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>当たり障りのない会話
ただでさえ不器用なASにとって悲しいことですが、当たり障りのない会話も、テーマに深く入った会話も、両方できるようになって、使い分けもしないと、社会で通用しないのが現実なんですよね。
ASは、理想を言うとどっちかの一つ覚えぐらいが精神的な負担はちょうどいいくらいなんですけどね・・・。
当たり障りのない会話は、初対面の人や、発達障害の無い一般の人向けにできなくてはならないもので、一方、深い会話は趣味や仕事などの情報をより広範囲に、より深く詳しく共有して、共通した動きをより確実にするために必要ですよね。
それができて始めて情報面でも業績などの面でも、精神的にも、人と接近できることになりますよね。
純粋に会話をしたい、コミュニケーションをしたいお気持ちは分かります。
当たり障りのない会話だけだと達成感とか満足感とか無いし、何のためにエネルギーを総動員して勇気を出してるかさっぱり分からない。
それ以上の、テーマに深く入れる会話の欲求も分かりますし、経験値を上げる必要も分かります。
ただし、私の経験から、それを求める気持が強すぎた時に、あまり健康的ではない関係にはまることがありますので、お気を付け下さいね。
ネガティブな気持って、共感しやすいんです。
泣いている赤ちゃんを可哀想に思って行動に移すことは、三歳児でもできます。
「泣いてる」と認知して「可哀想」と思うだけなら、もしかすると二歳児でもできてるかもしれません。
でも、いい大人になったAS当人が、それしか出来ない例もありました。
そういう方が集まると、極端に言うと「しにたい」と定期的に言わないと構ってもらえなくなるコミュニティができあがる危険があります。
一度うつっぽく落ちても、通常の精神状態ならある程度共感されると、ネガティブなことを言わなくても、通常の生活を送れて、会話にも参加し続けられていくことが多いと思いますが、精神的に回復していくことで、人が離れて、罰されたような気にさせられてしまうなら、非常に間違った『強化』をされてしまいます。
可哀想な人を構うって、ある程度アドレナリンとかも出るのかもしれません。
でも、それがコミュニケーションの全てじゃない。
異議を唱えたらKYになってトラブルになってしまう。
でもコミュニケーションを鍛える場所がそこしか無かったら、自分は落伍者になってしまう、怠け者になってしまう、挫折してしまう、そんな罪悪感みたいなものに支配されて、考え事が再燃して強迫的に循環して、夜更かしになって、ストレス太りに拍車をかけて、自己評価も傷ついて、みるみる健康を削いでいったんです。
ASの目指すべき理想の合格点なんて、あって無いようなものなのですから、本当は、完璧でなくても常に誉めてくれる存在を保証されれば、何かを『強化』とか、訓練とかしなくても、かなり安定するはずなのではと思うんですけどね。
コミュニケーションを諦めないまま、本末転倒にならないかどうかだけは、常に自己チェックをし続けるしかないんじゃないかと思います。
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