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▼penpen様:
御返信有難うございます。少しばかり補足を試みてみました。
>▼世捨人さん:
>>>わたし自身、身体的な鈍さはかなりあります。
私の運動能力は極めて低い水準にあり、学校に通っている頃は、球技が全くといって良い程出来ませんでした。また現在のところ、パソコンの外付マウスの使用も諦めています。それから暑さに対して大変弱く、気温が二四度を超えると、頭脳の機能が急激に低下するのです。脈拍もいつも乱れがちで、過激な運動はもとより、コーヒーどころか緑茶の摂取も控えなければならないことが度々あります。但し痛覚は普通の水準の様子で、虫歯の痛みについても(例えば、顔の半分が引きつる、脳の片半分が握り潰される様な痛みと表現するなど)、他の人達から不審がられることなしに話題にすることが出来ます。
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>> 失礼ながらそのような状態は、何か我を忘れて没頭なさっているときのことを、描写しておられるのでしょうか。もしそうであるならば、精神的な集中の裏面乃至代償とも考えられなくもありません。
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>いえ、特に何かに没頭している時でなくても、わたしはどうも自己洞察力に欠けるようです。
>なので世捨人さんが例に挙げた人物は自己洞察力に欠けるという点で
>わたしに似ていると思います。
>わたしのある種の鈍感さは人に(家族からも)いぶかしさを感じさせる時があるようです。
>以前お書きになられていたように、敏感さと鈍感さの並存というだけであれば、いわゆる放心状態と、何かに気を取られているときに、しばしば起こり得ることではないでしょうか。
>> そのうえ、自己の体調やその都度の感覚的知覚に引き摺り回されるだけではなく、いつも自己のなんとも形容し難い、漠然とした気分に捕えられていたので、それを何らかのかたちで乗り越えて、何か日常的または現実的な事柄を実行するのは、いつも本当に骨の折れることでした。
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>わたしもごく簡単なことができなくて困ることがあります。
>例えば年賀状を書くとか、図書館の本を返すとか……。
>また自分の感情を“形容しがたい、漠然とした気分”としか自覚できないことが多いのも似ているように思います。
>わたしは“漠然とした気分”になることを
>自分の感情に対する洞察力が欠けているせいと感じています。
> この「漠然とした気分」、何とも形容し難く定かな形を取らない曖昧模糊とした感情とは、極めて日常的なものでありうるとも考えられます。。自己の気分が常に明瞭な表現を取っており、自他にとって常に理解できる状態であるなどという方が、私にとって余程不気味に思われます。自我の不透明さと曖昧な影に耐えられず、無理に自分の気分を既成の型枠に嵌めて、日常生活からの心理の逸脱の兆しや暗闇を見ようとしないとする態度こそが、「自己の感情に対する洞察」への抑圧ではないでしょうか。
ところで、リルケの『マルテの手記』で描写されたこのような心理状態は、ハイデガーとサルトルによって実存の理解への鍵として論じられています。また、日常の中の曖昧な不気味さはカフカの著述にとっての主題となりました。
>>>ところで世捨て人さんは前述の人物とは正反対のかたでしょうか?
>>
>> 全く反対の性格乃至素質であると述べて差し支えないかと思います。
>不可解であるなら正反対とも言い難いのではないでしょうか。
>たとえ言葉の使い方その他、違っている部分があったとしても……。
>
いや、私は自分がまさに感じたり頭に引っ掛かっていることを脇に置いて、誰かの意見を受容するということは出来ないのです。恐らくその為か二十代前半頃迄は、しばしば噛み付くようなものの言い方をすると咎められていました。先日も、かつての私はいつも神経がぴりぴりしているようだったと、さる知人が述懐しておりました。彼は今でも件の人物に接する機会があるのですが、後者関して、組織の長に対して極めて従順であるばかりでなく(つまり思考が与えられた枠を越えず)、それ以外の人からどんな反応が生じても、自己のやっていることが間違っているのではないのかと絶対考え込んだりしない人物であると語っています。
さて、私が後者の歯の状態に気づいたときから、ひょっとしたら最も切実な身体的知覚をも無視できるような意識構造か、または元来の痛覚の鈍さが、(ありきたりの話題を無批判に繰り返すような)かような人格の基礎を成しているのではないのかと疑うようになりました。さらに、ロボトミー手術の結果とは、もしかするとこのようなものではないのかという考えが幾度か私の頭に浮かんだことがありました。
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