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何となく私が室蘭にいたときの経験を思い出したので、勝手ながらレスさせていただきました。
▼ブルースカイさん:
>母に文句を言ったことがない。
>小さいころは、親に口答えするなんて恐ろしくてできなかったし、する術を知らなかった。自分がうすボンヤリしてからは、親の想いと抵触することがなくなった。
>それでも、何か出てくるときは、ボンヤリ、ウトウト眠ればよかった。眠れば、全ての苦痛は回避できた。
私の場合は親に反抗できなかった最大の理由が身体障害であり、親の対応に不満があっても、それを訴えるだけで見捨てられるような気がして怖かったのです。
茨城に来る前も、室蘭では理不尽な解雇の後職探しがうまく行かず、一時は室蘭のハローワークに事務短期と土建業と営業の求人しかない、と言うこともありましたが、全部私には不可能な業種でした。(事務短期はデスクワークなので、業種を考えると可能だが、応募が女性に限られていたため何度も門前払いを食らった)コンピュータの仕事を続けるためには室蘭を離れることも必要だと腹を括って求職活動を続けましたが、そのために親と意見が対立し、40歳にしてようやく「反抗期」を迎えるに至りました。
それまでは親に不満を打ち明けたのは、身体障害を理由に学校でいじめられたときぐらいで、「オフクロがオレをこんな体に生んでくれたのが悪い」と言うのが関の山でした。(それでもオフクロにはかなり堪えたかもしれません)
私の場合は、親の過保護もかなり以前からウザく感じていましたが、振り払うだけ神経が据わっていませんでした。しかし気が付いたときには、親の過保護は結局親の都合によるものだったのではないのか、という思いだけが残りました。
大学生になっても社会人になっても「恋愛禁止」だなんて、こんな常識外れな親もいまどき珍しいです。
しかし実際には、私が二重に障害を持って生まれ育ったことが家の恥になるのではないのかと感じて、表に出したくなかったのではないのか、ということを匂わす言動が度々あったことが、私が親の過保護が親の都合によるものであると断定するに至った根拠です。
だから親父が死ぬまで運転免許を取得することができなかった。そればかりか、自動車学校に通い始めたら、家中の電気製品が立て続けに原因不明の故障を繰り返し、私が思ったよりも簡単に運転免許を取得したら、弟の愛車が原因不明の故障で前途走行不能になった、ということがあり、「親父の怨念」と騒がれました。
>>>だから、私は今こうして元気に茨城で生活していることに関しては、神様に対しては感謝することはできても、両親に対する感謝の気持ちが湧きません。
でも茨城での生活も4ヶ月になろうとし、私自身、遅まきながら親父やオフクロのマリオネットでないことを少しずつ実証しています。
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