アスペルガーの館の掲示板

[ ホーム | 趣味の掲示板 | 旧掲示板 ]

※この掲示板は終了しました。閲覧のみ可能です。
※医療や福祉の支援を必要とするときは、発達障害者支援センターに問い合わせください。

  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃一覧表示 ┃トピック表示 ┃検索 ┃設定  
1004 / 5056 ツリー ←次へ | 前へ→

[#36081] ぱったり途絶えた興味。 ウォルフル 11/1/10(月) 3:06 [未読]

[#36149] Re:ぱったり途絶えた興味。 Olivia 11/1/18(火) 11:53 [未読]
[#36167] Re:ぱったり途絶えた興味。 ウォルフル 11/1/21(金) 15:40 [未読]

[#36149] Re:ぱったり途絶えた興味。
 Olivia  - 11/1/18(火) 11:53 -

引用なし
パスワード
   ウォルフルさん

>OliviaさんのHPで絵見ました。Oliviaさんは似顔絵や四コマやイラストを描かれるだけあって、あの女性の半身像も左右に斜め下から上へと、色々なアングルから描く事が出来るのでしょうね、きっと。特に四コマなんて物語の起承転結の進行順に従って登場人物の色々なアングルから見た画が要求されてくるので。私も四コマは17の時に挑戦してみましたが、まるでそんな才覚はなかったです。特に人物に関しては日頃からみていないためか、正面図だとか真横図だとかいった決まりきった角度しか描けず、他の様々なアングルからの画を描こうと思えば、思わずモデルの必要性を実感せずにはいられませんでした。
HP見て下さったんですね。有難う御座います。
でも、なんだか急に怖くなってしまって(何が怖いのか、具体的には分からないのですが)閉めてしまいました。それなのに、少し後悔していたりして、又新しく開こうかどうか検討中です。
絵は習ったことないので、プロの方が見たらかなり拙いと思います。
(椎名林檎のデッサンもどき以外は)モデルも使わないので想像の範囲でしか描いていないです。

ところで、来週から二学期が始まるのですが、二学期には様々な選択授業があって、その一つにデッサンの授業を取ったのです。登録はしてしまったのですが、未だに迷ってるのです。
デッサンの授業を取ってしまったら好きなように絵を描けないのではないか、と。
例えば、『来週までに果物をデッサンしてきましょう』と言われても途方も無く嫌気が差してしまいます。私は素直にデッサンできないのだと思います。たまにHPに載せた様な椎名林檎のデッサンにしてもやはり手を加えてしまいます。
元々想像で描くの方法を好んでいたので、“授業”として“写生”をしたくなくなったらどうしよう、と思うのです。
より実物に近く描くのがデッサンなら、写真に写してしまえばいいではないか、とつい思ってしまいます。なので、私は作品としては写生の作品より写真の方が好きです。“ただ写真機に収めるだけ”というシンプルな作業を芸術的に表現する、というところが気にっています。
なので、当初から、“ある程度自由に絵を作り出せる服飾デザイン”か、“写真”か、“無難なデッサン”かで凄く凄く迷っていたのです。
未だ登録変更間に合うかなー、と思いながら未だにうろうろしています。
>私もPCのフォトショップやった事あります。操作法や応用編なんかも少し触ってみたら直ぐにマスターできました。しかし、こうした既成のツールって案外製作者自身の絵に対する考え方や嗜好といったものが反映されているため、使えこめば使い込むほど、細かいところの描写力の点で自分の思い通りに描けない不便さが段々気に食わなくなってきました。そこで私はドット絵に切り替え、アナルグ的にひとつひとつ色を操作していくやり方を好んで採用する様になりました。ドット絵なら絵筆の筆触感だとか絵の具の艶肌、絵の具が乾いた時のザラザラ感といった質感までもが寸分違わぬ精度で再現出来、私が頭に思い描いている通りの絵を描く事の出来る満足感が得られました。
凄いですね。私は未だ初心者です。どうもアナログな人間のようで、手描きの方が好きですね。

