アスペルガーの館の掲示板

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[#4955] 反抗期 Chiquitita 05/3/20(日) 0:05 [未読]

[#4988] Re:反抗期 went 05/3/22(火) 1:03 [未読]
[#4992] Re:反抗期 Chiquitita 05/3/22(火) 4:37 [未読]
[#4993] Re:反抗期(続き) Chiquitita 05/3/22(火) 4:39 [未読]

[#4988] Re:反抗期
 went メール  - 05/3/22(火) 1:03 -

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   ▼Chiquititaさん:
>私が知りたいのは、発達障害があると反抗期がなかったり、あるいはあっても定型発達の人と違う年代に反抗期を迎えたり、あるいは反抗期があっても他の人ほど顕著ではない、といった特徴があるのかどうかであります。
>
>皆さんの体験談も差し支えない程度でお聞きしたいので、宜しくお願いします♪

 私の場合、「大学入学してすぐに反抗期が来た」と思っています。
 高校までは、反抗できなかったというよりも、「大人が狡猾すぎて、思惑が読めなかった。更に、他の人も自分と同じようなものだと思っていた。」「中学・高校以上に、小学校時代がひどすぎた」という感じだったのだと思います。

 親は私を、次のような方針で育てました。

 「どうせ、wentには実力がない。だから、出来の良い男と結婚させるしか幸せになる方法がない。出来の良い男が満たすべき最低の条件は、地域のトップ高校を出ていることである。そいつと結婚させるためには、できればその高校に、それが無理ならそいつに相手にされるボーダーの高校に、wentを入れなければいけない。
 どうせwentには、自力ではそれらの高校に受からない。だから、親が監視しなければならない。また、高校入試は、内申書が悪ければ落とされる。wentがパニックをおこすと迷惑だし、内申書にも悪く書かれる。パニック回避のために、wentには積極的な行動をさせてはならない。お客様をやるように仕向けなければならない。塾通いや部活動なんか、論外だ。」
 
 「地域のトップ高校を、420人中380番位の成績で卒業し、高校教師が勧める就職先に腰掛的な就職をして、公務員のような男と見合い結婚をする。これがwentの身の丈にあった幸せだ。その高校でいい成績なんかとらなくていい。否、wentにとれる筈がない。」

 これらの方針を明確に述べることは、高校までずっとなされませんでした。
 「無理しなくてもいいのよ。出来ないのも個性よ。人の邪魔をしなければいいだけのことだから。あなたはその場にいるだけでいいのよ。お客様をやっていれば、あなたは普通の人として認められるのだから。普通にやっていさえすれば、その場にいるだけでそれなりにいいものがもらえて、守ってもらえるよ。」と、大人は私に言い続けたのです。
 これらのお客様適応が通用するのは、長く見積もっても高校卒業までです。大学入学後、他の適応方法を身につける必要が出てきました。しかし、方法について何も思いつきません。20代の間私はずっと、混乱し続けていました。
 このとき、親は、変わり身素早く、次の言葉を浴びせたのです。
 「これまであんたが努力しなかったからよ。あんたの責任よ。自業自得よ。」

 小学校時代の私は、地域のトップ高校に入れる学力がないと親から思われていました。「もうひと頑張りすれば、例のボーダーの高校に入れるという程度」とみなされていました。
 私は、「大人を喜ばせる、情緒的な作文を書く」ことと「見た目が小奇麗なノートを作る」ということが苦手でした。そのことが理由で、学力がない子とみなされました。
 私は、理数系が好きな女の子でした。このことも、親から見たら好ましくないことだったようです。「理数系が好きな女の子なんか、可愛げがない、冷酷な子供だと思われる。『算数や理科よりも国語や社会が好きだ』と、言うようにしなさい。」と、親からさんざん言われていました。
 中学校に上がってからは、勉強に関する事情が変わってきます。ベンチャラ作文や小奇麗なノートよりも、「英語と数学の成績をあげる」という課題のほうが楽でした。また、理数系教科の成績がよいことは、地域のトップ高校合格に近づくこととみなされます。
 中学に入ってから、私の成績はあがりました。地域のトップ高校合格圏内に届くようになりました。こういうわけで、親は主要(?)教科の勉強に対しては、小学校時代ほどうるさく言わなくなりました。
 
