アスペルガーの館の掲示板

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[#26652] 相互の理解は可能か? めえめえ 08/6/30(月) 9:39 [未読]

[#26676] Re:相互の理解は可能か? 08/7/1(火) 16:05 [未読]
[#26704] Re:相互の理解は可能か? めえめえ 08/7/3(木) 8:31 [未読]
[#26709] Re:定量化? めえめえ 08/7/3(木) 14:59 [未読]
[#26733] Re:定量化? 08/7/4(金) 16:46 [未読]
[#26732] Re:相互の理解は可能か? 08/7/4(金) 16:27 [未読]
[#26747] Re:相互の理解は可能か? めえめえ 08/7/5(土) 11:13 [未読]
[#26869] Re:相互の理解は可能か? 08/7/9(水) 10:58 [未読]
[#26708] Re:相互の理解は可能か? ぴっぴ 08/7/3(木) 10:21 [未読]
[#26735] Re:相互の理解は可能か? 08/7/4(金) 17:01 [未読]
[#26994] Re:相互の理解は可能か? ぶじこれきにん 08/7/16(水) 8:27 [未読]
[#27003] Re:相互の理解は可能か? ぶじこれきにん 08/7/16(水) 20:54 [未読]
[#27013] Re:相互の理解は可能か? ぶじこれきにん 08/7/17(木) 7:16 [未読]

[#26676] Re:相互の理解は可能か?
   - 08/7/1(火) 16:05 -

引用なし
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   めえめえさん、こんにちは。笛です。
いつぞやは某ツリーで返事を書き込まなければと窮していたところ、めえめえさんがコメントをつけてくださり、
そのまま発展してしまった後管理人さんから書込禁止のお達しがあったため、何も書かないうちに終わってしまいました。
あの時のめえめえさんのコメントには色々と考えるところがあり、今度あらためてお話ができたらいいなと思っています。

▼めえめえさん:
>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>また、どうしたら可能になるのでしょうか。

療育を受けたこともなく、専門的な知識もない、一当事者が今まで主治医と話したり、他の当事者の意見を聞いた中で考えた個人的な意見を書きます。
立場を分けずに、お互いが当事者と考えるのはどうでしょう。

たとえば今の世の中の考え方でいくと、もし自閉症10人の中に定型発達が1人という状況があって、その状況で長期間生活をしなければならないとしたら、この場合支援が必要なのは定型発達の人でしょう。
これは「より少数派」は、「より多数派」に合わせなければ生きにくい、という現実があるからと私は考えます。

私は「多数派が支援者」という固定観念が一番の障害になっていると考えます。
多数か少数かではなく、「違いがあるから」という視点で見れば、誰も「支援者」でも「支援を受ける側」でもありません。

「違いがある」から発想を出発させれば、自閉症者は定型発達とつきあったり、利害関係が生じる場合処理をスムーズに行う必要性などから、定型発達について学ぶ必要があります。
逆に、定型発達者は上記の理由で、自閉症者について学ぶ必要が生じます。
両者は「違う」というだけで、優劣も強弱も考えない。どちらも互いに「おしえる」「おそわる」(又は互いに関わりを持たない自由もある)対等な人間です。
そんな当たり前の事を受け入れられる意識を持ち、精神的土台が拡大すれば、それで良いのではないでしょうか。

ところが上記はほとんどキレイ事です。
現状は、定型発達の人々はあくまでも「自閉症者を理解」し、定型発達の世界で生きやすいように「支援」する立場です。
土俵はあくまでも「定型発達」にあるところがネックです。

>ジャーナリスト品川裕香さんの書いた記事をご紹介します。
>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります。(下記に続く)

「理解」という言葉は非常に高尚で最善のように考えられがちですが、この言葉がどれほど成就しているのか、定量的に判断出来るテストのようなものでもない限りわかりません。
ちなみに、私は社会人として毎日定型発達の人々の中でサラリーマンをしていますが、それは私が定型発達を理解できているからではありません。
一体脳機能が「定型」に発達しているとは具体的にどういうことなのか、自分とはどのように違う機能をするのか、
私には全くわかりません。想像すら出来ません。
ですから逆に、定型発達の人が自閉症の実際をどの程度理解できるのかも全くわかりません。
ちなみに今の職場では、私が自閉症であることで特別な考慮・配慮はされていません。一度説明を試みましたが「幼稚園児じゃあるまいし」の一言で、私は自分の意思ですべての期待は放棄しました。
パニック防止のための抗てんかん薬と3種の抗鬱剤を常用し、自分でやり方を変えられる処は変え、あとはなんとか職場に合わせています。それでもどうしても会社を休んでしまう日があります。

生まれつき視力がない人のことを例にとると、理解の困難さ(あるいは不可能さ)がわかりやすいかもしれません。
目が見えないとはどういうことなのか。目を閉じてちょっと周辺を動き回ってみればその不自由さは想像できるでしょう。
でもそれは、人生の途中で事故や病気で視力を失った人の心理です。
生まれつき目が見えないとはどういうことか。私には全く想像が出来ません。
(もっとも、想像できないのは私が自閉症だからであって、定型発達の人には想像出来るのでしょうか。
だとしたらますます、定型発達は私の理解を超えていることを確認するだけです。)
そして生まれつき目が見えない人の心理が理解できないことを、私は悲しいと感じています。

