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▼きんぴらさん:
>このたびは先生から「あまりにも他のお子さんと違うのはおわかりですよね」と言われ、カウンセリングを勧められました。
>はじめてのことにどうしたらよいのかわからず、知り合いに紹介してもらい、他県のカウンセリングを私ひとりで受けました。
>ASの可能性があるので、小児科の診断を勧められ、先生に言うと、「何でもっと早く気がつかなかったんだ、こういう子は早くから訓練するべきだ」などと言われました。先生は初めから自閉症だと思っていたようでした。
>小児科で受診はしたものの、診断はつかず、言われたことは「お母さん、単独で動かないほうがいいですよ。学校の方針に従わないと。あとこの先、心理テストを受けて、診断はつけてもらわないとね」と言うことでした。
>確かに他県でカウンセリングを受けたと言ったら「なんでここの市で受けないんだ、学校と連携しているのに」と叱られた。でもお医者さんは「わからなかったと言っていればいいよ」と言ってくれました。
>ASの可能性がある、と言われてから、インターネットなどで私なりに調べていますが、次男はあてはまるところがほとんどです。
>どうしてこんなことができないんだろう、と思ったことはたくさんありましたが、こんな子がいてもいいんじゃないのかな、なんて程度でした。
>先生はとにかく周りとのコミュニケーションがとれない、パニックをおこす、間が悪い、暴力をふるうことがある、人に謝らない、等々、問題点を言ってきます。
学校の先生の態度・方針が、私は気になります。
「発達障害者は、放置しておいたら邪魔者になる。邪魔にならないように改造しなければならない。その結果本人が不利益を被ったとしても、仕方がない。本人以外の多数派のために泣いてもらおう。」という発想のもとで、「ASの可能性」のことを持ち出したのならば、危険だと思います。
([#3990]で、これと関係のある書き込みをしています。)
「コミュニケーションに問題がある」と学校の先生が捉えているようなのですが、「学校の先生にとって都合のよいように、次男さんがふるまってくれない。」という意味で使われている可能性もありうると、私は思います。
・自分の周りにいる他者の都合を優先させすぎることは、自分を辛くさせる。自分で自分を追い詰めて精神的な余裕がなくなると、却って他者の都合というものが見えなくなってしまい、他者とうまく付き合えなくなる危険性も出てくる。
・「あまりにも他者のことを考えない」ということは、結局自分の居場所をなくすことにつながる。
・「これらのことについてうまく微調整をやっていく能力」を付けていくための指針のひとつとして、「ASの特性について考える。」ことも意味があるかもしれない。
という姿勢のもとで「カウンセリングやASについて考える」のであれば、納得できます。しかし、きんぴらさんの書き込みを拝読する限りでは、学校の先生側はそのような見解をもってないように(私には)見えます。
「よいコミュニケーションをとるためにはどうすればよいのか。その方法を少しずつでも覚えていこう。」という態度を取るよりも先に、「問題のある悪い子だと、断罪する」という態度をとっているように、(私には)見えます。
・小学生というまだ人格の固まっていない時期に「問題のあるコミュニケーションをとる子供」と決め付けられる(しかも、決め付けられた根拠や根拠が妥当であるかどうかは、明かされない)こと
・決め付けられ、挙句の果てに、「自分は人間的に欠陥がある」というふうに思い込まされること
によって、ますます、「自分も他人も大切にできなくなってしまう」危険性が高まるのではないか……と私は思います。
「うちでは穏やかにしていることが多い」「子育てでそんなに苦労したとは、思っていない」ということから、私は次のように想像しました。
「次男さんは落ち着いた環境・状態のもとでは、問題のない行動をとっている。」
「家庭の中は、次男さんにとっては落ち着ける環境にある。きんぴらさんの接し方も、そのようになっている」
「次男さんを問題児に仕立てる」という面が学校の先生側にないかどうか、考えていく姿勢も必要かもしれないと、私は思います。
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