 小学校中学年からずっと、私は、いわゆるいじめられっこでした。大学入学までずっと、「いじめの加害者は同じ学校に通っていた人達」と思っていました。
 しかし、大学入学後の反抗期に、「子供によるいじめは、単なる前座だったんだ。そのいじめに便乗して、大人が取った言動(しかもこれらは、教育的指導という大義名分のもとになされた)のほうが、いじめのメインだったんだ。」とわかりました。
 義務教育時代に私は、「私が考えたり感じたりすることには、ロクなものはない。私の考えたり感じたりしたことが他の人にばれたら、バカにされたりひどい目にあうことになるに決まっている。できるだけ、他の人の思考や感情と同調できるようにするようにしなければならない。」と思うようになりました。今思うに、こんな状態だと反抗もへったくれもありません。
 
 大学では、寮生活をやりました。「自分の思った・感じたこと」についてもある程度話さないと他の寮生との会話が続かないので、怖々それらを話すようになりました。いろいろな寮生といろいろな会話をやっていくうちに、「他の寮生は、高校までずっと、私ほど押さえつけられなかったようだ。他の人は、これまでのびのびと暮らしてきたようだ。田舎で冷や飯食ってきたのは、どうやら私だけだ。」とわかりました。
 サークル活動・アルバイト・寮自治会役員・大学での学業といった、いろいろな場面で、「他の人はこれまでのびのびと暮らしていた。そして、いろいろな実力を付けていった。一方私は、押さえつけられて窮屈な思いをして、何もできないまま今まできた。私は、足手まといのお客様でしかない。」ということを見せ付けられました。
 
 こうして、大学入学後に反抗期がきたという感じです。
 この反抗期は、「私のことを認めてくれる友人が、何人かいる」「大学の学生相談室(私にとっては、とてもよい施設だった)が使えた」という幸運に恵まれていました。もしもそれらがなかったらどんなものになっていたか、想像が付きません。

[#4992] Re:反抗期
 Chiquitita メールホームページ  - 05/3/22(火) 4:37 -

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   コメントありがとうございます。

▼wentさん:
> 私の場合、「大学入学してすぐに反抗期が来た」と思っています。
> 高校までは、反抗できなかったというよりも、「大人が狡猾すぎて、思惑が読めなかった。更に、他の人も自分と同じようなものだと思っていた。」「中学・高校以上に、小学校時代がひどすぎた」という感じだったのだと思います。

私の場合はいじめがあまりにもひどすぎて、大人の心理を把握している余裕がありませんでした。しかし親も弟もあまり発達障害を理解している様子もなく、室蘭では私が安心できる場所がありませんでした。家庭内では小学校や中学校のような凄まじいいじめがなかった分、親父のDVに怯えながらも、まだ学校よりましだと感じていたくらいでした。

> 親は私を、次のような方針で育てました。
>
> 「どうせ、wentには実力がない。だから、出来の良い男と結婚させるしか幸せになる方法がない。出来の良い男が満たすべき最低の条件は、地域のトップ高校を出ていることである。そいつと結婚させるためには、できればその高校に、それが無理ならそいつに相手にされるボーダーの高校に、wentを入れなければいけない。
> どうせwentには、自力ではそれらの高校に受からない。だから、親が監視しなければならない。また、高校入試は、内申書が悪ければ落とされる。wentがパニックをおこすと迷惑だし、内申書にも悪く書かれる。パニック回避のために、wentには積極的な行動をさせてはならない。お客様をやるように仕向けなければならない。塾通いや部活動なんか、論外だ。」

