アスペルガーの館の掲示板

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[#34687] ひきこもり支援に関しまして ひきこもり支援相談士 10/7/29(木) 18:44 [未読]

[#34750] Re:補記です。文中の文字が緑色の部分。 ウォルフル 10/8/4(水) 17:41 [未読]

[#34750] Re:補記です。文中の文字が緑色の部分。
 ウォルフル  - 10/8/4(水) 17:41 -

引用なし
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   ぴぴーさんこんにちは。
確かにそうですね。民主主義国家においては自分の意見を持ち、自分の意見を社会に向けて表明していくという事は、民主主義の根幹を作り上げる重要なファクターとして考えられています。処が私を含めて多くのASの当事者の場合、「当事者がもっと声をあげて、どのような支援を望むかを言う」という事がしばしば「声にならない声=無言の訴え」になってしまい、誰にも聞き届けられないまま、何事もなかった様にこの民主主義社会の中で黙殺されていく存在者にとどまる事が非常に多いと感じます。なぜなら、自分の障害を自覚し、自分の事を客観的に把握するのが難しいというのがASにとっての最大の障害なのですから。ですからたとえ当事者の意見を聞き入れる場を行政側が設けて発言の機会を与えられたとしても、このASの特性を行政側がまず理解しておかないと、多くの場合一回性の場当たり的な対応にとどまりかねません。特に私の場合、文章なら自分の意見をスムーズに言葉で整える事が出来ますが、喋るとなると単語のただの羅列になって相手の理解に訴えかけたり説得させたりするのが非常に難しいのです。しかし、最近は発達障害が紙メディアやテレビなんかで例えばこの掲示板の村上夫婦が色々と発言していますが、こういった当事者による社会に向かっての働きかけは、私の様な自分の声を持ち憎い当事者にとってはとても大きな存在として映ります。

ピーピーさんの挙げて下さった記事の内容を要約すれば、ひきこもりとは「コミュニケーション重視社会がもたらした弊害=コミュニケーションの苦手な者の社会的排除」という内容でしたが、まったくその通りですね。

ではなぜコミュニケーション重視社会が興ったのかというと、原因の一つに「社会機能の分化と細分化」が挙げられるでしょう。この分化という事なのですが、学問の世界においても分野の分化や細分化(=専門化)が際立って起こっているという事がいえます。他にも生物進化においても、まずは単細胞生物から多細胞生物、動物、植物、さらには爬虫類、鳥類、類人猿と、種の系統が時間を下るにつれて分化と細分化現象を引き起こしていきます。さらに人間には脳や心臓や肝臓や精髄、筋肉、ミトコンドリアといった各機関がありますよね。生物進化は高度になるにつれて固体を形成する組織すらも分化と細分化を繰り返しながらより複雑に構造化してゆく傾向があります。分化とは取りも直さず人間社会が発展成熟するに従って必然的に要求される現象なのだと思います。

まず「社会機能の分化と細分化」を考えるにあたって人間の原始的な社会をみれば分かると思いますが、人間がいまだ自然界で暮らしていた頃、人間は自分達で家を作り、食料を確保し、育児をしていました。生活に必要な事はなにもかも全部自分でしなければならなかったのです。処が社会の近代化が進むにつれて、各分野つまり、衣食住の確保や政治・福祉・法律・宗教・経済・医療・教育・娯楽などの各生活要素が細分化=専門職化していきました。前近代社会で家族集団がそれまで家族の中で行っていた教育や労働生産や福祉等の機能を近代化社会では家族の外に委託する様になります。家を建てるのは大工に任せるし、衣食の生産も自分で確保するのではなく、他の人間に委託します。教育も福祉も医療も全部です。すると個人の社会的生活、あるいは家族生活中における社会的役割というものは非常に限られた領域に限られてくる様になります。この事がコミュニケーション重視社会を生み出します。というのも、前近代社会なら、私の様にコミュニケーションが苦手な者でも、狩猟をして魚を取ってきたり稲を育てたりする役割を引き受ける事によって自分の存在意義を家族にアピールする事が出来たのです。自分の役割がある限り、会話等しなくても家族との関係性を維持する事が出来たのです。ところ社会の近代化に従って家族が家族して成り立つ要素は、性的充足と子育て、さらには家の掃除や料理といった家事仕事全般、あるいは家族の感情安定の場としての機能だけに限られていきす。すると家族が対人関係を保つのはもうコミュニケーションの手段しかなくなってしまうのです。これは家族という小社会に限らず、学校、職場、地域社会全部社会と冠せられるものはすべて同じ事です。(そもそも社会機能の分化が起こらなければそもそも学校も職場もなかったわけですが)ですからコミュニケーションが苦手であるという事は、現代社会生活を送る者にとって致命的な欠点となって仕舞うのです。コミュニケーションの苦手な者は意欲だけがどんなにあっても社会生活の中に入っていく事が出来ません。こういった意味でもひきこもり(コミュニケーション能力の低い者の社会的排除)は、社会機能の分化と細分化と密接な関係があります。

