アスペルガーの館の掲示板

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[#2055] [投稿者削除] [未読]

[#2888] Re:失敗に学ばない人 世捨人 05/1/13(木) 13:22 [未読]
[#2901] こだわり続ける penpen 05/1/14(金) 9:19 [未読]
[#2997] Re:こだわり続ける私は何者? 世捨人 05/1/19(水) 13:37 [未読]

[#2888] Re:失敗に学ばない人
 世捨人 メール  - 05/1/13(木) 13:22 -

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   ▼penpen様
 御返信有難うございます。
> 
>> 以上の通り、私なりに物事を徹底的に考え抜こうと試みてみました。けれども、余り一事に拘泥すると、自らが「大成」出来ないという見本になってしまったような気もしないでもないのですが。
>
>はは、おかしいですね。
>この一文……。わかっていながらついこだわることってありますよね。
>
>不正を見抜く目を持っていてもそれを正しく伝えることばは
>わたしたちのものではないかもしれません。

 我ながらしつこいという自覚を持ってはいますが、絶えざる思考とは全くの対極を成す、極めて無思慮にして判断停止を常とする鈍感な人間という問題に今なお拘わずらっております。今まで説明してきたような人物(X)が実際に存在するだけでなく(本人は本気で哲学研究に従事していると思い込んでいる様子です)、また、このような性格の者を好んで傍に置きたがる人物も往々にして居るという現実に対して、どうしても目を閉ざすことが出来ないのでいるのです。
 
 私は元来人付合いがかなり悪い方で、大学院在学中は二三度しかXと三分以上に亘る会話をしたことがありませんでした(その内の一回、本当に立腹したことがあります)。当時の私はXについて、精神的に受動的にして極めて平板、出来合いの言葉を直ぐに鵜呑みにするという程度の印象しか有していませんでした。要するに私は、Xは精神的にどこか欠けていると感じており、また交際も事実上無かったのですが、指導教授はXを殊の外可愛がるだけでなく、その副官格の助教授と他の大学院生達も、何かの機会にXと一緒に出掛けたり、ことある毎に酒席(Xは全く酒煙草を嗜みません)を共にしていた様子でした。その頃私の二人の友人は、Xの挙動の「無邪気さ」と「従順さ」についてよく面白がって話の種にする一方、私の「常識」の無さ、とりわけ通常の「社会的通念」に対して真っ向から挑むような態度(又は社会的危険の認知能力の欠如)を咎めたり酒の肴になどにしていました。
 その後の数年間私の方では、職探しと度重なる解雇、更に他の土地への移住と自己の課題の追求等で頭が一杯でしたので、たまにかつての友人達と顔を合わせる機会があっても(その際Xも大抵連れて来られました)、Xの人物については殆ど忘れかけていました。また暫くしてXが指導教授の後任として専任教員に採用された件についても、私の同窓生達は何も語らず、又Xに対する態度にも殆ど変化がみられなかったので、Xに私の知らなかった長所があったのかという考えが少し頭を過ったのですが、やはり不審の念を持たざるを得ませんでした。
 
 さて、今から六年前の夏、Xが私が住んでいる土地に立寄った際、Xから連絡があっただけでなく、私の方でもXの人物をよく確かめてみたいという気も起ったので、数回顔を合わせてみることにしました。その結果というと、Xにはかつて私が予感しなかった側面など全くなく、但し下品と無礼に繋がる無知と無思慮さは私の予想を遥かに越えるということということでした。このような人物と数年以上常時接触を保ったり、研究と教育上の同僚として遇するなどというのは、まさに私にとって想像と忍耐の限度を越える以外のなにものでもないので、かつての同窓生達に対して問合せを始めました。その頃になると彼等はXとの交際を事実上打ち切っていたのですが、指導教授とその取巻きの回し者という嫌疑に全く無縁な私の質問に対しても、なかなか返答が捗りませんでした。漸くある程度時間が経ってから、彼等は私の疑念と観察を全て首肯したのですが、その様な躊躇する態度については、単に学科の支配者を慮ってというだけでなく、彼等の感受性と思考力の萎縮を垣間見たような気がしたのです。
 
