|
▼sakikoさん:
sakikoさん、こんにちは。
今朝がたには2・3日お時間くださいと書いておきながら、お昼の合間についお返事書いてます。紛らわしくて、ごめんなさい。
ゆららさんとsakikoさんとの会話、拝見いたしました。
わたしもゆららさんと同じように思います。
そろばんさんのレスは別にsakikoさんに対してだけのレスではなく掲示板の向こうの読者も含めた広い相手に対してのものでもあり、ごく客観的な「意見」だと思いますよ。(元スレ自体はsakikoさんがたてたものではありますが)
私がsakikoさんが書かれたレス(私宛てではないものも含めて)を拝見してて、少し気になった箇所がありました。
実はそれが、“sakikoさんが不安や葛藤を抱えておられるのでは”、と私が想像した理由なんです。
> どうしたって私には、健常者たちのところへ行くためのはしごや階段は見ることができないのです。自分で作ろうとしたけど、なんか全然ちがう方向へ行っちゃいました。私には目がついているけど、その目は物見るための目じゃなかったんです!
これと同じ内容のものを、すでに削除されたレスの中にも何回か見たような気がします。
懸命に努力され、懸命に工夫されてきた。これまでずっと。ずっと長い間。
そして今も、がんばろうとされてる。
sakikoさんの文面には明るく書かれておられますが、自分に対して「引きこもり」という言葉が何回も出てこられる。
無意識に気になっていなければ、わざわざ出てこない言葉。
きっと・・・開き直って人生のお休み期間と割り切ってるつもりでも、やはり心からリラックスしてはおられないのだろうと・・・。
うちの娘がそういうタイプなんです。開き直って休んじゃえばいいのに、根が本当に真面目だから頑張りすぎてるのに、もっと頑張ろうとする。
もっと不真面目になりゃいいのに、と思う一方で、でもそれがこの子らしさで良さでもあるんだよな、なんて思ったり。
なんとなく、sakikoさんが自分のアイデンティティを支える対象として「アスペルガーであること」を無意識にでも使われていなければいいな、と思ったのです。
だって、sakikoさんには、きっとsakikoさんだけの、sakikoさんしか持ってない魅力があると思うから。
それは、能力とかそんなんじゃなくて、もっと人間的なもの、性格だったり ものの見方だったり とかで。
いや、sakikoさんが何回も書かれてらっしゃるように、単純に「(皆さん、)アスペルガーという括りをマイナスや障『害』とただ否定的に捉えるだけの考え方は止めようよ」と言いたいだけだったのだろう、とも思ってはいるのですが・・・なんだかつい深読みするおばさん(←私)には、心配だったのです。
他のスレでも、とっても明るい文面に、妙に明るすぎる文面に、ふと・・・影を感じて。
余計かもしれないのに、ごめんなさい。
私がもし 娘に対し話するとしたら。
「はしご」は定型者に向けて架けようとするんではなく、あなたの好きな人個人に向けて架けてごらん、って。
そして、必要ないかもと思った時点で、好きにはずせばいい、と。
仕事をする上でも、健常者になるために・近づくためにはしごを用意しようとするんじゃなくて、健常者とか発達障害者とかの括りを一旦全部かなぐり捨てて、「自分の凸の部分を使って、他者の凹を補うことに重きを置けばいい、まるでパズルのピースを見つけるように」とアドバイスするように思います。
といったって、そんな口で言うほど簡単にはいかないし、現実の仕事の場面ではそうはいかないこともあるし、「みんな一緒のレベル」をやたらに要求する人もいるしですが。
そういう人へは、スル―です(笑)←実はこれが一番難しいですけどね〜。
定型者にも天才がいるし、アスペルガーの人にも、ADHDの人にも、LDの人にも天才と呼ばれる人がいる。
そして当然、定型の中にも私のようにただの話し下手 気配り下手の凡人もいれば、うちの娘のようにアスペルガーで凡人もいる(なにせわたしの遺伝子ですから似てますよ(笑))。
それでいいんだって私としては思ってるんですよね。
力抜いていきましょう。もっと楽に。もっと自然に。少しくらい、気ままなくらいに。
「アスペルガーだからできない」は良くない表現だと思うけど、「“私”はこれができない(頑張ってるんだけど上達しない)」は普通に使っていいと思うんですよね。
全く努力さえしないのであれば問題だろうけど、どんなに頑張ってても苦手って誰にでもありますからね。
括りを使うのが問題なのであって、個で使う分には大きな問題でない。
私には、そんなふうに思えたりします。
|
|