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こんにちわ。
>できることがないかもしれないし、そして障害に意味は、絶対にないです。(もちろん同時に、健常者であることにも意味は一切ないです。)
特に正面切ってつっかかる気持ちはありません。
「障害は意味がない」
ということばに、
「障害をあえて、わざわざとりあげる必要性はあるのか」という思いも込められているように思うので。
ただ、私か担当している吃音(いわゆるどもり。あえてこの用語を使うのが障害に意味はないという私たちの思いも込めて)のお子さんをもたれたお母様の複数の方が、だいたいこれに近いことばをおっしゃっていました。
「わたしの子どもに、吃音があってよかった。
吃音があるから、わたしの子どもはこの教室に来ることができました。
もし吃音がなかったら、ただの引っ込み思案(きっと不適応とかいろいろ)としてそのままクラスに埋もれていました。
わたしも一人悶々としていました。
この子に吃音があったからこそ、いろいろな人に出会い、わたしとともに子どもも救われました。
吃音があってよかったです」
この「吃音」を「発達障害」に換えたり、「悶々」を「わたしの子育てが悪かった」という陰のことばに置き換えてみたらどうかなと思うのです。
きれいごとをいうつもりはないです。
「障害」はないほうが楽です。
でも、それを抱えて生きていくとき、それに「意味」を持たせることは、当事者としてとても大切なような気がします。
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