 ところで、私にとって何とも理解し難いのは、幾年にも亘ってXと定期的に会っていた人々が、その人格(精神構造)を知らずにいたか、乃至はそれについて目を閉ざそうとしていたことに存します。かなり後になって、それについての驚愕を自らに対して誤魔化そうとはしなくなっても、それがかつての指導教授とその副官への怒りや、このような人物を通用させる学界の在り方への疑念とはなっていかないのは、私としては極めて歯痒いとしか言いようがありません。けれども、若しかしたら彼等はXを言うに足らない無害な人物として見做していた、初めから本気で相手にするつもりは無かったというだけだったのかも知れません。そして結局のところは、その様な自己と他者に対する真剣さの欠如が仇となったということになるのでしょうか。

 それにしても不思議なのは、何故私は彼等のような芸当が初めから出来なかったのか、自分の直感(つまり一瞬の印象)を誤魔化せなかったのか、X並びに当時の助教授と関わりあいになろうとしなかったのか(要は雑談する気すら起きなかったのか)ということなのです。
 漸く最近になって、私の感受性は常人より一桁分鋭敏であるが故に(芸術的表現力など一片も持ち合わせていないので、それまでは時折ある程度意識するという以上ではありませんでしたが)、もはや自己の印象を抑圧することが出来ず、更にそれを土壌とする自らの考えを社会的通念に合せて修正するか捨て去る気に全くなれないのであると確信するに至りました。だからこそ、今まで通常の社会生活が殆ど送れなかっただけでなく、つまるところ何を考えているのか分からない奴と思われて、他の人達からも嫌われ通しであったのも、これによって遂に説明し得る様に思われるのです。

[#2901] こだわり続ける
 penpen  - 05/1/14(金) 9:19 -

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   ▼世捨人さん:

そうですねえ。
世捨人さんが最後にXさんと会ったのが6年前。
それからずーっとXさんに象徴される無知と無思慮な人間、
またそのような人物を厚遇する人々への疑問を持ち続けているのですね。
X氏は指導教授の後任として教師の職を得ているにもかかわらず
そのような無知な人間と付き合うことができなかった世捨人さんは
度重なる解雇という目にあっている。
そしてその人事の不正を周囲に教えてもなかなか受け入れられず、
まして学会の在り方への疑念になるには遠い。
確かに歯がゆく理不尽です。

それどころか世捨人さんはあらぬ疑念をかけられて不快な思いをするかもしれない。
Xをうらやんで足を引っ張ろうとしている。
あらぬことをいいふらしているなど……。
世捨て人さんは最終的に学会の在り方にまで問題を突き詰めたのに
全く違う反応と評価になるかもしれないです。

世捨人さんは人と違う精神構造と価値観を持っていますが
それは非常に周囲からは理解しがたく、
俗世間的な考え方をしない人と付き合えば
耐え難いまでに俗な誤解を受けるかもしれません。

大変悲しいことですが、崇高な思想は理解されないものです。
むしろ逆に非常に下劣な誤解を受けます。
しかし、そのような世間の考え方を理解し受け入れ対応しないと
救いがたい奴とつまはじきになります。

耐え難い俗を理解するという道を取らない限り、
わたしたちが世の中に関わることはできないと思います。

[#2997] Re:こだわり続ける私は何者?
 世捨人 メール  - 05/1/19(水) 13:37 -

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   ▼penpen様:
何時もながらの御返事、大変感謝しております。
>
>そうですねえ。
>世捨人さんが最後にXさんと会ったのが6年前。
>それからずーっとXさんに象徴される無知と無思慮な人間、
>またそのような人物を厚遇する人々への疑問を持ち続けているのですね。
>確かに歯がゆく理不尽です。
>
 しかし、もっと不可解なのは、Xと幾年にも亘って常時接していながら、長いことその人物について洞察を怠っていた私の先輩諸氏の態度ではないかと、思うこともあるのです。私の方では、当初からXについて、その精神的な受動性、端的には感受性の粗さと想像力の欠如、殊に批判的姿勢の完全な欠如(別称「素直さ」又は「嫌味のなさ」)に気づかずにいられなかったので、要するに「相手に出来ず」という直感をどうしても抑えることが出来ず、実際のところ挨拶以外の言葉を交わすことも稀にしかありませんでした。さらに、別の研究課題の発見の故に大学院を修士課程までしか通わず、その後は資金稼ぎの為の会社勤めや、別の土地への移住などの事情が重なって、それ以降Xの性格などは殆ど忘れかけていました。
 
