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スノークさんこんばんは。
>ウォルフルさんも過去いろいろ大変だったんですね。
「生きるのが大変だ!」と今の私が思えるのは、今の私がある程度生きることに余裕が生まれている証拠なのだと思います。
というのも、今では自分の欠点や問題点が自覚出来る分、これから一生自分にはどんな苦労や災難が降りかかってくるのかある程度分かっているからです。このため、心理的負担としては診断が降りる前よりも大きくなったのかもしれません。(かつての自分は自分の欠点や問題点をまったく自覚しておらず、(アスペルガーの弱い点です)加えて、ただただ我武者羅に生きることだけに意識の焦点が集中していて他の事を気にかけたり、自分の置かれている状況を考える余裕すらなかったです)
>定型発達者が作った生活様式といってもよく見るとバリエーションが
>あって、発達障害者に近い定型発達者もけっこういると思うし、
>そんなにはっきり分けて考える必要は無い気がします。
この点については誤解なきよう少し私見を述べさせて下さい。私はなにもすべての人を発達障害者と定型発達者という言葉の括りでもって截然と分けて考えているわけではないのです。スノークさんも仰られている様に、発達障害者に近い定型発達者もいるわけですから。別の例えを引き合いに出すと、たとえば男性脳、女性脳という言葉でもって「男性はああだ」「女性はこうだ」といっても、こういった判断は女性と男性がただ典型的に考えられた場合のみ始めて正しいといえるのであって、こうした判断を無理にでもすべての個人の場合に当て嵌めようとすると必ず誤った解釈をしでかすことになります。男性女性といった性差があるのは事実だとしても、個人を形成しているもののすべてが性差の全的な影響下にあるわけではないのですから。
人間の知性はその性質上、どうしても女性だとか男性だといった純粋概念を至便的に仮定していかないことには、それに基づく認識力や思考力を構築してゆくことが出来ないのだと思います。たとえば、人間は水をH2Oという純粋記号によって表し、ここから様々な化学的公式に発展させてゆくことで驚く程思考フレームが広がります。しかし、H2Oの性質として純粋に考えられる様な水等この世にはそもそも実在せず、ここに様々な混合物や周囲の環境の影響力が加わったものとしての水が実在しています。だから私達が平素から見かける水は「不純な水」なのです。
>発達障害者はもちろんのこと、他にも世の中にはいろいろなタイプの、
>社会の中で苦労している人がいると思います。
>昨日パーソナリティ障害の本を立ち読みしたのですが、
>これとこれは自分に少し当てはまるなあ、とか
>これは家族に少し当てはまるなあ、とか感じました。
>そう考えていくと皆が障害者のように感じてしまうけれど、
>実際にそう診断されるのはごく一部だと思います。
>私はこれから数年前に受けた知能検査の結果のコピーをもらおうと思います
>が、数年前「障害はない」と言われたのはたぶん本当だろうと思います。
>私にはいろいろな障害の症状が少しずつ混ざっているようで、
>正確な診断は出せないのだろうと思います。
大学病院や総合系の精神神経科で受診された場合、病院側は最近のメンタル面で問題をかかえている患者数の増加や医者不足の根本的な問題をかかえているため、ひょっとすると、病院によっては医者側が患者の問題点を見抜きながらも、その問題が軽度であった場合には「異常なし」という診断を下すかもしれません。(ある種の門前払い)こうした事が起こる背景としては、病院側が患者の待ち時間への不満等のクレーム対応に追われている事や、医者が後から後から詰め掛ける患者に忙殺され、医者自身が神経症や鬱になるのを防ぐためとも考えられます。(もし、「異常あり」の診断を下すと、特にメンヘル系の場合、その後の患者の長期化通院の可能性が非常に高い)特に精神科は患者自身が周囲の人間の悪口や僻み、自分の悩みのたけを永延とブチマケるはけ口にしているので、医者自身相当ストレス溜まってます。まあもっとも、その場合医者は「来る者を拒む」事は出来ないので、あくまで「去る者は追わず」程度の策略なのでしょうけれども。
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