>小説を書くのって物凄い教養が試されません?たとえば人物や建物の投げかける影の長さや向きは季節や時刻に応じて変化するので、いつもこの影描き方はこれで正しいのだろうか?影の他にも描写の仕方に矛盾点はないだろうか?ストーリーに矛盾点はないだろうか?って気になって、考え込んで仕舞って、学歴もなく、幅広い意味での教養のまったく私は以降まったく筆が進まなくなりました。書店なんかでは何百冊ものの小説の本が山積みの様に並んでいますが、この人達って物凄い教養があって、物凄い賢いんだな〜っていつも関心します。
でも、出版されている本でも素人が書いた方がましなくらいの本だってあります。日本はとくにそういう傾向が強いと思います。アイドルなんかが日記みたいな本を出したらすぐ売れるじゃないですか。

影の長さまで考えて書くウォルフルさんはきっと素敵な文章を書かれるに違いありません。
私だって二十歳を幾つか過ぎただけで、経験も少ないし、単語力だって多くはないと思います。
でも本は大量に読むので、やはり自分自身も書いてみたいと思ってつらつら書いてしまいます。
例えば私が住んでいる街を詳しく描写することが出来るのは利点ですね。後、私は理系の学部なので、ここで色んな知識を身につけて理系分野のネタを出せるお話を書けたら良いなあ、と思います。
この間まで書いていた小説は、微分トポロジーを専攻する女の子が主人公の話です。
でも途中で気に入らなくなってやめました。なんだかバナール過ぎる気がしたので・・・

>でも上述した様に、小説を書くのってすぐに自分の教養の程度が分かって仕舞うので、自分にはどういった教養が欠けていて、今後どういった事を学ぶべきかが直ぐに分かる定石となりえます。Oliviaさんの様に、人生を豊かなものにするために勉学を志す者にとって、きっとこの定石は是非とも必要なものなのでしょう。絵も小説の方も頑張って下さい。
はい有難う御座います。
ウォルフルさんにも新しい人生の転機が訪れたら良いですね。

[#36167] Re:ぱったり途絶えた興味。
 ウォルフル  - 11/1/21(金) 15:40 -

引用なし
パスワード
   Oliviaさんこんにちは。
>HP見て下さったんですね。有難う御座います。
>でも、なんだか急に怖くなってしまって(何が怖いのか、具体的には分からないのですが)閉めてしまいました。それなのに、少し後悔していたりして、又新しく開こうかどうか検討中です。

私も、これまでネットに残した自分の痕跡を洗いざらい消去して、総てを一回なかった事にしたくなる衝動にこれまで2回駆られた事があります。たとえばここの掲示板でも自分のコメントを全部消去して落ち着きを取り戻そうとしたり。でも一月も経てばまた書き込みしたくなってこうして書き込んでいます。

>より実物に近く描くのがデッサンなら、写真に写してしまえばいいではないか、とつい思ってしまいます。

「デッサン」と「写真」では、対象を描写するという点においては同じですが、実はそれぞれモノを捉える際の視点がかなり違っています。物凄い端的な言い方をすると、デッサンは人間の目のレンズを通してモノを捉えるのに対し、写真はカメラのレンズを通してモノを捉えるのです。

例えば、雄大な山々を写真に収めようとして、現像された写真にがっかりした事ってOliviaさんはないですか?実物を自分の目で見ていた時は山があれほど圧倒的な迫力で目の前にそびえたっていたのに、いざ山の風景が写真化されると、その時の感動や印象を少しも映し出してはおらず、この対照にすっかりガッカリさせられたという経験は? 実はこうした事が起こるのも、人間の目のレンズは主役たる認識対象の印象深いところをより印象深く魅せて、後の部分はどちらかというと主役を引き立てる脇役の要素として背景へと後退していく様なのです。逆に、カメラのレンズはそういった主役も脇役も存在せず、カメラ内に収まるすべてのものが等しく、しかもそれらすべてを細部にまで渡って忠実に映し出して仕舞うため、今私が言った様な対照が起こるのだと思います。