[#26704] Re:相互の理解は可能か?
 めえめえ  - 08/7/3(木) 8:31 -

引用なし
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   ▼笛さん:
こちらこそ先日はパニクってしまって失礼しました。
その後も笛さんのコメントは全部拝読しております〜。

>あの時のめえめえさんのコメントには色々と考えるところがあり、今度あらためてお話ができたらいいなと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

>両者は「違う」というだけで、優劣も強弱も考えない。どちらも互いに「おしえる」「おそわる」(又は互いに関わりを持たない自由もある)対等な人間です。
>そんな当たり前の事を受け入れられる意識を持ち、精神的土台が拡大すれば、それで良いのではないでしょうか。

おっしゃる通り、立場を分けずに、人格と人格、個性と個性の関わりと
見られれば、元々ひとりひとりは「違う」ものですから、
コミュニケーションの甲斐も、ニーズもあるでしょうね。

>ところが上記はほとんどキレイ事です。
>現状は、定型発達の人々はあくまでも「自閉症者を理解」し、定型発達の世界で生きやすいように「支援」する立場です。
>土俵はあくまでも「定型発達」にあるところがネックです。

そうなんですよね…

>一体脳機能が「定型」に発達しているとは具体的にどういうことなのか、自分とはどのように違う機能をするのか、
>私には全くわかりません。想像すら出来ません。
>ですから逆に、定型発達の人が自閉症の実際をどの程度理解できるのかも全くわかりません。

おっしゃるように、「理解」というのは定量的に計測できるものでは
ないですし、「理解」≠「受容」でもないようですよね。

どうも、ワタシの知っている親たちで上手に子どもに接しているかたを
見ると、「理解」のターゲットが「行動」にある気がします。

>ちなみに今の職場では、私が自閉症であることで特別な考慮・配慮はされていません。一度説明を試みましたが「幼稚園児じゃあるまいし」の一言で、私は自分の意思ですべての期待は放棄しました。
>パニック防止のための抗てんかん薬と3種の抗鬱剤を常用し、自分でやり方を変えられる処は変え、あとはなんとか職場に合わせています。それでもどうしても会社を休んでしまう日があります。

うーん、ここらへんは性差や職場の方針の差も大きいのかしら・・・
かつて仕事してたとき、ワタシは女性で下っ端(契約社員など)という
こともあって裁量権の範囲が狭かったので、たとえば優先順位が
つけられないとか、この文書のフォントはこれでいいかといった細かな
ことまで確認とってたけど、あまりうるさがられた記憶がありません。
今は毎日仕事をするストレスはありませんが、人と会う約束の日などは
やはりワタシもお薬が手放せませんね。

笛さんが別スレッドのコメントでもおっしゃってたように、
定型の(多数派の)ひとびとには、たいてい、自閉圏の(少数派の)ひと
びとを「理解」したり「受容」したりする必要がない、というのは
実際その通りではないか?と思います。

ではなぜワタシには少数だけど友人がいるのか…?
しょっちゅう会いたいとは思わないけど、たまにメールしたり、
年に何回か会いたいと思うのはなぜなのか…?
もしかして、友人たちがワタシをことさらに「理解」しようと
したりしないからなのか?
なんて、天邪鬼なこと、考えてしまったりします。

笛さんは、以前、知りたいときいてきたひとには真摯に説明する、
とおっしゃってたような気がしますが、きいてこられたときは
どんな気持ちがしますか?また、どう説明なさいますか?

[#26708] Re:相互の理解は可能か?
 ぴっぴ  - 08/7/3(木) 10:21 -

引用なし
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   現在就労されている笛さんの言葉は、私にとって身につまされる思いがしました。書いてあることのほとんどが私の書きたかったことでもあり、たいへん驚いています。

定型発達者が非定型(自閉症者)を理解しない現状については、やはり社会の中でどちらが大多数を形成しているか、という問題に顕著に顕れるでしょうね。社会の中で大多数(マジョリティ)を形成しているのが定型発達者であるかぎり、なかなかわれわれ発達障害者の現状は理解できないように思います。

ここで、一冊の本を紹介させていただきたいと思います。
現在はあまり良著を書いていないのですが、中島義道の『うるさい日本の私』という本です。
この著者は聴覚過敏で、迷惑放送や視覚に見られる障害物に対して抗議を行っている大学の先生です。
ASの世界では、発達障害者の聴覚過敏を的確に表現している方としてよく知られているそうです。

中島先生は騒音論のほか、差別論の専門家でもあり、上に述べたマジョリティやマイノリティの問題についても言及しておられます。
(その多くの著書は眉唾ですが)一度手にとってみられたらいかがでしょうか。

