|
▼リズムさん:
レスが遅くなりました…。
といっても、人様の作ったスレで会話をつづけていていることも、すみません。
長引かないように気をつけます。
>医療に関して恐怖を与えるような書き込みは控えて欲しいです。
そうでしたね…。デハビラントさんへの助言としては、医療の不満まで書いてしまうのは、配慮に欠けましたね。おっしゃるとおり、不適切でした。
>カウンセラーやカウンセリングのスタイルにも様々あります。
>どちらかが主導権を握って完全にコントロールされるとかしなければならないというようなことはありません。
>大切な部分ですが、頭の中で堂々巡りしているだけの人にはカウンセリングは向きません。
そのとおりだと思います。なのに地方は支援の選択肢がまだまだ無いんですよ。
発達障害当事者が社会へ、都会に限らず地方も選んで出ていく権利があるなら、もっと「無い!無い!」と集団で声をあげていく必要があるんじゃないかと……過去に、精神的にちょっと安定しない場所にいた時には、そう思っていました。
>現実に動いてその「経験」を話していくうちに「気づき」があって、カウンセリングは意味があります。
カウンセリングの代わりに、ネットしか無くなったので力任せにネットに頼っていて、不満は持ちつつも「気づき」の体験はしてこれました。
人が正面に座っていると、私は「気づき」しにくいですね。
誉められることは何かを強迫的に探ってしまいますから。
『誉められることを探しちゃいけない』と、自分に制限を掛けると、誉められることを探さなかった自分に対する罰のような、責めのような、観念が沸いて来て、刑事に事情聴取されているような責め言葉が頭の中に常に流れてくる状態になる。
これが耐えられないですね。
我慢し過ぎると生活の危険な妨げになります。
この頭の中の言葉責めを、私に負担を掛けない人間の声に代わって欲しいんです。
>それと、>薬は思考停止させるために飲まされているわけではありません。
>病状により薬を飲むとそのような感覚になることもあるのでしょうね…。
お察し、ありがとうございます!
お医者さんに言われたかった…。
>デパケン、デパケンRと三環系の薬は全然違います。
>副作用が強かったのなら、医師と相談し減薬か薬の変更となるのが普通です。
>あなたがそうならなかったというなら、それはなぜか考えてください。
副作用と言えるのかどうかは分かりません。
そこも医療の、そういうケアの経験者に、話を引っ張り出してもらって、整理してもらって、認知の偏りがあったら矯正してもらって、結論に導いてもらいたかったです。
本やネットで、無理やり自分で「合わない!」と結論付けて、ケリを付けたのは、確かにあまり良くない区切りのつけかたです。
三環形は、過去にいたネットのコミュニティで、流行っていたんです。
三環形の三種の薬の内のどれかは、書かないでおこうと思います。
“努力”だと信じて、何にでもすがっていた私は「今日ね〜○もらったの。いいよって言われたの」「わたしももらったよー。○を飲み始めるよ。楽しみだわー」「飲んでるけどいい感じだわ」という声を読んで、長い間迷った末に『食わず嫌いは独りよがりなんだ。努力しなければならないんだ。試すんだ』と、一大決心をしてお医者さんに頼んだんですよ。
「また欲しいと思ったら言ってね〜」と、とても私に都合良いことを言ってくださり、私の探索に協力していただきました。今でも感謝しています。
でも、解決はしなかったんですよ。
私の生活と仕事の質の向上には、足りなかった。
仕事には、進みが遅い人間は計画を見通して早くから着手するのが基本ですが、中にはどうしても早く始めてもしょうがない部類のものがあるじゃないですか。
そういうものを溜め、想定外仕事も入り、キャパシティを超えてミスをしてその後片付けも入りして、くたくたに疲れた時にも、責任を負っている仕事は果たさなければなりません。
でも、頭の中で“離人”症状というんでしょうか。仕事の記憶がポーンと夢の中の妄想のようになっていって、人ごとのように、逃げても当たり前なもののような意識になっていって、自分を缶詰にしても解決しない。
