アスペルガーの館の掲示板

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[#2298] AS傾向のある子とない子の子育ての違い penpen 04/12/17(金) 10:01 [未読]

[#7370] Re:AS傾向のある子とない子の子育ての違い abc 05/7/9(土) 22:03 [未読]
[#7375] Re:AS傾向のある子とない子の子育ての違い penpen 05/7/10(日) 0:30 [未読]

[#7370] Re:AS傾向のある子とない子の子育ての違い
 abc  - 05/7/9(土) 22:03 -

引用なし
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   長文失礼します。
”姉として兄として”
のお二人に、より近い立場のもの(ちがう部分も感じますが)として、自分を少し重ねてしまいました。

>親としてはかなり年下の弟を信頼できる人間か否か判断する前に
>まず姉として兄として信頼される人間になってほしいと、はかなく望んでいます。
”信頼される人間”という何かが、神(自然)が定めたように、存在するとは思えません。
その人に多くの人が集まるということに、神(自然)が定めたような何かであるとは思えません。この辺りのことは、かなり、核心に近いところに思えてなりません。
”他人に信頼される”など、一生、努力しても無理な場合があるはずだと思います。
この上もないプレッシャーになる可能性があると思います。
無条件で接してあげて欲しいと思います。「わたしは、こう思う。でも、決めるのはあなたです。どんな、選択をしても、私はあなたを見ていますよ。」のような感じで。
このことが、「ああ、人は信頼できるものなのだ」と、理屈抜きで、心の底に吸い込まれていくように思います。
これはもし、自分の立場ならと想像した場合のことです。

アスペ傾向のある人に、相手の能力とか、相手の何かを推し量ろうとすることをやめさせようとしても無理な感じがします。
それしかできないから。それをやめるということは、まったくの無防備で外界と接するということに等しいのだと思います。
問題は、使っている尺度が何であるのかで、その尺度は多くのものの中の一つであること、人間を完全に定義できる尺度としてはどれだけ種類の尺度が必要なのか、最終的には、人間とは何か、この定義が完了していないこと、自分が見ている部分は一部でしかない、こういうことをごまかしでなく、科学的な事実に基づいて議論できると影響を与えることができる可能性があると思います。とても、パワーが必要だと思いますが。
テンプル・グランディン さんが書いた
Thinking in Pictures
から抜粋します。
-------------------------------------
しかし、自閉症の遺伝は複雑な問題である。
自閉症の遺伝子というはっきりしたものはないからである。
ロビン・クラークは「Personal Individual Differences」という雑誌で、少量なら役に立つ遺伝子でも、多量に受けると不全状態になるのではないかと推論している。たとえば、一つの事に固執する特質が軽度であれば、事に集中して貫徹する結果を生むが、重度の時はその固執性が人間関係を阻害する。

深刻な障害を起こす遺伝的な特質は、世界的に偉大な芸術作品を生んだり、科学的発見をする才能や異才ももたらすことができるのである。正常と異常の間は、黒白に分けるほど明確ではない。結果的には大きな苦悩でありながら、自閉症や、深刻な慢性うつ病や、統合失調症のうな障害が、私たちの遺伝子構造の中に残っているには、それなりの理由があるのだと思う。リサーチャーたちは、統合失調症は、人間の進化に伴って言語や対人関係能力と引き換えに支払うことになった障害ではないかと推論している。ロンドンのクリニカル・リサーチ・センターのティム・クロウは、統合失調症は、統合失調症者が他と比べてより多くの子供を産むわけでもないのに、どんな街にも同じような出現率で見られることを指摘している。
-------------------------------------
多少の論理の跳びがありますが、上記の事実は、”自分の能力は、自分の中に欠けているものと引き換えにしたものという側面を持つことと、重い障害を持って産まれて来た人の存在なくしてはありえない”ということを示唆しています。すると、自分の能力が自分の物かという問い自体が意味を失って来るはずです。

>アスペの人はものごとを冷静に判断できるということはあると思います。
これが、アスペ傾向のあるの人の大きな存在意義だと思います。もっと言うと、”これだけが”、と言い換えるべきかもしれません。
これに、最も目を向けるべきことなのだと信じています。

