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▼小梅さん:
>遅くなりました。マウスが直ったのでレスします。
>級友からの年賀状、結局来ていました・・・。>母によると正月は祖母が家に来てて年賀状渡す暇なかったそうです。
年賀状が無くて、一時的に動揺かなにかされたのでしょうか。それはお疲れ様です…。あって良かったですね。
>とりあたまオバサンから見れば職場が変わってもずっと年賀状を出してくれる
>と思っていたのに、相手側は「職場が変われば御縁は終わり」と思っていたのでしょうね。そのすれ違いの感情が引き起こしたのかもしれません。
ご縁が終わりになる判断を、私という人格への評価だと、評価は不合格だと、そう過去に思っていた時期がありました。
そうならないように前もって頑張っておくのが、正しく適応できる人の努力項目じゃないかと、自分にそういう煽り方をしていた時期がありました。
頑張ったのに切り捨てなんだ、そうなんだ、みたいな。
職場の人の指示には集中する、集中するためには愛着(いいのかな、この表現で…?)を持つ、持つなら正常な意識を危険にさらしてでも終わりの無い強迫を心を込めて続ける、当時の私はそういう極論の精神状態で生活していました。
でも、なにかおかしいなと、漠然とした問題意識は持ちながらでした。
>これって・・・ここの掲示板のことですか?
チガウチガウ!(#^.^#)違いますよ。SNSやツイッターがこんなに表舞台に出る前に、生まれては消えていく掲示板やチャット、あるにはあったんです。
>そうなると私の価値は0円以下です(まあそれが事実ですケド)。
そんなきっぱり言っちゃいけません。きっとお若いんだから。
>私は正社員じゃないから、住所も教えてないし、教えてもらってもいません。
>でも周りはそれでもちゃんと会社の一員として扱っているし、誰も怒らないからいいのかなって・・・。
いい場合もあります。だとしたら、楽ですね。
ここ数年で、まず公務員から『虚礼廃止』なる理想論が出て来まして、そういう方向性?は広まってきています。取り入れるかどうかは管理職の腹一つではないかと思います。
上からも横からもなんも言われない場合は、たとえばよく仕事の不明な部分を教えてくれる人に「お世話になってるから年賀状出したいなーなんて思うんですけど、…ダメじゃないですか?皆さんどうしてるのか知らなくて」とかお聞きするのも手です。
でも、前のレスでもふれたとおり、年賀状が無いと本音は楽です。ただでさえあわただしい年末に、私生活で集中する“ひと仕事”が一つ減ります。メンタルが落ちている時には、連想が連想を呼んで記憶再燃の引き金になることもあります。“ひと”よりは“大仕事”と言えるかもしれません。
でも、実行しないとこれも強い不安です。義理を果たさないなんて。
この矛盾…。
年賀状がどうのよりも、私はこの自己矛盾が嫌いで重荷かもしれません。
>それは魅力ない、女性として惨めだって傍から見て思う人がいるからじゃない?
>まあカップルになれている女性が皆魅力的とは限らないのですが・・・。
傍から見て思う人…誰がその人なのか、考えてみたことはあります?
バブルの頃は、確かに世の中全体が人と競おう競おうとしている空気は感じました。
私の感じ方ですが『乗り遅れないように』な感じは感じました。服や持ち物、エステとか海外旅行の経験談、人よりナウくて進んでいるものを持ったりやったりしている人が、競争相手として無数の人の欲望に追いかけられているような。
でも、私はそういう贅沢レースに乗る条件も揃えていませんでした。
服も地方の街の小さな呉服屋で、値下げしているものから親が選んでくるしかありませんでした。選択肢が無く、そもそも私にも選んで判断する基準とかセンスが全然無かったんです。
だから、レースは人ごととして認識できました。
それに町の人たちも同じような服、寒くなったら防寒優先な外着をモコモコに着込んで、犬の散歩とかするしか無かったんです。
若者はデートとか、どこでやっていたんでしょう。仕事が終わったら都会へ車で走っていっていたのでしょうか。
私の習い事やおつかいで、外ですれ違う町のお年寄りたちは、私のことを(この子、つるんで遊ぶ女友だちとかいないんだわ。みっともない)など思っていたとは、到底思えないんです。
どこにいるか分かりませんが、負けん気の強い人が、ライバルだと思える人にしか、外で他人を意識するとかは無いんじゃないでしょうか。
それに、ちょっと脱線しますが、当時そうやって最先端のナウい生活をしていた女性が、できるものできちゃって、主婦になったら、途端に忙しくて外へ出て来れなくなるのが普通でした。切る物もダサダサで、すっぴんで、パーマの暇も無くて、それでも良しとされていたようです。
