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エバラさん、はじめまして。ご紹介ありがとうございます。
「黒人なら皆、歌、ラップやダンスが上手いと思われて、、」と音痴な黒人の方の愚痴を思い出してしまいました。長野の冬季オリンピック、その後のパラリンピック。あれが障害者スポーツを世間に知らしめたと思いますが、そのあと近所の自立生活支援センターへいったら、車椅子の方が「あれは良かったけど、それを見た人から『貴方も頑張りなさい』と言われるのは弱った」と言っていたのです。当時はまだASDと判っていないので、一人一人ちがうのだから「そりゃ、そうだね」と答えましたけど、今、ASDと判ってから思い起こすと、「弱った」の意味合が、陰影をもっているように感じます。
そこに存在しないものとして無視されるよりは話しかけられる方が「社会的」に存在を認められるのだから良い事だけれど、今も頑張っているのに、それは認められ評価されれず、更に「頑張れ」といわれる。健常者から今よりもっと「頑張れ」といわれる社会的文脈・枠組みの中に常に居る、置かれる。そういう社会的文脈で存在を認められる。黒人=歌、ラップやダンスが上手いという文脈の中でカラオケにいる音痴な黒人。
グランディン女史は、いわばパラリンピックのアスリート。アスリートの果たした障害者=身体的無能というラベル剥し、啓蒙という役割を、この動画のような一般人向けの講演では、グランディン女史は有効に果たすと思う。
パラリンピックをみた人が車椅子の人に「貴方も頑張りなさい」という社会的文脈は壊れなかった。この講演やグランディン女史の言説でも、ASD=無能というレッテル剥しは出来ても、ASDに才能開発を施せば、社会に役立つタレント・才能が出てくる、そうならないのは1.周囲の開発のやり方・支援が上手くない、or、2.本人の努力がたりないという新たな社会的文脈・枠組みに置き換わるだけのように思える。
高い才能を示してるグランディン女史、出典を思い出せないので「そうらしい」と書くのだが、教授&社長の女史には様々な話が持ち込まれる。女史は話を言葉通りに信じて(如何にもASD)詐欺話に乗り易いので、秘書さんが防御していると読んだ事がある。うそ話は、誤信念課題の第二水準、命題、ジョンとメリーとアイスクリーム屋さんの話の課題の自己言及型の構造をしている。ASDは、この第二水準の課題を上手に解けない事が多い。結果、うそ・詐欺話に引っ掛る。
第二水準の課題を上手に解けない事は、逆に、自分からの話も自己言及型の構造に上手に作れないようだ。自分が言いたい主題・テーマで、エピソード01、エピソード02・・・を自己言及的に括れない、編集が下手ということである。女史の「動物感覚」も、女史の話すエピソード01、エピソード02・・・を、別の方(定型者?)が編集して作られている。この動画も、何度も同じ話をしているのでそれほど目立たないが、女史の話の流れ・編集は余り上手ではない。自分以外の思考の型への言及が少なく説得性に欠ける。極め付きは、男性司会者が用意した質問で、答えられないものはパスしてくださいと言うくだり、その場の質問に応じて、その場で自分の考えを適当に編集して話す・出力できないということだ。私もそうだが、ASDは臨機応変が下手な人が多い。
才能開発をうけて、特異的なタレント・才能を顕しても、それで即「社会的生存」が達成できるわけではない。ASDの三つ組みの特性が障害として顕在化しないようにする社会的枠組みが、才能開発とは別に、別途に必要なことを女史は示していると思う。
グランディン女史も認めていたが、半数はしゃべれない。この人たちは、最初からこの新たな社会的文脈の外に置かれている、社会的排除されている。この半数の仲間たちをも社会に包摂する「社会的生存」を図る別の枠組みが作れないだろうか。
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