その代り頭の中の言葉責めは見事に引くんですけどね。
生活の糧の危機を感じましたよ。命の危機ですよ。心底ヤバいと実感しました。
これから二次障害を治療される人は、私のようにはやらないでほしいです。
これは、ネットの中で(閲覧は多いとしても)一対一の会話を充実させて解決する問題ではないんですよ。
社会的な立場的に弱い、小さな当事者ごときに解決できる問題ではないんですよね。
今までやって来た人がいなかったわけではないですが。
いらっしゃいますよ。私なんぞよりもずっと発信力のある先輩方達も。
それでも一般社会に問うんですよ。マスコミにはもう任せない。信じない。
「働けますよ。暮らせますよ。でも嫌われますよ。私達をどう思っていますか」「私達はどうなればいいですか」「結論としてどういう存在ですか」などを。
こういうところに書かせてもらうときも、意識してしまうんです。
だから、スレ主さんに宛ててか、社会に宛ててかは、読む人が分かりやすく書かなければならないと、自分の不足を反省しているんです。
“不満の存在”“見えない人権”というものを考えていましてね。
人権は目に見えませんが、そこに存在していることが意識もされなければ、無いも同じなんですよ。
私が雑誌で読んだのは十代の頃だったでしょうか…。ネットでもどこかに上がっていた話かもしれません。見覚えがある方もいらっしゃるかもしれません。
俳優の武田鉄也さんが、若いころ、きらびやかな街でスタッフとお酒を飲んでいたときに、若い女性が来て面と向かって言ってきたそうです。
「あなたはこんな場所でお酒なんて飲んでいてはいけない人なんです!だってあなたは金八先生じゃないですか!しっかりしてください!」
それを聞いた武田さんは、実は暴れ出したくなるくらい腹が立ったそうです。でも、社会人としてこらえて「はい」と返事をして立ち去るしかできなかったという話です。
その頃の小僧だった私には想像力が今よりもありませんでしたが“芸能人の人権”の存在は、そのエピソードで初めて知ったんですよ。
若い女性は、正義感あふれる優等生で、風紀委員な感じで、行動力あふれる人だったんでしょうか…。『お酒=堕落』の図式に当てはめると、いても立ってもいられなかったのでは。思えば私も、そんな痛い一面のある子だったかもしれません。
言われて初めて分かる。“人権”の存在。“不快感”の存在。“心の傷”の存在。
言ったら波風立ちますよ。イメージダウンの覚悟もいりますよ。
でも、気づかないとはそういうことなんです。言われて初めて分かった。
だから言いだしっぺは、スタートとして必要な存在なんです。
テレビが白黒のころは、失神しなければ、ロックスターの首を絞めんばかりにしがみつくのがファンの女の子でしたが、平成の今ではジャニーズファンのように「○○くんが結婚しても、お祝いできるファンでいてあげようよ!」と、けなげでいじらしいことを言えるファンも出て来ました。人権意識も、揺すれば変化が起こるんですよね。力を加えれば、化学変化が起こるんですよね。
発達障害の人権だって…
そもそもどう思われているかが、何年もたったいまでもまだはっきりしません。
「働ける?働けない?」「根性が無い」「黙々と一つのことはしている」「それだけじゃ困る」「態度はでかい」「悪気は無い」「それが嫌」「教えれば」「通じない」「教える者がいない」「分かればやる」「分かる気が無い」「聞いてこない」「いなくなって欲しい」「疲れた」「教えなくても分かってほしい」まだまだじかに耳に聞こえた言葉も含めて、混乱の声があります。
当事者と「どう思われたいか」「これからの時代にどう思われていくべきなのか」についても過去に、遠く遠くの場所で話し合ったことがありますが……話がかみ合わなかったです。様子はご想像にお任せします。
だから、どこかに所属してどこかに向かって照準を合わせて言うとか、誰かと言うとか、そういう協調性を発揮しながら言うことはできません。
でも、言わないと将来的に命にかかわってくると、ずっと思っています。
存在の主張って、難しいものですね!
|
|