>“自分自身への客観的な目”は
>わたし自身の経験で言うとアスペの人は不得意だと感じています。
アスペ傾向の人は、注意を向けて、集中している対象と自分の一対一になり、あるのは集中している対象だけというのが、心の風景だと思います。
自分自身へ目を向けるということは、意識的に、自分の行動と言葉を対象として選ばないと、始まらないはずです。これは意識的に訓練することをする必要があるのだと思います。
これは、本当に、具体的な作業なのだと思います。
あるときの、自分の台詞、行動、他人の台詞、行動、を脚本家がチェックするように。ただし、これによって、普通の人が抱いている共感を知るということは不可能だと思います。やれることは、表面上、問題を起こさせないようにできるということだけだと思います。

>“客観的な視点から見た自分”が“他人から見た自分”だと解釈すると
>他人の気持ちへの共感を不得手とする人間には
>“他人から見た自分”を正しく知ることは難しいように思います。
”他人の気持ちへの共感”“他人から見た自分”というものは、実はある意味で、存在しない、錯覚かもしれないという視点を失った瞬間に、
普通の人 >> アスペ傾向
という構図が始まってしまうと思っています。
少なくても、私は他人の意識が自分の意識の中に入ってきたことを経験したことがありません。私にできることは、他人の言葉と行動の法則性からそのときの相手の中に存在する気持ちを、自分の中のある心の中のどれに最も近いのかを推測することしかできません。自分の中に対応するものが見つからない場合は、もう、推測も不可能。ある絵を見て、Aさんは惹かれると言い、Bさんは惹かれないと言う。この状況と本質的には何も変わらないのだと思います。
“他人から見た自分”など、100人いれば、100個存在するはずです。
世界の大半は、アスペ傾向のある人ではなく、普通の人であるはずなのに、なぜ、大半の人が「人の気持ちがわからない」と言いつづけているのかと思います。
客観性は、科学と言い換えても、知性と言い換えても、良いと思います。客観的な真実は、別な言い方をすると、”他人と共有できるモノ”という言い方をされてきました。他人と共有できるから、時代を越えて過去の人から未来の人に受け継がれている。
感情と論理
の事と言い換えても同じだと思います。この二つに、どちらが上も下もないはずです。
アスペ傾向の人は、具体的な質問と答えの繰り返しの中で自分で道を作りながら進んでいくような感じなのだと思います。その時に、ヒントとなる質問文や、答えの文を提示してくれる人が周りにいると、とても助かるのだと思います。そういうことを具体的な言葉で答えられる人というは、当然、アスペ傾向のある人で自分が過ごして来た日々に、過去の人が残してくれた文、他人と共有できる何かから、ヒントを得て来たはずだと思います。
偏見差別はいつ心の中に入り込んでいくのか。
それは成長過程で回りの人間が言っていた事、周りの人間の行動に接し続けた時のはずです。
自分の心の中に染み付いてしまっているある事が、偏見であるということにきがつけるのは、客観的な真実、他人と共有できるモノから、その事が出てこないと解ったときのはずです。これができるのは、大抵、アスペ傾向のある人で、かつ、過去の人たちから”他人と共有できるモノ”を受け取ることに努めて来た人だと思います。人類、社会が受ける外からの脅威に対して、新しい見方、何かを新しい芽を出してくれるのが、アスペ傾向のある人たちなのだと思います。

>>そのもっと先では、普通の人にはできないほどの他人へのとても公平な接し方を獲得できると信じています。
>
>そうですね。
>冷静に他人と接することができるなら
>先の先にはそういうことが可能ですね。
実際として、そこまで行かないと、アスペ傾向のある人は、醜いアヒルの子として扱われてしまうのだと思います。
公平とは、ある規則の下に例外をつけないで、その規則に従った結果という意味における”同じ扱い”ということのはずです。
他人への公平な接し方とは、自分自身で自分の他人への接し方の法則、理(ことわり)、を決めて、それに自分を従わせるということだと思います。
もちろん、どういう法則を選ぶかという大きな課題があります。この選び方が未熟なら全体は未熟となってしまうのでしょう。
アスペ傾向のある人は、この傾向のやり方をすると思います。このやり方に磨きをかけると、普通の人ができないくらいに、自分が成長過程で心に染み付いてしまった偏見差別などから、自分の言葉、行動を切り離すことができると思います。
この辺に、アスペ傾向のある人に”後天的に情報を吸収する”という行為が何のために必要なのか、という問いに対する明確な答えが見えてくると私は思っています。
そして、これは本来は普通の人を含めた人間全部に当てはまることなのだと私は思っています。
アスペ傾向のある人の中には、最初から成長過程で心に染み付いてしまった偏見差別に気が付いているからこそ、意識的に、論理、法則性に注意を向けて行く人も少なくないのだと思います。