>▼めえめえさん:
>>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>>また、どうしたら可能になるのでしょうか。
>
>療育を受けたこともなく、専門的な知識もない、一当事者が今まで主治医と話したり、他の当事者の意見を聞いた中で考えた個人的な意見を書きます。
>立場を分けずに、お互いが当事者と考えるのはどうでしょう。
>
>たとえば今の世の中の考え方でいくと、もし自閉症10人の中に定型発達が1人という状況があって、その状況で長期間生活をしなければならないとしたら、この場合支援が必要なのは定型発達の人でしょう。
>これは「より少数派」は、「より多数派」に合わせなければ生きにくい、という現実があるからと私は考えます。
>
>私は「多数派が支援者」という固定観念が一番の障害になっていると考えます。
>多数か少数かではなく、「違いがあるから」という視点で見れば、誰も「支援者」でも「支援を受ける側」でもありません。
>
>「違いがある」から発想を出発させれば、自閉症者は定型発達とつきあったり、利害関係が生じる場合処理をスムーズに行う必要性などから、定型発達について学ぶ必要があります。
>逆に、定型発達者は上記の理由で、自閉症者について学ぶ必要が生じます。
>両者は「違う」というだけで、優劣も強弱も考えない。どちらも互いに「おしえる」「おそわる」(又は互いに関わりを持たない自由もある)対等な人間です。
>そんな当たり前の事を受け入れられる意識を持ち、精神的土台が拡大すれば、それで良いのではないでしょうか。
>
>ところが上記はほとんどキレイ事です。
>現状は、定型発達の人々はあくまでも「自閉症者を理解」し、定型発達の世界で生きやすいように「支援」する立場です。
>土俵はあくまでも「定型発達」にあるところがネックです。
>
>>ジャーナリスト品川裕香さんの書いた記事をご紹介します。
>>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります。(下記に続く)
>
>「理解」という言葉は非常に高尚で最善のように考えられがちですが、この言葉がどれほど成就しているのか、定量的に判断出来るテストのようなものでもない限りわかりません。
>ちなみに、私は社会人として毎日定型発達の人々の中でサラリーマンをしていますが、それは私が定型発達を理解できているからではありません。
>一体脳機能が「定型」に発達しているとは具体的にどういうことなのか、自分とはどのように違う機能をするのか、
>私には全くわかりません。想像すら出来ません。
>ですから逆に、定型発達の人が自閉症の実際をどの程度理解できるのかも全くわかりません。
>ちなみに今の職場では、私が自閉症であることで特別な考慮・配慮はされていません。一度説明を試みましたが「幼稚園児じゃあるまいし」の一言で、私は自分の意思ですべての期待は放棄しました。
>パニック防止のための抗てんかん薬と3種の抗鬱剤を常用し、自分でやり方を変えられる処は変え、あとはなんとか職場に合わせています。それでもどうしても会社を休んでしまう日があります。

私は功鬱剤や睡眠薬を処方されていますが、社会性は回復しませんでした。
たいへんとは思いますが、ご健勝な日々をお過ごしください。

[#26709] Re:定量化?
 めえめえ  - 08/7/3(木) 14:59 -

引用なし
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   ▼めえめえさん:
>▼笛さん:

すみません自己レスです。

ふと思ったのですが、うちの上の子は喘息持ちなのですが、
アスペルガー症候群と、喘息などアレルギー性疾患って、
「理解」されにくさがちょっと似てるかも?

小児喘息も、かつては”母原病”とか誤解されて、発作が起こったら
「甘えるな」と背中をどやしたりしてたそうですね(涙
ほんの十数年前、子どもが小さかった頃でもまだこの”母原病”信奉者
がいて、「お母さんの接し方が…」とかご親切にアドバイスして
くださったりして、右往左往したものでした。
「喘息で死んだ人はいないでしょ?」などという、とんでもない誤解を
言われたこともありました。
大発作が命に関わるのは自明で、本人や家族にしてみれば恐怖なのに…。

でもその後、医者や保健士さんから正しい知識を得ることができて、
アレルゲン特定検査の数値なども客観的に定量的に示すことができて、
”母原病”信奉者や、知らないがゆえに(善意にしても)鈍感な人々に
対しても毅然と「理解」と配慮を求めることができるようになりました。

アスペルガー症候群の”一般像”については、「理解」を求めることは
あまり意味がない?し、ひとりひとり特性や個性の出方が違うので
下手に一般化されても困ります。
でも、アレルギー検査みたいに、定量的に数値化できるような側面が
あったら、説明しやすいかもしれませんね。
また、具体的な”困っている点”、あるいは上記の”母原病”のような
誤解がある点については、丁寧に説明する必要があるのかもしれませんね。

[#26732] Re:相互の理解は可能か?
   - 08/7/4(金) 16:27 -

引用なし
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   ▼めえめえさん:
>うーん、ここらへんは性差や職場の方針の差も大きいのかしら・・・
>かつて仕事してたとき、ワタシは女性で下っ端(契約社員など)という
>こともあって裁量権の範囲が狭かったので、たとえば優先順位が
>つけられないとか、この文書のフォントはこれでいいかといった細かな
>ことまで確認とってたけど、あまりうるさがられた記憶がありません。