上記の対照化は、デッサンと写真の違いを説明する上でとても大雑把であり、この対照によってデッサンの総てを説明出来るわけではないのですが、それでもあえていうならば、デッサンは「対象の本質や特徴だけを掴む」事によって絵としてのリアリティーを表現する事に主眼が置かれていて(ある種の虚構化でありデフォルメ化)、写真は「対象のありのままの姿をありのままに収める」事によって真実としてのリアリティーを表現する事に主眼が置かれています。こうした違いが根本にあるため、デッサンは写真技術の発明以後もその存在意義を失う事なくこんにちまで至っております。

>元々想像で描くの方法を好んでいたので、“授業”として“写生”をしたくなくなったらどうしよう、と思うのです。より実物に近く描くのがデッサンなら、写真に写してしまえばいいではないか、とつい思ってしまいます。

デッサンのためにOliviaさんの想像力とかインスピレーションといったものを出し惜しみする必要はありませんよ、デッサンの授業ではそれらを思いっきりデッサンにぶつければいいです。(デッサンの際の想像力の活かし方のコツみたいなものも、デッサンを学んでいくうちに段々掴めてきます)なぜなら対象の特質をしっかり掴むのって物凄い想像力が求められますから。それに想像力のない人のデッサンは、モノを忠実に再現する事によって自分の想像力の弱さをカバーしようとするため、自ずとその絵はどこか対象を写真機で写し取った様に、なんの印象も伝わってこず、結果絵として失敗して仕舞うのだと思います。

>ところで、来週から二学期が始まるのですが、二学期には様々な選択授業があって、その一つにデッサンの授業を取ったのです。登録はしてしまったのですが、未だに迷ってるのです。デッサンの授業を取ってしまったら好きなように絵を描けないのではないか、と。例えば、『来週までに果物をデッサンしてきましょう』と言われても途方も無く嫌気が差してしまいます。私は素直にデッサンできないのだと思います。

とてもAS的ですね。「果物をデッサンしてきましょう」と指示されると、果物しか描けなくなるという。でも絵画の世界では表現方法がその人の個性と見るや「何でも許される何でもアリ」の世界なので、指示された果物さえ主題としてちゃんと描いてさえいれば、後は何を描き込もうと指示には反しないと思いますよ。たとえば自分が普段から気に入って使っている食器の上に果物を乗せたり。あるいは動物の毛皮をあしらった素材のもの、あるいは絹糸の美しい布が波打っていたり、折り重なっていたりして、その上に無造作に果物を置いてモチーフとしてみたり。あるいはまた、半分砕けて種や果汁の滴るものや、半分腐敗のはじまったもの等々をモチーフとしてみたり。ジュゼッペ・アンチンボルトの様に果物をパズルの様に組み合わせてまったく違った画を表現してみてもいいし。まあ自分が気に入る事だけをして、気に入らない事は絶対にしない、という態度を徹底的に貫き通してみる事です。人は自分が心惹かれているもの、好奇心を抱いているもの、愛しているものしか本当の表現行為はできないものですから。私は空や夕日が大好きでそれしか描きませんでしたけど、私なら、空を背景にして果物を描いたり、暗い部屋の窓辺から太陽と大気の明るさが果物の上に光を投げかけている様を描いて、自分の描きたい欲求を掻き立て様としたと思います。ですが、デッサン力の未熟なうちは、色んな事をやろうとしても、結局自分の絵の技術や表現力が追いついてこないもので、それならば、はじめのうちは潔く指示道りに従ってデッサン力を磨く事だけに専念していた方が無難でしょう。でもデッサン力が実力としてついてくると、そこれこそ、Oliviaさんが描きたいと思った事がなんでも描ける様になるので、その暁にはOliviaさんの個性を全面に押し出して、作品の自由度や可能性の幅を増し加えていきましょう。芸術の世界において自分の個性を押し殺す必要性はまったくないのですから。しばしば芸術の世界においてはもっとも個性的なものがもっとも普遍的であったりします。

