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▼ウォルフルさん:
ウォルフルさん、丁寧な返信ありがとうございました。
なるほどー!と思われるところ、たくさんありました。
>自分の価値観だけで本能剥き出しで動く犬だとか小さな子供だとか猫の言いたい事はよく分かるのに、一般価値観を隠れミノにして動く大人はその下に本音の部分を隠しておいてこちらに理解しろと迫るので結局何が言いたいのかよく分からなくなる事が多いです。
思わず読ませて頂きながら、「一般価値観を隠れミノにして動く大人はその下に本音の部分を隠しておいて」の部分、定型者同士においてでもやっかいなのは間違いないなーと苦笑いしてしまいました。
必要性をわかっていながらも(これは定型者側にとってですが)、それでもやっかいだと思っている人もやっぱり多いような気も。
TVなど見ててもこれが一番わかりやすいなと思うのは、政治の世界などです。典型的です。上辺を取り繕わず何がしたいのかはっきりしてほしい、といつも思ってしまいます。
なぜやっかいなのに、あえてそれを必要とするのか。
・・・この疑問に答えられる力は私にはありませんが、なんとなくですが、人間が『群れ』で生活し生きる動物だから・・・なのかな、などとも思いました。
>POPOさんが2つのモノサシを使っているように、私も2つのモノサシを使っていますね、一つは自分の価値感覚ってところまではPOPOさんと同じですが、もう一つは自然法則だとか論理だとかいった言葉の使用に関する修辞的な問題であり、POPOさんのそれが人間関係を軸とした社会的なものであるのに対して、私のそれは物事と物事との因果関係を軸とした宇宙的(!?)なものだと思います。
自然法則的な(唯物的な)物差し、ここの記述に、特になるほどーと思った次第です。
自分の中を振り返ってみると、たしかにこういった物差しが自分の中に全然ないわけではないようにも思いますが、極めて小さい、あまり使っていない物差しかもしれない、と感じました。
なんとなくですが、ここに、ひとつのヒントが見えたような気もします。
ベクトルの差、というか、
うちの主人の場合、本人は自分自身の物差しというものしか持っていない、と話していましたが、本人が意識していないだけでそういう方向性・ベクトルの物差しが普段強く働いている可能性はありますね。
上手く言えませんが、定型者側と発達障害圏の人が歩み寄ろうとする場合、こういう内面をお互いが上手に活用すると上手く行きやすいのかなあ、という気がしてきました。
もちろん、あくまでもその人が望む場合(または相手に)ですけれどね。例えば夫婦間など。
定型者側は、自分が普段使う一般的価値観の他に、自然法則的な物差しの部分に重きを置いて考えてみる機会を増やす。
発達障害圏の人が社会において一時的にでも馴染もうとする(就労などの場でも)場合であれば、一般的価値観の物差しをとりあえず作っておいて使ってみる。(あくまでも使う必要がある時だけ)
・・・という感じでしょうか。
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