今の会社は今年で満5年になりますが、まだ私が一番下っ端です。
外資ですが個人商店のような少人数の職場で、純日本人根性のマネジメントがいます。
私の外見は、よく言えば「落ち着いている」「冷静」、悪く言えば「無表情」「冷たい」らしく、困っていても困っているように見えないらしいです。
それで本人は困ったり、焦ったり、動けなくなったりしていても、そうは見えない。
質問をすると冗談か甘えてると思われるのか、馬鹿にされているととれるのか、私にはそのつもりがないので不明ですが、
何度も指示を仰いだり質問したりすると「幼稚園児じゃあるまいし」になります。
うまく要領を得た質問が出来ない=どう質問すれば自分の知りたい答が返ってくるのかわからない、という部分が幼稚園児並と言われる所以かもしれません。
見た目の落ち着いた様子とも合っていないこともあり。

>ではなぜワタシには少数だけど友人がいるのか…?
>しょっちゅう会いたいとは思わないけど、たまにメールしたり、
>年に何回か会いたいと思うのはなぜなのか…?
>もしかして、友人たちがワタシをことさらに「理解」しようと
>したりしないからなのか?

理解ではなく自然に受容しているからではないでしょうか。
私にも同様な友人が少数います。付き合い方もめえめえさんと同じようなものです。
そういう数少ない友人に、アスペルガー症候群と診断されたと話した時も、あまり驚いていませんでしたね。
もともと変人だとは思っていたようで、それでも付き合いが続いていたわけでして。

>なんて、天邪鬼なこと、考えてしまったりします。

いえいえ。そういうのは天邪鬼とは言わないのではありませんか?
私は幼少の頃から「わがまま」と言われたり、「素直になりなさい」と言われたりしたことで、双方の意味が未だにわかりません。
今思い返しても、自分がわがままだったとは思えないし、素直に言ったつもりがわがままと言われ、甚だ混乱します。

>笛さんは、以前、知りたいときいてきたひとには真摯に説明する、
>とおっしゃってたような気がしますが、きいてこられたときは
>どんな気持ちがしますか?また、どう説明なさいますか?

はい。おぼえていて頂いて光栄です。
が、ひとつ確認させて下さい。
めえめえさんがお知りになりたいのは、「誰かがアスペルガー症候群とはどういうものか」と真剣に笛に対して聞いてきた場合、
笛はどのような気持ちがするか?
また、どのように説明するか?
ということでよろしいでしょうか。

[#26733] Re:定量化?
   - 08/7/4(金) 16:46 -

引用なし
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   ▼めえめえさん:
>アスペルガー症候群の”一般像”については、「理解」を求めることは
>あまり意味がない?し、ひとりひとり特性や個性の出方が違うので
>下手に一般化されても困ります。

同感です。

>でも、アレルギー検査みたいに、定量的に数値化できるような側面が
>あったら、説明しやすいかもしれませんね。
>また、具体的な”困っている点”、あるいは上記の”母原病”のような
>誤解がある点については、丁寧に説明する必要があるのかもしれませんね。

自閉症には身体的な特異性(場合により障害となるような)を伴っている場合が多いように考えます。
私自身そうです。
理解が必要だとしたら、むしろ身体的な特異性の方が定型発達の方々にはわかりやすいかもしれないとは常日頃考えています。

[#26735] Re:相互の理解は可能か?
   - 08/7/4(金) 17:01 -

引用なし
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   はじめまして。アスペルガー症候群当事者で社会人の笛と申します。

▼ぴっぴさん:
>ここで、一冊の本を紹介させていただきたいと思います。
>現在はあまり良著を書いていないのですが、中島義道の『うるさい日本の私』という本です。
>この著者は聴覚過敏で、迷惑放送や視覚に見られる障害物に対して抗議を行っている大学の先生です。
>ASの世界では、発達障害者の聴覚過敏を的確に表現している方としてよく知られているそうです。
>
>中島先生は騒音論のほか、差別論の専門家でもあり、上に述べたマジョリティやマイノリティの問題についても言及しておられます。
>(その多くの著書は眉唾ですが)一度手にとってみられたらいかがでしょうか。

書籍のご紹介をありがとうございます。読んでみます。

>私は功鬱剤や睡眠薬を処方されていますが、社会性は回復しませんでした。

あははは。薬では無理でしょう。「回復する」という表現自体もおかしいのでは?
もともと私たち自閉症には「ないらしい」ものですから、「追加する」とか「付加する」が適当に思います。
(一当事者の考えとしてお受け止め下さい。諸論あるようですし。)
おそらく社会性には相互の心の働きが必要不可欠だと考えますが、私に出来るのは定型発達の下手な且つ一方的な模倣に過ぎません。
これも、自分の中で生じた疑問を外に出さないようにしなければ、うっかり模倣が失敗してしまいます。
又、ためこんでいると具合が悪くなり、更に薬が増える…という悪循環に陥らないよう、職場を出たらなるべく一人で過ごせるようにしています。
行動障害だけでしたら薬で何とかなるように思いますが。

