|
はじめまして。アスペの子供の母です。
障碍あるなし、関係なく、人は皆違っています。
ですので、他者を完全に理解するという事はありえないのではないか?
とい前提に立って、人と関わると、不用意に違う事や、受け入れられない事で
傷付く事が少なくなるように感じます。
理解しあえない部分があるという前提に立って、人と関わる事で、
進む理解もあるのではないかと思っています。
人間、相手を傷付けようと思わなくとも、不用意に傷付けてしまう事は
たくさんありますし、
この記事のお母さんのように、自分の中にない感覚に驚いて、とっさに
傷付けるような言動をしてしまう事は、私にもあります。
子供の特性を理解したつもりでも、咄嗟の驚くような子供の言動に
反射的に、感情的になる事はありました。
だからって、子供を愛していないというわけではなく、これは理屈では
どうにも受け止め切れないものなのです。
時間をかけて、頭の中をひとつひとつ整理し、感情的になって子供を
傷付けてしまっただろう事を反省しつつ、少しづつ、理解することは
可能ですが、不意打ちのように自分の中にない言動をされると、
人は、反射的に、驚いて、酷い事を言ったりするものだと思います。
ニキリンコさんが、強調表現と言い換えていましたが、
本意ではない、又は、言っている程、真剣に思っているわけではないが、
その場の感情に流されて、オーバーな表現をする。
という事が、あると思うのです。
私は、完全に子供を理解するというのは不可能だと思っています。
それでも、理解したいという想いはあります。
>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります
これは、いろんな場面で、そう感じます。私自身、発達障碍の本などを読み漁って、知識を詰め込む事に専念してた時など、出来ない事があると、つい、障碍と結びつけすぎて失敗した事もあります。
そうやって、たくさん失敗を重ねていきながら、子供からたくさんの事を学び、少しづつ親として成長していくんだと思います。
発達障碍というのに捉われすぎず、その子自身をよく見る事が大事だとつくづく思います。
>子どもの支援をする立場に立ってみると、この記事に出てくるお母さんのようなステレオタイプの”思い込み”や、誤まった”解釈(心理の分析)”を、自分も子どもに対してやっていないか、ときどき不安になります。
>教育の戦略を立てる上で、ある程度の推測は必要かもしれませんが、なるべく支援者側の価値判断が入り込まないようにしたい、と気を引き締めています。
あまり、こうあるべきとか、こうしなければいけないという思い込みに捉われず、
一歩引いて、見守れるといいですよね。
ある意味、子育てに正解はないのですから、自分で悩んで、試行錯誤していくしか
ないのだと思います。
どれだけ正論であっても、人から、こうすべきと言われて納得できるものでもないように思います。自分自身が自発的にその事に気がついて〔この記事なら、お母さんが自分の過ちに自ら気がつく〕、悩みながら答えを出していくもので、本を読んで理解するとかではなく、まさに実践で悩みながら、理解していくしかないのだと思います。
>自閉者の立場からすると、この記事に出てくるような、場にそぐわない行動や表現をとってしまい、それを”深読み”されて驚いたり、自分自身でも周囲から評価されるように冷血だとか変人と感じて、自己責めに陥った経験は多々あります。
>この記事のお母さんのような、情緒的に定型発達と同様のレベルに達してほしいという希望は、計り知れなく遠い道のりのように感じます。
>いえ、そもそも定型発達の情緒的な感受性や処理方法に合わせる必要はあるのか、という疑問を抱いてしまいます。
>自閉者にも情緒はあります。
>ただ、感じ方や表現方法が、非自閉のひとびととは異なっているだけだと思います。
追い込んでしまわないように気をつけます。
でも、追い込んでしまう立場側も実は、深く傷付いているかもしれない事を
考えて、欲しいと思います。
相互理解は可能だとは、思いますが、どちからが一方的に理解を迫るのではなく、
思いやりの心を持って、互いに歩み寄る事が大事のように思えます。
|
|