>当初から、“ある程度自由に絵を作り出せる服飾デザイン”か、“写真”か、“無難なデッサン”かで凄く凄く迷っていたのです。未だ登録変更間に合うかなー、と思いながら未だにうろうろしています。

私なら間違いなくデッサンを選びますね。一番極め甲斐があるし、ここから、絵画、彫刻、イラスト、アニメーション、デザイン、商品開発段階における商品イメージ像化と、視覚的表現に関するあらゆる方面へと道が通じているからです。たとえば宮崎駿のアニメにしても、俗な言い方をすればアニメーションに命(躍動感だとか感情だとか)を吹き込むためには、デッサンでいう「対象の特徴をしっかりとらえ表現する」技術はとても重要となって来ます。

>でも、出版されている本でも素人が書いた方がましなくらいの本だってあります。日本はとくにそういう傾向が強いと思います。アイドルなんかが日記みたいな本を出したらすぐ売れるじゃないですか。

確かに〜 日本では絵でも「下手ウマ」といって、表現技術は未熟でも「ウマイ」部類として数え上げられる場合がよくありますね。絵がそうなのですから、小説の場合でもアイドル日記的なものが他の優れた名著よりも広く読まれ、日本語の御手本となる優れた名文、古典といったものまでもがそういった無教養主義的な風潮によって下火になるのだと思います。日本よりもフランスの方がよっぽど教養といったものを大切にする民族ですし、民族全体としても日本よりも大学や研究機関や図書館といった知的財産に敬意を払っていると思います。それにフランスでは日本の大学や企業の様に、本来勉学に勤しむべき学徒を、途中から就職活動に向かわせるなんて無意味な事はしません。そればかりではなく、最近の日本企業は雇った人材の育成にも手抜きをしています。そのくせ、能力がないだとかいって戦力外通告してリストラに追い込むのです。(それも汚い手口を使って)OliviaさんのHPの記事にもあった様な日本人におけるハーバード留学生の減少傾向も、こうした教養に対しての憧れのなさや無関心がひとつの原因ともなっているのだと思います。

>影の長さまで考えて書くウォルフルさんはきっと素敵な文章を書かれるに違いありません。

有難う御座います。しかし、私の文章は素敵などころか、自分の考えを表すために、どこまでも理詰めで長々と書くのがいけません。たとえば林檎についてどんなに細部に渡って詳細に記しても、絵の場合ならば一枚のキャンバスの中にすべての情報を詰め込む事が可能ですが、これが文章だとそうはいきません。言葉でもって林檎について細部に渡って詳細に記そうならば、一枚の用紙には収まりきらず、情報が増えれば増えるほど沢山の用紙が後から後から必要になってきます。ですから、小説を書くにしても文章を書くにしても幅広い意味での「詩の才能」がないとだめですね、詩の才能とは、言葉少なに膨大な情報量を表現する(しかもその表現が相手にちゃんと伝わる)才能です。(古今のゲーテ等の偉大な文筆家や優れた小説家は同時に詩人であったりします)詩の才能ってどうすれば身につくのでしょうか?Oliviaさんは詩もやるそうなのですが、やっぱり、小説を描く時には詩は重要だと考えた上での事なのですか?

>例えば私が住んでいる街を詳しく描写することが出来るのは利点ですね。

やっぱりフランスなんかは歴史もある国だし、国全体も闊達だし、なんといってもそこは異国別世界、これまで世界的な小説家が何人も描いて来ただけあって、町並みなんて特に素敵でしょうね。

>ウォルフルさんにも新しい人生の転機が訪れたら良いですね。

有難う御座います。私の人生はもう落ち込むところまでとことん落ち込んでしまったので、これ以上落ち込む事はないと思います。

  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃一覧表示 ┃トピック表示 ┃検索 ┃設定  
1004 / 5056 ツリー ←次へ | 前へ→
ページ:  ┃  記事番号:   
1877798
(SS)C-BOARD v3.8.1β4 is Free.