>たいへんとは思いますが、ご健勝な日々をお過ごしください。

ありがとうございます。
私もぴっぴさんの絵を楽しみにお待ちしています。

[#26747] Re:相互の理解は可能か?
 めえめえ  - 08/7/5(土) 11:13 -

引用なし
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   ▼笛さん:
>うまく要領を得た質問が出来ない=どう質問すれば自分の知りたい答が返ってくるのかわからない、という部分が幼稚園児並と言われる所以かもしれません。
>見た目の落ち着いた様子とも合っていないこともあり。

あー、どう質問したらいいかわからない、というのは確かにありますね。
あと、質問するタイミングもかなり苦労しました。
業務のフローや作業項目リストなど、文書を媒介に質問してましたが。

>>ではなぜワタシには少数だけど友人がいるのか…?
>>しょっちゅう会いたいとは思わないけど、たまにメールしたり、
>>年に何回か会いたいと思うのはなぜなのか…?
>>もしかして、友人たちがワタシをことさらに「理解」しようと
>>したりしないからなのか?
>
>理解ではなく自然に受容しているからではないでしょうか。
>私にも同様な友人が少数います。付き合い方もめえめえさんと同じようなものです。
>そういう数少ない友人に、アスペルガー症候群と診断されたと話した時も、あまり驚いていませんでしたね。
>もともと変人だとは思っていたようで、それでも付き合いが続いていたわけでして。

わー、似てるところがありますね。光栄です〜
ワタシも元々変人と思われてたので、そういう意味では変人のまま
受容してくれた友人はありがたい存在です。

>私は幼少の頃から「わがまま」と言われたり、「素直になりなさい」と言われたりしたことで、双方の意味が未だにわかりません。
>今思い返しても、自分がわがままだったとは思えないし、素直に言ったつもりがわがままと言われ、甚だ混乱します。

そうなんです。ワタシが素直に言うと、必ず誰かギョッとしたり、
角が立ったりするらしいです。
やはりひとの気持ちに鈍感なのかな?と、悲しくなります。

>が、ひとつ確認させて下さい。
>めえめえさんがお知りになりたいのは、「誰かがアスペルガー症候群とはどういうものか」と真剣に笛に対して聞いてきた場合、
>笛はどのような気持ちがするか?
>また、どのように説明するか?
>ということでよろしいでしょうか。

その通りです。
なぜかというと、ワタシ自身は家族でさえこちらから説明したことが
ないのです。上記の通り、家族や友人は、元々ワタシが変わってるのが
当り前になってしまっているので、説明を求められたことがありません。
子どもについても、「こういうときはこうしてほしい」と具体的な
対処法はお願いしてるけど、あまり詳しくこちらから説明しません。
おそらく、先入観を持たれて、一般的な理解から思い込みをされるのが
イヤなんだからだと思います。

でも最近、家族(特にダンナ)との関係がこのままでいいのかな?と
考えることがあって、もしよかったら、笛さんはどのような感じで
受け取って、どのように説明なさるか?ということを、参考までに
伺いたいと思いました。

[#26869] Re:相互の理解は可能か?
   - 08/7/9(水) 10:58 -

引用なし
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   お返事が遅くなり、申し訳ありません。
言葉や表現を探しています。もうしばらくお待ちください。

[#26994] Re:相互の理解は可能か?
 ぶじこれきにん  - 08/7/16(水) 8:27 -

引用なし
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   ▼笛さん:
>めえめえさん、こんにちは。笛です。
>いつぞやは某ツリーで返事を書き込まなければと窮していたところ、めえめえさんがコメントをつけてくださり、
>そのまま発展してしまった後管理人さんから書込禁止のお達しがあったため、何も書かないうちに終わってしまいました。
>あの時のめえめえさんのコメントには色々と考えるところがあり、今度あらためてお話ができたらいいなと思っています。
>
>▼めえめえさん:
>>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>>また、どうしたら可能になるのでしょうか。
>
>療育を受けたこともなく、専門的な知識もない、一当事者が今まで主治医と話したり、他の当事者の意見を聞いた中で考えた個人的な意見を書きます。
>立場を分けずに、お互いが当事者と考えるのはどうでしょう。
>
>たとえば今の世の中の考え方でいくと、もし自閉症10人の中に定型発達が1人という状況があって、その状況で長期間生活をしなければならないとしたら、この場合支援が必要なのは定型発達の人でしょう。
>これは「より少数派」は、「より多数派」に合わせなければ生きにくい、という現実があるからと私は考えます。
>
>私は「多数派が支援者」という固定観念が一番の障害になっていると考えます。
>多数か少数かではなく、「違いがあるから」という視点で見れば、誰も「支援者」でも「支援を受ける側」でもありません。
>
>「違いがある」から発想を出発させれば、自閉症者は定型発達とつきあったり、利害関係が生じる場合処理をスムーズに行う必要性などから、定型発達について学ぶ必要があります。
>逆に、定型発達者は上記の理由で、自閉症者について学ぶ必要が生じます。
>両者は「違う」というだけで、優劣も強弱も考えない。どちらも互いに「おしえる」「おそわる」(又は互いに関わりを持たない自由もある)対等な人間です。
>そんな当たり前の事を受け入れられる意識を持ち、精神的土台が拡大すれば、それで良いのではないでしょうか。
>