今の方が、可愛いヤングママ用品やベビー用品がいっぱいあって、(これを着こなせないと恥ずかしいのか!?)と、威圧を感じるぐらいです。
でも母は、そうやって髪振り乱してみっともなくなって子育てした女性を「えらい。当たり前。」と高評価しました。
いつかはダサくなるんです。できるものできなくても、年を取ったらダサくなるんです。寒かったら、寒くない物着て、食糧無くなったら一人で買いに行くしかないし、お金が無くなったら一人で、ATMが開いている時間に行くしか無いんです。
この不況の時代、それを分かって外を歩いている人は、一人で歩いている他人を意識するなんて、もうしなくなるはずです。
いらっしゃる街が、どんな街だかは分かりませんよ。(書かなくていいですよ)
ヘルメットの子どもが自転車をこぎ、お年寄りが犬を散歩させる町か、地下鉄や電車の駅がある程度の街か、それとも一歩ビル街へ出たら摩天楼が輝き、高速道路が頭上を走り飛行機が飛ぶ大都会か、それだけでも、歩いている人が何を考えて歩いているのかは違います。
(あらあの娘、独り歩きだわ。みじめね♪)と心の中で笑う余裕のある人が、その中でも何パーセントいるのか。
いなかったとしたら?傍から見られる不安の正体はなんでしょう。
>>自分で街の中の自分を見る自信が無い時は、人様の目線を借りると、一時的に楽になることはありますね。
>そうなのですか?ちょっとやってみようかな。
つまり上に書かせてもらったような考え方を、実際に外でするわけですよ。空想しながら。
犬猫目線なんてね、もう私は視界にも入らなくなります。
子ども目線なんていかがですか?可愛い物や美味しそうなものしか気にならなくなりますよ。
>・・・・・賢さ?>まあ確かに語るときりないですね。>100%理想通りの人なんていないから、どれだけ相手の欠点に目をつぶれるかではないかな。
これは私のネガティブ思考かもしれませんが、私は人様から欠点を許してもらわなければ生きていけないAS種族です(*^_^*)
極論で考えるわ、字句通り解釈はするわ、理解は遅いわ、価値観に照らし合わせて違いがあると、たぶんそれを追及したがるわ、たぶんそれらの迷惑に対して見返りは返せないわ、になります。見返りなし。サポートしっぱなし。
お相手にとって居心地がいいわけない。
そんな関係が、無いと生きていかれないものになったら、不安要因とか強迫になったら大変です。
だから一人で生きることが前提の一番に来るべきではないかという思いがあります。
(新規スレ参照よろしければ。)パブリックコメントにも図々しく参加してしまいました。
たとえば、津波や雪崩の来る場所に住んでいて「手を引っ張って避難させてくれないと、私は自分では一歩も動けないの♪」と、避難勧告が出ても何年も、何年も、毎年、じっと座っていたとしましょう。
いつかは誰か王子さまが、見かねて手を引っ張っていってくれる可能性はどれだけあるでしょうか。
実際に雪崩で家が潰れかけたら、運が良ければ消防士のおじさんなんかかが怒って担いで運び出してくれるかもしれません。事後にこっぴどく再度怒られるかもしれません。
運が悪ければ、それなりの経過をたどり残念な結果になるでしょう。
まだ見ぬ王子さまを妄想だけするのは、楽しそうです。
でも、何年も何年も経過して、王子さまが来そうにない事情も客観的に自己理解できてくるとする。それで津波や雪崩に対して「怖いな〜♪」と思うだけで、何もしないっていうのはどうかと。消防士のおじさんも年を取って腰を痛めて、もう私を担げないかもしれない。
だったら「一人でも逃げたいですよ。事前に避難所や避難グッズを知りたいですよ。講習してくださいよ!」と、知っていそうな人に求めていってもいいんじゃないかと。
王子さまの役割だったとしても、もういいよ私が自分でするよと。
そういう発想で、いまや図々しいおばさんになったわけです。
ネット内弁慶ですけどね。
>>私は評価を受ける前にそれらを台無しにする失態を日常的にやらかしているので、面と向かっての評価はなかなか受けられませんけどね。
>それはどういうことですか?
失敗や遅さを取り返そうと頑張ったら、頑張りながらまた失敗をする。
発達障害支援でよく言われる「失敗を取り返そうと努力して長所も発揮して、認められる人になる」理想なんて、自分で爆破してしまう。場を忙しくする。
だから人様は、業務連絡で時間切れなんです。
法的には「やめれ」ってダイレクトに言えないでしょ。
だから、私は説明に餓えているのに、何も言ってもらえない環境が出来上がる。
>だって自分はもう少し人に好かれてもおかしくないのに何で?何で?
少しずつ自己分析、自己理解が進んでいらっしゃるじゃないですか(・u・)
これなら掘り下げていいと思うんですが…。
でも、お気が向いた時にほどほどで良いと思います。
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