まるで私の両親と同じように世間体を気にしているとしか思えませんね。私は絶対子育ての順番が巡ってきても、世間体を度外視して、本人のためになるような子育てをします。本人のためなら、親は泥水を飲んでも構いません。
私の両親、特に親父は泥水を飲むのをひどく嫌いました。あたかも親父のDVは、自分に回ってきた泥水を他の3名にそのまま飲ませたようなものでした。

> 「地域のトップ高校を、420人中380番位の成績で卒業し、高校教師が勧める就職先に腰掛的な就職をして、公務員のような男と見合い結婚をする。これがwentの身の丈にあった幸せだ。その高校でいい成績なんかとらなくていい。否、wentにとれる筈がない。」
>
> これらの方針を明確に述べることは、高校までずっとなされませんでした。
> 「無理しなくてもいいのよ。出来ないのも個性よ。人の邪魔をしなければいいだけのことだから。あなたはその場にいるだけでいいのよ。お客様をやっていれば、あなたは普通の人として認められるのだから。普通にやっていさえすれば、その場にいるだけでそれなりにいいものがもらえて、守ってもらえるよ。」と、大人は私に言い続けたのです。

そうなのです。過保護は親の都合によるものなのです★
私も最近になって、ようやくそれに気付きました。
親が世間体を気にするあまり、社会人になっても車の免許取得にも恋愛にも猛反対したのはもちろんですが、私が身障であることを負い目に感じて反論できないでいるうちに、人間関係のPTSDばかりが拡大の一途をたどり、とうとう独身のまま、というより童貞のまま不惑を迎えてしまったのです。

茨城に出てきて、ようやく恋愛も自由になったと感じたとたん、恋愛のための心構えすらまったく解らない、という事実に気が付きました。
私が親に反抗できなかったという事実は、こういった悲劇を生み出してしまったのです。
恋愛のための心構えは、このBBSでも、またADHDのWebサイトでもずいぶんと相談に乗っていただきました。
そうしたら今度は、女性に対するPTSDが非常に深刻であるという第2の壁に突き当たってしまいました。
親が息子のいじめに対する対処の仕方を間違えたつけです。ここでも、親に反抗できなかったことが悲劇を生みました。

そうなんです。42歳になっても恋愛ができないのは、今までは身体障害そのものが理由だと思っていましたが、むしろ身障のために「親に反抗→見捨てられる→前途歩行不能」という図式をひたすら恐れていた自分自身の、親父のDVに対するPTSDが最大の原因だったのです。

> これらのお客様適応が通用するのは、長く見積もっても高校卒業までです。大学入学後、他の適応方法を身につける必要が出てきました。しかし、方法について何も思いつきません。20代の間私はずっと、混乱し続けていました。
> このとき、親は、変わり身素早く、次の言葉を浴びせたのです。
> 「これまであんたが努力しなかったからよ。あんたの責任よ。自業自得よ。」

自分の責任を棚に上げて、無責任極まりないですね。貴方の親も発達障害をまるっきり理解していないとしか思えません。
私も前述した「親に反抗→見捨てられる→前途歩行不能」のことを今仮に親父が健在だとして親父に伝えても、貴方の親御さんと同じ台詞を言うことは間違いないでしょう。

> 私は、「大人を喜ばせる、情緒的な作文を書く」ことと「見た目が小奇麗なノートを作る」ということが苦手でした。そのことが理由で、学力がない子とみなされました。
> 私は、理数系が好きな女の子でした。このことも、親から見たら好ましくないことだったようです。「理数系が好きな女の子なんか、可愛げがない、冷酷な子供だと思われる。『算数や理科よりも国語や社会が好きだ』と、言うようにしなさい。」と、親からさんざん言われていました。
> 中学校に上がってからは、勉強に関する事情が変わってきます。ベンチャラ作文や小奇麗なノートよりも、「英語と数学の成績をあげる」という課題のほうが楽でした。また、理数系教科の成績がよいことは、地域のトップ高校合格に近づくこととみなされます。
> 中学に入ってから、私の成績はあがりました。地域のトップ高校合格圏内に届くようになりました。こういうわけで、親は主要(?)教科の勉強に対しては、小学校時代ほどうるさく言わなくなりました。