笛さんの意見に同感。定型・自閉がお互いを学びあう関係を構築すれば、支援する、されるから脱した横のつながりが構築されるのではないか。
>ところが上記はほとんどキレイ事です。
>現状は、定型発達の人々はあくまでも「自閉症者を理解」し、定型発達の世界で生きやすいように「支援」する立場です。
>土俵はあくまでも「定型発達」にあるところがネックです。
>
彼ら、彼女らが圧倒的マジョリティなのでそうなってしまう。支援する側の論理を主張しがちになる。そこから人と自分は違う。自閉と、定型は違うけれど、独自の世界を持っていて、その世界は豊かなものだという洞察力は支援者に育ちにくい。支援者も生活の為に仕事をしているから、そこまで自分自身の自己啓発までいたらない。職場の同僚・上司となるとなおさらだ。
>>ジャーナリスト品川裕香さんの書いた記事をご紹介します。
>>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります。(下記に続く)
>
>「理解」という言葉は非常に高尚で最善のように考えられがちですが、この言葉がどれほど成就しているのか、定量的に判断出来るテストのようなものでもない限りわかりません。
>ちなみに、私は社会人として毎日定型発達の人々の中でサラリーマンをしていますが、それは私が定型発達を理解できているからではありません。
>一体脳機能が「定型」に発達しているとは具体的にどういうことなのか、自分とはどのように違う機能をするのか、
>私には全くわかりません。想像すら出来ません。
>ですから逆に、定型発達の人が自閉症の実際をどの程度理解できるのかも全くわかりません。
>ちなみに今の職場では、私が自閉症であることで特別な考慮・配慮はされていません。一度説明を試みましたが「幼稚園児じゃあるまいし」の一言で、私は自分の意思ですべての期待は放棄しました。
>パニック防止のための抗てんかん薬と3種の抗鬱剤を常用し、自分でやり方を変えられる処は変え、あとはなんとか職場に合わせています。それでもどうしても会社を休んでしまう日があります。
>
>生まれつき視力がない人のことを例にとると、理解の困難さ(あるいは不可能さ)がわかりやすいかもしれません。
>目が見えないとはどういうことなのか。目を閉じてちょっと周辺を動き回ってみればその不自由さは想像できるでしょう。
>でもそれは、人生の途中で事故や病気で視力を失った人の心理です。
>生まれつき目が見えないとはどういうことか。私には全く想像が出来ません。
>(もっとも、想像できないのは私が自閉症だからであって、定型発達の人には想像出来るのでしょうか。
>だとしたらますます、定型発達は私の理解を超えていることを確認するだけです。)
>そして生まれつき目が見えない人の心理が理解できないことを、私は悲しいと感じています。
その辺は定型でも難しいのでは???

[#27003] Re:相互の理解は可能か?
 ぶじこれきにん  - 08/7/16(水) 20:54 -

引用なし
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   ▼ぶじこれきにんさん:
>▼笛さん:
>>めえめえさん、こんにちは。笛です。
>>いつぞやは某ツリーで返事を書き込まなければと窮していたところ、めえめえさんがコメントをつけてくださり、
>>そのまま発展してしまった後管理人さんから書込禁止のお達しがあったため、何も書かないうちに終わってしまいました。
>>あの時のめえめえさんのコメントには色々と考えるところがあり、今度あらためてお話ができたらいいなと思っています。
>>
>>▼めえめえさん:
>>>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>>>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>>>また、どうしたら可能になるのでしょうか。
>>
>>療育を受けたこともなく、専門的な知識もない、一当事者が今まで主治医と話したり、他の当事者の意見を聞いた中で考えた個人的な意見を書きます。
>>立場を分けずに、お互いが当事者と考えるのはどうでしょう。
>>
>>たとえば今の世の中の考え方でいくと、もし自閉症10人の中に定型発達が1人という状況があって、その状況で長期間生活をしなければならないとしたら、この場合支援が必要なのは定型発達の人でしょう。
>>これは「より少数派」は、「より多数派」に合わせなければ生きにくい、という現実があるからと私は考えます。
>>

特に職場はその手の傾向が強く、当事者が長く仕事を定年まで続けるにはハードルが高い。マジョリテイ定型=男文化をスタンダードな基準にしているから、私を含めた個性の強い発達障がいの人は、定型男社会から弾き飛ばされやすい。
その中で生き残る人は、相当の努力を本人なりにしているから、かろうじて生き残れる。
>>私は「多数派が支援者」という固定観念が一番の障害になっていると考えます。
>>多数か少数かではなく、「違いがあるから」という視点で見れば、誰も「支援者」でも「支援を受ける側」でもありません。
>>
 同感。多数派が支援者だから前述した定型と違う。その考え普通ではないと,人と考えが違う事を多数派の支援者は、当事者に向って否定して受容交流すらしない。私も前述した人と違う考え、見方を多数派の支援者に否定されて、独自の世界を持つ自分の考えを人前で言っていいのか迷った。この場で自分の考えを述べるまで時間がかかった。私の体験からすると、そういう思いのする当事者は多いのではないか??