 ところが今から六年前、Xが私の住む土地に短期間滞在すると連絡してきたので、幾分面倒とは思いましたが、少し気を変えてみるつもりもあったのて(今迄私は付合い不精の故に両親や友人知人からも咎められ通しでした)、Xと幾度か会ってみることにしました。その結果はというと、半時間も経たないうちに、それまでの怪訝の念から、まさに仰天に次ぐ仰天となりました。念には念を入れてXの人物を観察すべく、幾度か図書館や古書店に同行したり、差し向いで雑談その他を試みてみたのですが、Xについての否定的な印象は募るばかりでした。
 
 これほどの驚愕をもはや自分としては我慢出来なかったので、かつての知人達へ問い始めたのですが、彼等はなかなか事情を説明しようとはしませんでした。漸く幾月か経ってから、彼等は私に対して答え始めたのですが、Xについての私の観察は全て首肯されたのです。Xを優遇する指導教授とその副官の動機に関して、つまりXの素質と能力を認識の有無という点については、意見が一致するまでには至りませんでしが、そのとき真剣な意見交換が行われたという記憶が残りました。ところが幾度か議論を繰り返しても、指導教授とその一味に対して、私の知人達は私程には怒っていないのではないのかという印象を受けたのです。Xの様な(例えば文献収集の基本すらも弁えない)人物を教壇に据えるとは何事か、奴等は他の弟子共や学生に対して、思考力と感受性のXの水準並への切り詰めと切り下げを望んでいるのではないのか、その様なことをする者はもはや師としても研究者としても認めぬなどと怒鳴るのは専ら私の方でした。ところが中堅研究者と自負する(そして以前私を馬鹿にしていたと見受けられる)私の先輩諸氏は何かと口籠り、指導教授にはそれなりの事情があったのだ、今の組織においては何とも如何とし難いのだ、近頃の日本の精神風土の帰結だ、今の奴等は皆馬鹿だ、というような意見しか述べようとしなかったのです。後で私がそのときの談話を思い返すならば、この先輩諸氏は、Xが文献収集の基本すらも知らないのは、かつて自ら研究課題を設定したことがなく、常に権威者の言いなりになる、そしてそれは元来精神的に極めて受動的な素質(つまり感受性及想像力)の故であり、従ってXは凡そ研究教育活動に適していないのであり、それを十分に認識しない者は、教育者として無能であるか知的にも不誠実なのではないのかと首尾一貫して問い続けるには至っていないか、あるいは、その様な問いを自ら抑圧してきたのではという疑念が湧くのです。
 
 以上のように、私はXに接した僅かの機会で以って、極めて短い時間の内に、Xについて怪訝の念から不快感を経て度外れの驚愕を経験し、更に指導教授達に対しては、多少の不可解さから不信感をあっという間に通り抜けて憤怒を抱くようになりました。ところが大学院に残った知人達は、実際のところその過程に十年余を要したように見受けられるのです。彼等は、研究者仲間とその組織への順応の為に、Xその他の言動を見て見ぬ振りをし続けていたのか、又は個人の言動など研究に無関係と見做してXの人物について真剣に考え込むことを意図的に怠っていたのでしょうか。彼等が長い間Xと指導教授の正体を見損なっていたのは、「社会的適応」とも称される二枚舌の能力の故であり、一方初めからその種の能力を欠いていた私は、結果的には、まさに狂人的に鋭敏かつ鮮烈な感受性の持主であったということになるのでしょうか。あるいは何かの童話で「王様は裸だ」と叫んだ子供の如く、自らを社会的危険の認知能力すら欠いた単純な者と見做すべきなのでしょうか。

 今度もまたもや文章が相当の長さになってしまいました。この問題について書き始めると、本当に時間を忘れてしまいそうになります。やはり現在の私は相当興奮しているようです。

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