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▼ことりさん:
こんにちは。返信を有難う御座います。
>>>>1.記憶についてです。
>もう一つのResにも書きましたが、タイトルは「文字映像」として浮かび上がってくるわけではありません。音声として聞こえるのでもないので、「言葉を感じる」とでも・・言えば良いのでしょうか。判り辛い説明ですみません。
いえいえ、大丈夫ですよ。ことりさんからそう表現して頂くと・・・タイトルまでは「映像」ではないような気がしてきました。。アイコンのタイトル・・アイコンが画面に沢山ある。。確かに、タイトルまでは分からないですね。でもその目的のアイコンの位置は微妙に知っているように感じますね。これがことりさんが表現されている「言葉を感じる」と言う事なのでしょうかね。。でも私がはっきりと分かっているアイコン(特に興味があるような内容の入っているフォルダ)のタイトルと位置は、頭の中で「画像」で描けるようですが。(そのままの姿形でタイトルも画像として見えているように思いますね。。)
>また、私にとって記憶とは「覚えた事そのもの」よりも、「どうやって記憶を呼び出すか」が重要です。そうでないと、何も思い出せなくて、全く役に立たないのです。
>私が記憶=情報を呼び出す際には、記憶した時の情報をどう分類しているかという事が重要になってきます。こう考えますと、タイムさんの仰る「分類方法の一つとしてのお話」と繋がってきます。
きっと、そうですよね。分類方法も記憶していると思いますので、正確には分ける事ができないのかも知れませんね。
>私が、ある情報を呼び出す際のキーワードとなる言葉は、一つの事象に対して複数(沢山)あるようです。
>と、考えていきますと、タイムさんの仰る
>>エクセルファイルが20個並んでいた場合には、そのタイトルを見なければ内容が分からないと言う意味なのですかね?
>というご質問に対しては、「はい。タイトルを見ないと内容は分りません」という事になりますね。
なるほどです。私の場合は同じフォルダがいくつもあって、そのそれぞれに「りんご・みかん・ばなな・なし・いちご」等と分類していたとしたら、先程のお話のように、その位置やタイトルが画像として浮かぶ場合(特に興味があるような内容の入っているフォルダ)がありますので、その場合にはタイトルを見なくても、ここには「いちご」そこには「りんご」があるはず。となるようですが・・・それ以外は、フォルダの位置もその個数も曖昧であり、そのタイトルまでは映像で再現されないようです。そして実際にフォルダを探す場合には、目で見てタイトルを確認して「開く」と言う行動になりますものね。
>私とは逆に、私が心引かれている彼は、「○○年に・・・をした」「それは***年のことだ」と自分の記憶と数字を結びつけるのが上手ですが、「何でそんな事ができるのか?」と、私にとっては非常に不思議です。
一度、彼に聞いてみられても面白いかも知れませんね。
>どうも、私の頭の中の分類は 「言語>映像>数字」という具合になっているようですが、タイムさんの記憶の分類で、数字は有効ですか?
どうでしょうか。。考えた事も無いのですが・・多分「数字」は「言葉」と同列だと思いますね。それで考えると「映像>数字・言語」となるような気がしますね。
>>>>2.個性と障害についてです。
>>例えると、「果物」の種類の中に「りんご」が含まれるような認識です。
>>「果物=個性」「りんご=障害」
>
>非常に判りやすいご説明で「なるほどー!!」と思いました。
>もし何か、こういう事象を説明する必要に迫られる事がありましたら、私も、この説明方法をお借りしてもよろしいでしょうか?
どうぞどうぞ、御自由に(笑)
ことりさんには、分かり易かったでしょうか?でも「個性と障害を同列」で考えてしまうと、もしも現在の定型と非定型の人数割が逆転した場合に、困るはずですものね。その個人の特徴が変わっていない場合にも、ころころと個性が生まれたりなくなったりと。私が知っている範囲でのお話ですが、個性的だと自称される一般(定型?)の方で「個性とは、その社会性を満たした上での秀でた部分の事」と表現されるがおられたのです。しかし、現在の定型と非定型の人数比率がもしも逆転した場合には、今の定型の方が数少ない側となってしまい、今までその定型の方が表現していた「個性とは、その社会性を満たした上での」の社会性(この場合の社会は、非定型が多数の社会です)が満たせなくなりますので、その定型の方の特徴が全く変わっていなくても、その人の特徴が「個性ではない」となってしまいますでしょ?(笑)でも人としてのベースに「個性」を位置付けておくと、その定型の方の「その個性」は失われずにすみますよね・・ですから「ASは、個性か?障害か?」を考えた時「りんごは、くだものか?みかんか?」・・のように私には見えたのですね。
>それでも、その人の持つ能力によって人を分類する時、器質的な能力(100mを10秒で走れる。4回転ジャンプを飛べる等)でない限り、明確な境界は無いと思います。これは、はっきりいえます。
これが「客観的な判断基準」と言う事ですよね?
話は違いますが、前から感じていたんですよ。例えば「客観的な意見」・・・「客観的な意見」と言うのは、その人の「主観的な見解」の事でしょ?と。。
>もちろん各種検査で、その人の現在の状態を点数化し、境界線を引いて分類する事もできるのでしょうが、それは母集団の中における相対的な位置であって、絶対的なものではありません。
考えてみるとこの世界、ほとんどが相対的な価値観ですよね。〜より〜が出来るとか出来ないとか。その価値観で見ている方が多くおられるように感じますね。私の場合はそう言う価値観は少ないのかな。。私は、私がそれで良いと思えれば、又、楽しければ、それで私は満足なんですよね。
>検査を受ける人の、精神状態や生理状態によっても、結果は変わってきますしね。(最近、ある種のカウンセリング関連の資格を取るために「アセスメント」と呼ばれる性格・適正関連の検査についても、必要に迫られて勉強したばかりなのです。)
ことりさんは、カウンセラーを目指されているのですか?
>こういう時代に生まれていたら、私は、生存競争に生き残れなかった事でしょう。。。なんて、考えるのも楽しいですね。
あまり一般には理解されないようですが、本当に楽しいと感じる事がありますね。
>でも、こうやって、「自分が当たり前だと思っている事は、決して当たり前ではない」と分っていくのって、面白いですよね。
自分とは違った価値観を認知する事が、自分以外の人への尊重と自身の自尊心維持に繋がるのでしょうね。固定観念に縛られず、いつも自由でいたいものです。
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