>>「違いがある」から発想を出発させれば、自閉症者は定型発達とつきあったり、利害関係が生じる場合処理をスムーズに行う必要性などから、定型発達について学ぶ必要があります。
>>逆に、定型発達者は上記の理由で、自閉症者について学ぶ必要が生じます。
>>両者は「違う」というだけで、優劣も強弱も考えない。どちらも互いに「おしえる」「おそわる」(又は互いに関わりを持たない自由もある)対等な人間です。
>>そんな当たり前の事を受け入れられる意識を持ち、精神的土台が拡大すれば、それで良いのではないでしょうか。
>>
>
>笛さんの意見に同感。定型・自閉がお互いを学びあう関係を構築すれば、支援する、されるから脱した横のつながりが構築されるのではないか。
>>ところが上記はほとんどキレイ事です。
>>現状は、定型発達の人々はあくまでも「自閉症者を理解」し、定型発達の世界で生きやすいように「支援」する立場です。
>>土俵はあくまでも「定型発達」にあるところがネックです。
>>
>彼ら、彼女らが圧倒的マジョリティなのでそうなってしまう。支援する側の論理を主張しがちになる。そこから人と自分は違う。自閉と、定型は違うけれど、独自の世界を持っていて、その世界は豊かなものだという洞察力は支援者に育ちにくい。支援者も生活の為に仕事をしているから、そこまで自分自身の自己啓発までいたらない。職場の同僚・上司となるとなおさらだ。
 補足すると、確かに自閉の文化に対する洞察力を日々の仕事と、生活に追われる支援者には持ちにくいし、その余裕もない。
当事者が絵等アートで表現しても、表面的に自閉文化の理解はするが、本質的理解にいたらず、その良さを社会に向って訴えていく事も、アートを通した社会参加・自立も、定型の多数派支援者には出来ない。絵の展覧会をするのが関の山。
>>>ジャーナリスト品川裕香さんの書いた記事をご紹介します。
>>>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります。(下記に続く)
>>
>>「理解」という言葉は非常に高尚で最善のように考えられがちですが、この言葉がどれほど成就しているのか、定量的に判断出来るテストのようなものでもない限りわかりません。
>>ちなみに、私は社会人として毎日定型発達の人々の中でサラリーマンをしていますが、それは私が定型発達を理解できているからではありません。
>>一体脳機能が「定型」に発達しているとは具体的にどういうことなのか、自分とはどのように違う機能をするのか、
>>私には全くわかりません。想像すら出来ません。
>>ですから逆に、定型発達の人が自閉症の実際をどの程度理解できるのかも全くわかりません。
>>ちなみに今の職場では、私が自閉症であることで特別な考慮・配慮はされていません。一度説明を試みましたが「幼稚園児じゃあるまいし」の一言で、私は自分の意思ですべての期待は放棄しました。
>>パニック防止のための抗てんかん薬と3種の抗鬱剤を常用し、自分でやり方を変えられる処は変え、あとはなんとか職場に合わせています。それでもどうしても会社を休んでしまう日があります。
>>
>>生まれつき視力がない人のことを例にとると、理解の困難さ(あるいは不可能さ)がわかりやすいかもしれません。
>>目が見えないとはどういうことなのか。目を閉じてちょっと周辺を動き回ってみればその不自由さは想像できるでしょう。
>>でもそれは、人生の途中で事故や病気で視力を失った人の心理です。
>>生まれつき目が見えないとはどういうことか。私には全く想像が出来ません。
>>(もっとも、想像できないのは私が自閉症だからであって、定型発達の人には想像出来るのでしょうか。
>>だとしたらますます、定型発達は私の理解を超えていることを確認するだけです。)
>>そして生まれつき目が見えない人の心理が理解できないことを、私は悲しいと感じています。
>その辺は定型でも難しいのでは???

[#27013] Re:相互の理解は可能か?
 ぶじこれきにん  - 08/7/17(木) 7:16 -

引用なし
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   ▼ぶじこれきにんさん:
>▼ぶじこれきにんさん:
>>▼笛さん:
>>>めえめえさん、こんにちは。笛です。
>>>いつぞやは某ツリーで返事を書き込まなければと窮していたところ、めえめえさんがコメントをつけてくださり、
>>>そのまま発展してしまった後管理人さんから書込禁止のお達しがあったため、何も書かないうちに終わってしまいました。
>>>あの時のめえめえさんのコメントには色々と考えるところがあり、今度あらためてお話ができたらいいなと思っています。
>>>
>>>▼めえめえさん:
>>>>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>>>>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>>>>また、どうしたら可能になるのでしょうか。
>>>
>>>療育を受けたこともなく、専門的な知識もない、一当事者が今まで主治医と話したり、他の当事者の意見を聞いた中で考えた個人的な意見を書きます。
>>>立場を分けずに、お互いが当事者と考えるのはどうでしょう。
>>>
>>>たとえば今の世の中の考え方でいくと、もし自閉症10人の中に定型発達が1人という状況があって、その状況で長期間生活をしなければならないとしたら、この場合支援が必要なのは定型発達の人でしょう。
>>>これは「より少数派」は、「より多数派」に合わせなければ生きにくい、という現実があるからと私は考えます。
>>>
>
>特に職場はその手の傾向が強く、当事者が長く仕事を定年まで続けるにはハードルが高い。マジョリテイ定型=男文化をスタンダードな基準にしているから、私を含めた個性の強い発達障がいの人は、定型男社会から弾き飛ばされやすい。
>その中で生き残る人は、相当の努力を本人なりにしているから、かろうじて生き残れる。
>>>私は「多数派が支援者」という固定観念が一番の障害になっていると考えます。
>>>多数か少数かではなく、「違いがあるから」という視点で見れば、誰も「支援者」でも「支援を受ける側」でもありません。
>>>
> 同感。多数派が支援者だから前述した定型と違う。その考え普通ではないと,人と考えが違う事を多数派の支援者は、当事者に向って否定して受容交流すらしない。私も前述した人と違う考え、見方を多数派の支援者に否定されて、独自の世界を持つ自分の考えを人前で言っていいのか迷った。この場で自分の考えを述べるまで時間がかかった。私の体験からすると、そういう思いのする当事者は多いのではないか??
固定観念で一言。固定観念で当事者を決め付けると、当事者自身が成長しても固定観念がそのことを阻む場合がある。多数派の支援者ほど、その陥穽に陥りやすい。


