の友人は、Xの挙動の「無邪気さ」と「従順さ」についてよく面白がって話の種にする一方、私の「常識」の無さ、とりわけ通常の「社会的通念」に対して真っ向から挑むような態度(又は社会的危険の認知能力の欠如)を咎めたり酒の肴になどにしていました。
 その後の数年間私の方では、職探しと度重なる解雇、更に他の土地への移住と自己の課題の追求等で頭が一杯でしたので、たまにかつての友人達と顔を合わせる機会があっても(その際Xも大抵連れて来られました)、Xの人物については殆ど忘れかけていました。また暫くしてXが指導教授の後任として専任教員に採用された件についても、私の同窓生達は何も語らず、又Xに対する態度にも殆ど変化がみられなかったので、Xに私の知らなかった長所があったのかという考えが少し頭を過ったのですが、やはり不審の念を持たざるを得ませんでした。
 
 さて、今から六年前の夏、Xが私が住んでいる土地に立寄った際、Xから連絡があっただけでなく、私の方でもXの人物をよく確かめてみたいという気も起ったので、数回顔を合わせてみることにしました。その結果というと、Xにはかつて私が予感しなかった側面など全くなく、但し下品と無礼に繋がる無知と無思慮さは私の予想を遥かに越えるということということでした。このような人物と数年以上常時接触を保ったり、研究と教育上の同僚として遇するなどというのは、まさに私にとって想像と忍耐の限度を越える以外のなにものでもないので、かつての同窓生達に対して問合せを始めました。その頃になると彼等はXとの交際を事実上打ち切っていたのですが、指導教授とその取巻きの回し者という嫌疑に全く無縁な私の質問に対しても、なかなか返答が捗りませんでした。漸くある程度時間が経ってから、彼等は私の疑念と観察を全て首肯したのですが、その様な躊躇する態度については、単に学科の支配者を慮ってというだけでなく、彼等の感受性と思考力の萎縮を垣間見たような気がしたのです。
 
 ところで、私にとって何とも理解し難いのは、幾年にも亘ってXと定期的に会っていた人々が、その人格(精神構造)を知らずにいたか、乃至はそれについて目を閉ざそうとしていたことに存します。かなり後になって、それについての驚愕を自らに対して誤魔化そうとはしなくなっても、それがかつての指導教授とその副官への怒りや、このような人物を通用させる学界の在り方への疑念とはなっていかないのは、私としては極めて歯痒いとしか言いようがありません。けれども、若しかしたら彼等はXを言うに足らない無害な人物として見做していた、初めから本気で相手にするつもりは無かったというだけだったのかも知れません。そして結局のところは、その様な自己と他者に対する真剣さの欠如が仇となったということになるのでしょうか。

 それにしても不思議なのは、何故私は彼等のような芸当が初めから出来なかったのか、自分の直感(つまり一瞬の印象)を誤魔化せなかったのか、X並びに当時の助教授と関わりあいになろうとしなかったのか(要は雑談する気すら起きなかったのか)ということなのです。
 漸く最近になって、私の感受性は常人より一桁分鋭敏であるが故に(芸術的表現力など一片も持ち合わせていないので、それまでは時折ある程度意識するという以上ではありませんでしたが)、もはや自己の印象を抑圧することが出来ず、更にそれを土壌とする自らの考えを社会的通念に合せて修正するか捨て去る気に全くなれないのであると確信するに至りました。だからこそ、今まで通常の社会生活が殆ど送れなかっただけでなく、つまるところ何を考えているのか分からない奴と思われて、他の人達からも嫌われ通しであったのも、これによって遂に説明し得る様に思われるのです。

[#2901] こだわり続ける
 penpen  - 05/1/14(金) 9:19 -

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   ▼世捨人さん:

そうですねえ。
世捨人さんが最後にXさんと会ったのが6年前。
それからずーっとXさんに象徴される無知と無思慮な人間、
またそのような人物を厚遇する人々への疑問を持ち続けているのですね。
X氏は指導教授の後任として教師の職を得ているにもかかわらず
そのような無知な人間と付き合うことができなかった世捨人さんは
度重なる解雇という目にあっている。
そしてその人事の不正を周囲に教えてもなかなか受け入れられず、
まして学会の在り方への疑念になるには遠い。
確かに歯がゆく理不尽です。

それどころか世捨人さんはあらぬ疑念をかけられて不快な思いをするかもしれない。
Xをうらやんで足を引っ張ろうとしている。
あらぬことをいいふらしているなど……。
世捨て人さんは最終的に学会の在り方にまで問題を突き詰めたのに
全く違う反応と評価になるかもしれないです。

世捨人さんは人と違う精神構造と価値観を持っていますが
それは非常に周囲からは理解しがたく、
俗世間的な考え方をしない人と付き合えば
耐え難いまでに俗な誤解を受けるかもしれません。

大変悲しいことですが、崇高な思想は理解されないものです。
むしろ逆に非常に下劣な誤解を受けます。
しかし、そのような世間の考え方を理解し受け入れ対応しないと
救いがたい奴とつまはじきになります。