>そして分化現象の引き起こす最たるものは、一つ一つの分野が驚くほど高度に発達した、という事だと思います。全領域を一挙に発展させようと努力する代わりに、その努力の向かう対象を限定的に絞れば、その一点の領域に限っては驚くほど成果があがります。(どんなに分厚い紙でも、針の先ほど尖った切っ先で突っつけば、簡単に突き破る事が出来ます)同様に、かつてギリシャは哲学を学問一般として扱っていましたが、以後人類はそこから科学、生物学、生理学、医学とあらゆる分野の方面に向かって学を分化させ続けて来ました、そして何を隠そうこの学の分化によって学問全般は驚くほど高度に発展しました。

>こうした事は、社会機能の分化についても同様に言い得ると思います。つまりそれまで個々の生活が行っていた日常の活動の分化「専職化」ですね。専職化は職種としての衣食住、建築、政治、福祉、医療、教育、娯楽分野と、あらゆる生活力に関する資質や生産や技能や規模や知識や理解を高度に高めます。あまりにも一つ一つの職種分野のレベルが底上げされるため、人間の個々の活動としては十分ではなく、互いに協力し合い、組織立って活動する必要性が出て来ます。たとえばいまだ原始的な営みを続ける人々の家は極めて単純な構造をしていて質素で簡単な造りであり、誰でも数日もかければひとりで仕上げる事が出来ます。ところが近代化された私達の社会での家とは、高層ビルであり、規模、構造の複雑さといった点において極めて高度な造りをしています。市民が暮らす家といえども法律で定められた建造基準に従って基礎から骨組み最後の仕上げに至るまで、到底一人で作り上げる事など不可能な代物です。だから人間は複数の人間が相集い一致団結して、組織だって家を作る活動がどうしても必要になってくる、この事はなにも建築にとどまりません。衣食住、政治、福祉、医療、教育、娯楽分野等、あらゆる方面についてもまた同様の事がいえます。前近代社会においてはさほどにも重要ではなかった、職や日常生活の全般の活動に渡って他者と協力協調し合いながら活動する対人形成能力が、社会機能の分化の興った近代社会では特に必要にされて来たんですね。従って、コミュニケーションの苦手な者や集団生活が苦手な者、他者と協力協調してなにかをやりとげる事が苦手な者は、どうしても社会生活の中で排他的な立場に追いやられ易く、それもこれも社会機能の分化と密接な関係がある事を示しています。

かといって、いまさら社会機能の分化と細分化をもとに戻すなんて出来ないでしょう。それは枝葉分かれした各学問分野をもとのギリシャ哲学の根幹に戻せといった要求に等しく、現在の生物進化が齎した分化=生物多様性を原始地球の海の中の最初の単細胞生物に戻せといった要求に等しいからです。物事は発展進化すると必ず分化現象を引き起こすのであり、分化をやめよとはつまり後退退化せよといっているに等しいからです。

ではどうやってひきこもり問題は解決されるのか?さっぱり私には分かりません。ひきこもりを生み出す先述した様な社会の根源的な問題が解決不可能な問題である以上、ひきこもりの人が周囲のサポートをえつつ、人間としての自尊心を取り戻しつつ、社会の中に自分の居場所を見つつ、経済的にも精神的にも肉体的にも実存的にも自立してゆくといった地道な道しかないと思います。

ただ私に言えるのは、ひきこもりを始めとして社会的弱者の生き辛い社会は他の人にとっても生き辛い社会という事です。ひとつ喩え話をすると、かつて炭鉱夫はカナリアを一匹炭鉱へ連れていって仕事をしたそうです。空気の淀んだ炭鉱の中には二酸化炭素が充満している場合もあれば人体に有害な気体が漏れてきているかもしれない。だから炭鉱夫は人間よりも抵抗力の弱いカナリアをつれていくのです。そしてカナリアに何か異変が起こると、炭鉱夫は危険を感じてカナリアと一緒に外へ逃げるのです。社会的弱者はちょうどこのカナリアに置き換える事が出来ます。なぜなら社会の中の異変や問題点は、まず社会的弱者に一番影響力を持つのですから。そして今の日本社会もまた、今ある問題の解決を放っておいたり先延ばしにしたりすれば、当然今度は他の人にとっても危険となりかねないという事を過去の歴史からも学んでいるはずなのです。だから福祉や弱者の社会的セーフティーネット、あるいはバリアフリーの概念を社会は必ず必要とします。これは弱者を高みから見下して「手を貸してあげる」という発想ではなく、手をとりあって一緒になって「共生していく」という考え方に貫かれていなければなりません。炭鉱夫にとってカナリアの存在は、自分とは無関係な、他人事では済まされない大きな掛け替えのない存在なのです。こうした視点を行政あるいは社会の全体が今一度しっかりと有さない限り、少数の社会的弱者とはただ世話の焼ける、社会にとっての大きなお荷物でしかありません。

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