私の場合は、どうしても身体障害では肉体労働が無理なので、最低でも大学進学は果たして欲しいからとずいぶん親には発破を掛けられました。しかし世間体のために一人暮らしが許されず、親も最初は地元の室蘭工大に行かせようとしていました。ようやく当時通っていた高校の進路指導担当教師との三者面談で、学校側が「Chiquititaは北大の理系を現役でパスできるだけの実力があるのだから、息子さんには目標は高く持たせなさい。」と説得されてようやく折れたほどです。

私はもちろん北大の理系には現役で合格しましたが、その直後に変形性股関節症が悪化して前途歩行不可能になり、緊急手術を受けました。ところが、発達障害がリハビリを阻害して、リハビリそのものの進捗が非常に悪く、また変形性股関節症が19歳で末期状態に至ったのはそれまでかかっていた医療機関での誤診が原因だといわれたのがショックで、引きこもり状態になりました。合コンでも身体障害を理由に毎回仲間外れにされ、周囲のものがすべて別世界にあるように感じられました。

結局引きこもりのために大学を卒業できずに室蘭に強制送還された私に親父が浴びせた台詞は一言「それ見ろ、だから言ったことじゃない。おとなしく室蘭工大に通っていれば、絶対に卒業できた。」私は反抗どころか、その場で両親を殺したくなるほど怒りました。(しかし実際には何もできなかった)
なぜなら、親父もオフクロも、単なる無気力で学校を休んでいたと思い込んでいたからでした。
しかし、小学校や中学校で全校生徒の99%が加害者になったほどのいじめを経験していながら不登校にならなかった人間が、どうして大学では引きこもりになったのでしょう? 答えはただ一つ。小学校や中学校のいじめでは、先生方が必死になって私に味方してくれたからでした。しかし大学では味方になってくれる人はいませんでした。だから私はおそらく室蘭工大へ通っていても、同じような引きこもり状態になっていたかもしれません。
あるいは、親父のDVがあんなにひどくなければ、毎日顔色を窺う癖も身に付かなかったであろうから、引きこもり状態になったときにもっと早くに親や親類の者にSOSシグナルを送ることだってできただろうし、そうすれば土壇場でも北大は卒業できたかもしれないです。

親の顔色を窺って、親に都合の悪いことを話せないというのは、DVによるPTSDが原因です。

> しかし、大学入学後の反抗期に、「子供によるいじめは、単なる前座だったんだ。そのいじめに便乗して、大人が取った言動(しかもこれらは、教育的指導という大義名分のもとになされた)のほうが、いじめのメインだったんだ。」とわかりました。

私も、考えてみればいじめのPTSDも延べ人数が天文学的な数字になるのでかなりのものですが、親父のDVによるPTSDも、毎日家庭内で長時間顔を合わせる人間が相手なので、いじめのPTSDに匹敵するくらい大きいものだと感じています。オフクロもDVから私をかばってくれたことは多かったものの、発達障害を理解しているとは到底思えず、今にして思えば私がトラウマに感じる言動も非常に多かったので、親父のDVによるPTSDに駄目押しをしていた、というのが正解かもしれません。

> 義務教育時代に私は、「私が考えたり感じたりすることには、ロクなものはない。私の考えたり感じたりしたことが他の人にばれたら、バカにされたりひどい目にあうことになるに決まっている。できるだけ、他の人の思考や感情と同調できるようにするようにしなければならない。」と思うようになりました。今思うに、こんな状態だと反抗もへったくれもありません。