自閉症、高機能自閉症、アスペルガー症候群から、普通の人の系列は一つの直線上に切れ目なく存在しているという見方は真実なのだと思います。
冷たくて、謙遜などかけらも無いが、公平な目の象徴のようなシャーロック・ホームズ

とても暖かく、とてもやさしいが、偏見に惑わされることがあるワトスン博士
はどちらが、上でも下でもないと思います。

[#7375] Re:AS傾向のある子とない子の子育ての違い
 penpen ホームページ  - 05/7/10(日) 0:30 -

引用なし
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   ▼abcさん:

こんばんはー。(=^・^=)

>長文失礼します。
>”信頼される人間”という何かが、神(自然)が定めたように、存在するとは思えません。
>その人に多くの人が集まるということに、神(自然)が定めたような何かであるとは思えません。この辺りのことは、かなり、核心に近いところに思えてなりません。

abcさんはアスペの人の直感に
“神”の法則、絶対性を感じるところがあるのでしょうか。
アスペの人の直感に真理を感じると言ってもいいのですが……。

>”他人に信頼される”など、一生、努力しても無理な場合があるはずだと思います。

そうですね。アスペは少数派ですので……。
でも信頼性ということに関しては
その人のアスペの度合いもありますが、几帳面、真面目という点で
信頼されるということはあると思います。

>この上もないプレッシャーになる可能性があると思います。
>無条件で接してあげて欲しいと思います。「わたしは、こう思う。でも、決めるのはあなたです。どんな、選択をしても、私はあなたを見ていますよ。」のような感じで。

ちょい子どもに対してあきらめの感があるので、
“ま、いいよ、どうにでも生きてちょ”というところはあります……。

>このことが、「ああ、人は信頼できるものなのだ」と、理屈抜きで、心の底に吸い込まれていくように思います。
>これはもし、自分の立場ならと想像した場合のことです。

そうですね。
人をよい存在だと思う気持ちは失って欲しくないと思います。

>アスペ傾向のある人に、相手の能力とか、相手の何かを推し量ろうとすることをやめさせようとしても無理な感じがします。

そうですね。
私もそう思います。

>それしかできないから。それをやめるということは、まったくの無防備で外界と接するということに等しいのだと思います。
>問題は、使っている尺度が何であるのかで、その尺度は多くのものの中の一つであること、人間を完全に定義できる尺度としてはどれだけ種類の尺度が必要なのか、最終的には、人間とは何か、この定義が完了していないこと、自分が見ている部分は一部でしかない、こういうことをごまかしでなく、科学的な事実に基づいて議論できると影響を与えることができる可能性があると思います。とても、パワーが必要だと思いますが。

人を批判的に推し量るのではなく、よい面を数えていくという方向で
推し量ってくれたらと思います。

>多少の論理の跳びがありますが、上記の事実は、”自分の能力は、自分の中に欠けているものと引き換えにしたものという側面を持つことと、重い障害を持って産まれて来た人の存在なくしてはありえない”ということを示唆しています。すると、自分の能力が自分の物かという問い自体が意味を失って来るはずです。

そうですね。
アスペの人の才能は何かを引き換えにして受け取ったものだという考えには
わたしも同感です。
なので、自分の才能にうぬぼれずにいることが大事になってくるように思います。
例えばわたしの長男は成績がよいですが、かといって成績の悪い弟を
あまりばかにしないでほしいと思っています。(=^・^=)

>>アスペの人はものごとを冷静に判断できるということはあると思います。
>これが、アスペ傾向のあるの人の大きな存在意義だと思います。もっと言うと、”これだけが”、と言い換えるべきかもしれません。
>これに、最も目を向けるべきことなのだと信じています。

