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▼夕焼けさん:
>▼wentさん:
>学校に行ったら、「学校にお任せ」ではなく、「自分は何をやりたいのか」「自分は何をしたいのか」言えるようにしてあげなくてはいけない。と、いう意味にとっていいのでしょうか。
・子供は学校で、本人にとって有益なものも有害なものも得る(理由は後述)。どちらか一方だけを得るということは、おそらくないだろう。有害なものを得たからといって、「本人が悪いからだ」とは断定できない。」
・何が有益で何が有害か、それは生徒一人一人で違ってくる。また、得た(得る)ものも生徒一人一人で違う。
・それらの事を踏まえずに「学校は生徒にとって有意義な場所」と決め付けられるのは、生徒にとっては辛いことかも知れない。
という思いが私にあって、「学校にお任せという態度が苦しい」と表現しました。
「学校で得られる有益・有害なものはどんなものなのか、考えてみてもいいかもしれない。前者をできるだけ多く後者をできるだけ少なくするためにはどんな工夫ができるのかを、考えてみてもいいかもしれない。前者は実は、本人以外の人には『見栄えのしないもの』『邪悪なもの』に見えていることもあるかもしれない。(後者についても、似たような分析可能)」
という意味で書きました。
学校は「子供のためにある制度」とは、言い切れないと思います。「大人や社会のためにある」という面も、あると思います。それ故、次のような要請が、子供になされていると私には思えます。
この要請のもとでは、「子供が有害なものも得る」ことは避けられないと思われます。
・子供はまだ、社会のために役立たない。大人が働いている間大人の邪魔にならないように、特定の場所に閉じ込めたほうが大人に取って好都合。
・学校は、ある基準で人を選び出し、分類・評価し、社会の異なる場所へと送り出していくための場所である。この場合の基準は、本人が決めるものではなく教育する側が決めるものである。
・学校側には、「本人が有益なものを得るかどうか」ということを考える余裕などない。それよりも、「まとまりのある学級をつくる」というお題目に従順になるように仕向ける必要がある。
教師によってそれぞれの生徒の行動は、一度に監視される。教師は、生徒の性格や能力や教師に対する態度の違い等といった情報を比較しながら、詳細に観察する。逆に生徒側が教師に関する情報を得られる機会は、ほとんどない。
こうして、生徒はこのお題目に従順になっていく。それだけではない。生徒間での相互監視もなされるようになる。
・学級という組織のリズムに従わせる際には、それに対応した役割をある特定の生徒に押し付ける必要が出る場合も、あり得る。
その役割には、「お客様役(本人がいろいろなスキルを身につける機会を奪われても、学校側の知ったことではない)」「集団をまとめるためのスケープゴート役」「(表面的仲良しのふりをすることが苦手な、生徒に押し付ける)社会性のない生徒という役割」といったようなものがある。
>> 本人を追い詰める思い込みには、次のものもあります。
>> 「学校(学級)になじめないのは、学校(学級)というシステムが本人に合わなかったからではない。本人に社会性がないことが原因だ。」
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>この点は、私は変りましたよ。多くの人が合うというシステムが自分には合わないのであれば、合うように変えてもらえばいい。どうしても変えられないのであれば、環境を別のところに置けばいい、と。眼鏡を合わせる感じ…。
こういう視点で見られる夕焼けさんは、立派だと思います。
不登校についていろいろな人がいろいろな立場から意見を述べています。その中に、「社会性」という言葉が使われているものもありますが、違和感を感じさせるものが多いです。
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