>
>>>「違いがある」から発想を出発させれば、自閉症者は定型発達とつきあったり、利害関係が生じる場合処理をスムーズに行う必要性などから、定型発達について学ぶ必要があります。
>>>逆に、定型発達者は上記の理由で、自閉症者について学ぶ必要が生じます。
>>>両者は「違う」というだけで、優劣も強弱も考えない。どちらも互いに「おしえる」「おそわる」(又は互いに関わりを持たない自由もある)対等な人間です。
>>>そんな当たり前の事を受け入れられる意識を持ち、精神的土台が拡大すれば、それで良いのではないでしょうか。
>>>
>>
>>笛さんの意見に同感。定型・自閉がお互いを学びあう関係を構築すれば、支援する、されるから脱した横のつながりが構築されるのではないか。
>>>ところが上記はほとんどキレイ事です。
>>>現状は、定型発達の人々はあくまでも「自閉症者を理解」し、定型発達の世界で生きやすいように「支援」する立場です。
>>>土俵はあくまでも「定型発達」にあるところがネックです。
>>>
>>彼ら、彼女らが圧倒的マジョリティなのでそうなってしまう。支援する側の論理を主張しがちになる。そこから人と自分は違う。自閉と、定型は違うけれど、独自の世界を持っていて、その世界は豊かなものだという洞察力は支援者に育ちにくい。支援者も生活の為に仕事をしているから、そこまで自分自身の自己啓発までいたらない。職場の同僚・上司となるとなおさらだ。
> 補足すると、確かに自閉の文化に対する洞察力を日々の仕事と、生活に追われる支援者には持ちにくいし、その余裕もない。
>当事者が絵等アートで表現しても、表面的に自閉文化の理解はするが、本質的理解にいたらず、その良さを社会に向って訴えていく事も、アートを通した社会参加・自立も、定型の多数派支援者には出来ない。絵の展覧会をするのが関の山。
>>>>ジャーナリスト品川裕香さんの書いた記事をご紹介します。
>>>>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります。(下記に続く)
>>>
>>>「理解」という言葉は非常に高尚で最善のように考えられがちですが、この言葉がどれほど成就しているのか、定量的に判断出来るテストのようなものでもない限りわかりません。
>>>ちなみに、私は社会人として毎日定型発達の人々の中でサラリーマンをしていますが、それは私が定型発達を理解できているからではありません。
>>>一体脳機能が「定型」に発達しているとは具体的にどういうことなのか、自分とはどのように違う機能をするのか、
>>>私には全くわかりません。想像すら出来ません。
>>>ですから逆に、定型発達の人が自閉症の実際をどの程度理解できるのかも全くわかりません。
>>>ちなみに今の職場では、私が自閉症であることで特別な考慮・配慮はされていません。一度説明を試みましたが「幼稚園児じゃあるまいし」の一言で、私は自分の意思ですべての期待は放棄しました。
>>>パニック防止のための抗てんかん薬と3種の抗鬱剤を常用し、自分でやり方を変えられる処は変え、あとはなんとか職場に合わせています。それでもどうしても会社を休んでしまう日があります。
>>>
>>>生まれつき視力がない人のことを例にとると、理解の困難さ(あるいは不可能さ)がわかりやすいかもしれません。
>>>目が見えないとはどういうことなのか。目を閉じてちょっと周辺を動き回ってみればその不自由さは想像できるでしょう。
>>>でもそれは、人生の途中で事故や病気で視力を失った人の心理です。
>>>生まれつき目が見えないとはどういうことか。私には全く想像が出来ません。
>>>(もっとも、想像できないのは私が自閉症だからであって、定型発達の人には想像出来るのでしょうか。
>>>だとしたらますます、定型発達は私の理解を超えていることを確認するだけです。)
>>>そして生まれつき目が見えない人の心理が理解できないことを、私は悲しいと感じています。
>>その辺は定型でも難しいのでは???

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