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▼penpen様
>いかが御過しでしょうか。私の方では、幾分体調を崩しかけていて、幾分返信が遅くなりました。
>>ところで、いったい何がこのような人達に対してつける薬になるのか御存知ありませんか。
>
>わたしとしては他の人の価値観を正そうという考えはありません。
>ですのでそのような人につける薬も知りません。
先の私の言葉はほんの冗談のつもりで書いてしまったのです。当然その様な薬などあるわけがないという確信を有しているが故にです。若しお気を悪くなされたのであれば、心から御詫び致します。
ふとしたことから、この異常な程鈍感にして無思慮な件の人物(以後Xと表記)に関わる問題について大いに気に掛かってきたので、X本人のみならず、私のかつての先輩等に対しても、様々の点について注意深く問い質してみました。その結果として、幾人からも、単にXの論文が問題外の水準であるばかりでなく、翻訳さえまともに出来ない、文脈に即する言葉の意味に気付こうとせずに、文章を機械的に訳してしまう、という一致した答えを得るに至りました。さらに、Xは自分の出来ることの範囲を知らない、何でも自分にも出来ると思い込んででしゃばりたがる、いくら反論しても聞く耳を持たない、何度も断られても平気で頼みごとをする、全く恥というものを知らないかのようだ、と複数の人が語っていたのです。
私が最後にXを見掛けたのは、今から四年位前のことです。その時Xは今から・・・の平和論について発表報告を行うと話しかけてきたので、極めて不快ではありましたが、念のためにどれ位戦争についての知識を有しているか幾つか質問を試みてみました。Xはベトナム戦争の余波、例えば米国内における社会的影響(帰還兵の自殺並びに心理的障害の夥しい発生、及び公権力の威信低下、著しい治安の悪化等)についても今まで一切聞いたことがないという暢気な言葉が返ってきました。しかし私より一回り年長であるXの生年(1956?)と居住地(付近に在日米軍の最大規模の飛行場並びに通信施設)を留意するならば、やはりこの答は奇怪としか言いようがありません。
私の数少ない話相手の一人は、今でもXと接しなければならない立場にあるのですが、本当に頭を抱え込んでいます。Xを教壇に据えた指導教授と助教授は、弟子達の不満や不審の念に対して一切気付かない振りをしつづけており、現在まで誰に対しても謝罪や釈明を行なっていません。
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>>件の人物(X)は「嫌味がない」という点を気に入られた故にか指導教授に可愛がられ、およそ考えられ得る限りの推薦状とそれに伴う特典を手に入れ、(論文の水準が問題外であったのにも拘らず)遂には後任者に指名されました。
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>> 以上の経緯から、彼等は件の人物の中身を知ろうとしていないか、又は(私の一友人の見解によると)知っているが故に通用させているのかという疑問に直面するに至ったのです。
>そうですねえ。
>わたしも世捨て人さんの友人の見解に近い推理をします。
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>>もし前者であれば、彼等の人物眼のなさの証明と見做し得るでしょうし、また後者であれば、何はともあれ最も安直な方法で支配しうる人物しか許容しないという、例の指導教授とその取巻き達の有する信念を、この人事の例に於いて読み取れはしないでしょうか。
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>わたしたちには理解できない価値観があるのかもしれませんね。
>純粋に優秀な論文のみを求めてはいないのでしょう。
>そのかたの指導教授は……。
このXの「嫌味のなさ」とは、物事の上っ面しか見ようとしない習性、自己及び他者の誤りに気づこうとしない姿勢乃至素質を意味すると解釈し得るでしょう。まさにXの思考が与えられた枠組を決して越えず、限りなく従順にして、指導教授の錯誤や知的限界に想像が及ばぬというのは、後者にとって全く都合の良い条件が揃っているとは考えられないでしょうか。つまり弟子共に対して、Xと同じ位に無知無思慮になり、感受性と想像力の萎縮を期待しているということになのです。そうであった方が、権力をより容易く揮えるようになりますから(戦前の日本や共産圏諸国のことを考え起こせば、それ程不思議とは感ぜられません)。
さて以上の私の考えを、以前のの知人達に伝えようとしたところ、貴様は阿呆だ、なぜそんな下らない事に頭を煩わすのだと咎められました。それに対して私は、なぜ目の前の事象を見据えようとしないのか、これらは我々にとってとんでもない愚弄にして侮辱ではないのか、そしてその責任を担う者の心の暗闇を洞察しようとしたり、また彼らに対して怒りを叩きつけようとしないのかと反論したのですが、殆ど答が返って来ませんでした。彼等はこの様な人材の逆選択について本当に嫌気が差す余り、若しかしたら精神的にも無気力になってしまったのでしょうか。仮にそうだとしたら、本当に昔の指導教授一味の罠に嵌まってしまったことになるのではないでしょうか。
以上の通り、私なりに物事を徹底的に考え抜こうと試みてみました。けれども、余り一事に拘泥すると、自らが「大成」出来ないという見本になってしまったような気もしないでもないのですが。
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