耐え難い俗を理解するという道を取らない限り、
わたしたちが世の中に関わることはできないと思います。

[#2997] Re:こだわり続ける私は何者?
 世捨人 メール  - 05/1/19(水) 13:37 -

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   ▼penpen様:
何時もながらの御返事、大変感謝しております。
>
>そうですねえ。
>世捨人さんが最後にXさんと会ったのが6年前。
>それからずーっとXさんに象徴される無知と無思慮な人間、
>またそのような人物を厚遇する人々への疑問を持ち続けているのですね。
>確かに歯がゆく理不尽です。
>
 しかし、もっと不可解なのは、Xと幾年にも亘って常時接していながら、長いことその人物について洞察を怠っていた私の先輩諸氏の態度ではないかと、思うこともあるのです。私の方では、当初からXについて、その精神的な受動性、端的には感受性の粗さと想像力の欠如、殊に批判的姿勢の完全な欠如(別称「素直さ」又は「嫌味のなさ」)に気づかずにいられなかったので、要するに「相手に出来ず」という直感をどうしても抑えることが出来ず、実際のところ挨拶以外の言葉を交わすことも稀にしかありませんでした。さらに、別の研究課題の発見の故に大学院を修士課程までしか通わず、その後は資金稼ぎの為の会社勤めや、別の土地への移住などの事情が重なって、それ以降Xの性格などは殆ど忘れかけていました。
 
 ところが今から六年前、Xが私の住む土地に短期間滞在すると連絡してきたので、幾分面倒とは思いましたが、少し気を変えてみるつもりもあったのて(今迄私は付合い不精の故に両親や友人知人からも咎められ通しでした)、Xと幾度か会ってみることにしました。その結果はというと、半時間も経たないうちに、それまでの怪訝の念から、まさに仰天に次ぐ仰天となりました。念には念を入れてXの人物を観察すべく、幾度か図書館や古書店に同行したり、差し向いで雑談その他を試みてみたのですが、Xについての否定的な印象は募るばかりでした。
 
 これほどの驚愕をもはや自分としては我慢出来なかったので、かつての知人達へ問い始めたのですが、彼等はなかなか事情を説明しようとはしませんでした。漸く幾月か経ってから、彼等は私に対して答え始めたのですが、Xについての私の観察は全て首肯されたのです。Xを優遇する指導教授とその副官の動機に関して、つまりXの素質と能力を認識の有無という点については、意見が一致するまでには至りませんでしが、そのとき真剣な意見交換が行われたという記憶が残りました。ところが幾度か議論を繰り返しても、指導教授とその一味に対して、私の知人達は私程には怒っていないのではないのかという印象を受けたのです。Xの様な(例えば文献収集の基本すらも弁えない)人物を教壇に据えるとは何事か、奴等は他の弟子共や学生に対して、思考力と感受性のXの水準並への切り詰めと切り下げを望んでいるのではないのか、その様なことをする者はもはや師としても研究者としても認めぬなどと怒鳴るのは専ら私の方でした。ところが中堅研究者と自負する(そして以前私を馬鹿にしていたと見受けられる)私の先輩諸氏は何かと口籠り、指導教授にはそれなりの事情があったのだ、今の組織においては何とも如何とし難いのだ、近頃の日本の精神風土の帰結だ、今の奴等は皆馬鹿だ、というような意見しか述べようとしなかったのです。後で私がそのときの談話を思い返すならば、この先輩諸氏は、Xが文献収集の基本すらも知らないのは、かつて自ら研究課題を設定したことがなく、常に権威者の言いなりになる、そしてそれは元来精神的に極めて受動的な素質(つまり感受性及想像力)の故であり、従ってXは凡そ研究教育活動に適していないのであり、それを十分に認識しない者は、教育者として無能であるか知的にも不誠実なのではないのかと首尾一貫して問い続けるには至っていないか、あるいは、その様な問いを自ら抑圧してきたのではという疑念が湧くのです。
 
 以上のように、私はXに接した僅かの機会で以って、極めて短い時間の内に、Xについて怪訝の念から不快感を経て度外れの驚愕を経験し、更に指導教授達に対しては、多少の不可解さから不信感をあっという間に通り抜けて憤怒を抱くようになりました。ところが大学院に残った知人達は、実際のところその過程に十年余を要したように見受けられるのです。彼等は、研究者仲間とその組織への順応の為に、Xその他の言動を見て見ぬ振りをし続けていたのか、又は個人の言動など研究に無関係と見做してXの人物について真剣に考え込むことを意図的に怠っていたのでしょうか。彼等が長い間Xと指導教授の正体を見損なっていたのは、「社会的適応」とも称される二枚舌の能力の故であり、一方初めからその種の能力を欠いていた私は、結果的には、まさに狂人的に鋭敏かつ鮮烈な感受性の持主であったということになるのでしょうか。あるいは何かの童話で「王様は裸だ」と叫んだ子供の如く、自らを社会的危険の認知能力すら欠いた単純な者と見做すべきなのでしょうか。

 今度もまたもや文章が相当の長さになってしまいました。この問題について書き始めると、本当に時間を忘れてしまいそうになります。やはり現在の私は相当興奮しているようです。

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