確かにそうでしょうね。
私の場合はどうしても身障というハンデがあったために他人の思考や感情と同調することが困難だったので、一日も早く義務教育や高校が終わってくれないかとひたすら望んでいました。

> サークル活動・アルバイト・寮自治会役員・大学での学業といった、いろいろな場面で、「他の人はこれまでのびのびと暮らしていた。そして、いろいろな実力を付けていった。一方私は、押さえつけられて窮屈な思いをして、何もできないまま今まできた。私は、足手まといのお客様でしかない。」ということを見せ付けられました。
([#4993]に続く)

[#4993] Re:反抗期(続き)
 Chiquitita メールホームページ  - 05/3/22(火) 4:39 -

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   [#4992]の続き)

今にして思えば、私も大学でサークル活動に参加しなかったのが、引きこもりを招いた原因の一つだと思います。もちろん、親はサークル活動なんてとんでもない、という意見の持ち主だったので、私が身障のために反抗できないのをいいことに増長していったとは信じたくありませんが、私の学生生活から自由を奪いました。

>▼wentさん:
> こうして、大学入学後に反抗期がきたという感じです。
> この反抗期は、「私のことを認めてくれる友人が、何人かいる」「大学の学生相談室(私にとっては、とてもよい施設だった)が使えた」という幸運に恵まれていました。もしもそれらがなかったらどんなものになっていたか、想像が付きません。

私は、ようやく社会人になって、もう親に見捨てられても自活できる状態になって親に反抗できるようになったのですが、このときには既に親父は胃ガンが末期状態を迎えており、しかもスキルス性という、2次元的にしかガン細胞が増殖しないタイプのものであることから発見が遅れました。そして1993年の夏、記録的な冷夏で室蘭では16日連続雨模様のさなか、享年53歳で死にました。
死んだ当初、肉親の臨終を看取ったということで悲しくてたまりませんでしたが、DVから開放された安堵感があったためか、涙を流して泣くことはできませんでした。(心の中では泣いていた)
そして、時間が経過するにつれて、「私の人生に最大の邪魔者がいなくなった」という思いだけが強まっていくのを感じています。親父にASの疑いがかかるようになって、納得どころか今までの言動がますます許せなくなったこともそのためだと思います。

そして残されたオフクロも、結婚してから43年間鬱状態に悩まされています。誰にも理解してもらえないばかりに、自分自身にも「病は気から」と言い聞かせて頑張ってきた結果、鬱状態が他人の行動をも束縛するほど重症化してしまいました。

室蘭での就職難のさなか、私は全国規模のコンピュータ会社の面接に応募し、ようやく関西の案件で面接をしてもらえるようになったとき、オフクロは「何でコンピュータの仕事にこだわるの? コンピュータ以外にできる仕事なら、室蘭でもいくらでもあるでしょう」と、私の関西での面接に猛反対しました。
私はもうオフクロの過保護が惰性になっているのに耐えられず、ようやく40歳目前にして親に反旗を翻しました。「働きに行くのはオレだぞ。オフクロが働きに行くわけじゃないのに、何でそう室蘭にこだわるんだ? 室蘭にいたって飯が食えるようになる保証があるわけじゃないから、確実に飯が食える求人案件に応募して何が悪い?」
結局、この案件と、翌年に申し込んだ名古屋の案件は何れも不採用になりましたが、名古屋の案件で不採用になった直後に、私を室蘭市内のコンピュータ会社が採用してくれることになりました。
しかし、例の脅迫メールの一件で理不尽な解雇を経験した私は、もう室蘭にはいられないと思い、札幌の案件に応募、札幌では不採用も、茨城のほうが私の業務経歴書を見て面接に応じていただいたおかげで、今こうして茨城にいるわけですが、40歳を過ぎても親に従順なら、おそらく人間的に成長できないで、完璧にダメな人間になっていたでしょう。
大幅に遅れてやってきた反抗期を経験し、親の束縛を振り切って、今ようやく充実した毎日を送っています。

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