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mementoさんへ
彼とmementoさんは、違う感性の持ち主だと言う事を認識(mementoさんは多分定型だろうし、彼は恐らくASだろうと言うような認識でもかまわないと思います)しながら彼の事を・・同じような喜怒哀楽の感情を持つ、同じ人間なんだと言う認識も同時に持てた時、彼を本当の意味で尊重できるのではないでしょうかね。それは彼と言う個の尊重と言う事だと思います。
ただその時に、ネットや本なんかから得られる知識と言うのは、注意が必要だと思うんです。一般目線での情報を定型の人がいくら読んで知識を持ったとしても、それは彼への理解には繋がらないと思うのですよ。彼は彼ですから。
例えばですが「拘りがあるのです」「変化を嫌うのです」「不器用なので車の運転は注意です」「人の気持ちが分からないのです」等々、そのような情報をいくら読まれても「迷い」や「違い」が増えるだけで、悪く表現すると偏見の目を養う事と繋がらないでしょうかね?AS傾向の彼を知りたいと思えば思ほど情報を集めてしまい、集める事で間違った価値観を持ってしまい、その内容を詰め込めば詰め込む程、mementoさんが寄り添いたいと思われている彼にその価値観を押し付けてしまい、結果として彼に寄り添えなくなって行く。。そのような可能性を感じているのですが。
「変化を嫌うのです」これは、私の目線で読むと、その行動や場所が「安心できるetc」から、それ以外の行動をあまり取らない。と解釈します。⇒安心できる範囲が広がれば行動範囲、活動範囲も広がります。
「拘りがあるのです」これは、私の目線で読むと、その行動や場所が特に「楽しいから、落ち着くからetc」その場所や行動を選ぶと解釈します。
「過集中」これは、私の目線で読むと、その行動が「楽しいからetc」続ける事が出来ると解釈します。
「不器用なので車の運転は注意です」・・私は、若い頃、ドライビングテクニックを駆使して峠を攻めていました。一般の人よりも運転は上手いと思いますね。しかし、音楽にあわせて行進する場合、手と足が合わなくなって来たりする不器用な所もあります。何かで紹介される場合には、例えば「行進で手と足が合わない=不器用なのです」と言うのが主に紹介され、「時に、運転が上手い場合があります」等となるのでしょうね。
「人の気持ちが分からないのです」これはあると思いますね。しかし、同時に定型の人も非定型の人の気持ちが分からないでしょ?お互いに分からない事として同じ条件のはずなのに「AS=人の気持ちが分からない」と主に紹介されてしまう。ならばこの場合の「人」とは=定型(一般)でしょ?
AS傾向の私も、そして彼も同じ人なのですが。。。
多分ですが、私の場合、高速の分析により、定型の方同士の感情伝達のスピードよりも、感情を分析、認知するのは早いかも知れませんよ。しかし、定型の方同士での感情のやり取りとの最大の違いは、感情の共有=共感が出来ないのだろうと思います。私の場合は、相手の感情を高速の分析により分かったとしても、その相手との感情を共有するのではなくて、ただ相手の感情が分かるだけなのだろうなぁと思います。そして多分これは、共感とは言わないですし、感情のやり取りでの意思の疎通も難しいように感じます。
今後、mementoさんが彼に寄り添いたいと思われるのであれば、一般(定型)目線ではなく、常に彼に寄り添い、彼の目線を感じて差し上げて下さい。もしもそれが出来た時、彼の広くて深くて、その広がりや膨らみのある世界がきっとmementoさんにも見えてくると思います。応援しております。
何かありましたら、いつでもどうぞ (^.^)
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