冷静にというか、自分の価値判断で推理する能力だと思います。
なので、その価値判断、推理が間違っているとけっこうとんちんかんに
なってしまう可能性があるかもしれません。

>アスペ傾向の人は、注意を向けて、集中している対象と自分の一対一になり、あるのは集中している対象だけというのが、心の風景だと思います。
>自分自身へ目を向けるということは、意識的に、自分の行動と言葉を対象として選ばないと、始まらないはずです。これは意識的に訓練することをする必要があるのだと思います。

その独特のものの見方は芸術に向いていると思います。
しかし、例えば、弁護士など誰かをさばく、判断するという職業には
不向きのように思います。
価値判断、善悪判断に関わらない職業を選んだ方がいいかもしれないと
子どもを見て思います。
おそらくたくさんの価値判断があること、選択しなくてはいけないことには
混乱を感じるように思うからです。

>これは、本当に、具体的な作業なのだと思います。
>あるときの、自分の台詞、行動、他人の台詞、行動、を脚本家がチェックするように。ただし、これによって、普通の人が抱いている共感を知るということは不可能だと思います。やれることは、表面上、問題を起こさせないようにできるということだけだと思います。

自分自身を常にチェックすることは
わたしの子どもに覚えて欲しいことのひとつです。
表面上、問題を起こさないだけのことであっても
ずっとそれを続ければ、
やがて、世の中に対して寛容になることができるように思います。

>世界の大半は、アスペ傾向のある人ではなく、普通の人であるはずなのに、なぜ、大半の人が「人の気持ちがわからない」と言いつづけているのかと思います。

“わからないこと”を自覚することは自分を疑うこと、
他人を知ろうとすることにつながると思います。
言い換えれば寛容であることにつながる自覚だと思います。
自分が必ずしも多くを知っているわけではないという自覚は
謙虚さ、寛容さにつながると思います。

>客観性は、科学と言い換えても、知性と言い換えても、良いと思います。客観的な真実は、別な言い方をすると、”他人と共有できるモノ”という言い方をされてきました。他人と共有できるから、時代を越えて過去の人から未来の人に受け継がれている。
>感情と論理
>の事と言い換えても同じだと思います。この二つに、どちらが上も下もないはずです。

そうですね。
“感情”と“論理”は言葉の上ではどちらが上でも下でもないですが、
“論理”が実は自己本位ないいわけであることが
わたしの子どもの場合、まま、あります。
“論理”の中身の検証は必要かもしれません。

>自分の心の中に染み付いてしまっているある事が、偏見であるということにきがつけるのは、客観的な真実、他人と共有できるモノから、その事が出てこないと解ったときのはずです。これができるのは、大抵、アスペ傾向のある人で、かつ、過去の人たちから”他人と共有できるモノ”を受け取ることに努めて来た人だと思います。人類、社会が受ける外からの脅威に対して、新しい見方、何かを新しい芽を出してくれるのが、アスペ傾向のある人たちなのだと思います。

そうですね。
たくさんのアスペの人たちの中に天才という時代の
先駆者になる人がきっといるのでしょう。
しかし、わたしと私の子ども達はそのような天才になり得るわけもなく
ただなんとか世の中で、小さな自分の居場所を作るだけで
精一杯だろうと思っています。
しかし、それが精一杯の努力の到達点だとしたら
それに不満はないです。
そこに至る努力を思うと、人に認められなくても
今の場所に悔いを残すことはありません。
多少の悲哀は感じることもあるかもしれませんが……。

>アスペ傾向のある人の中には、最初から成長過程で心に染み付いてしまった偏見差別に気が付いているからこそ、意識的に、論理、法則性に注意を向けて行く人も少なくないのだと思います。

そうですね。
論理には惹かれるかたが多いように思います。

>自閉症、高機能自閉症、アスペルガー症候群から、普通の人の系列は一つの直線上に切れ目なく存在しているという見方は真実なのだと思います。
>冷たくて、謙遜などかけらも無いが、公平な目の象徴のようなシャーロック・ホームズ
>と
>とても暖かく、とてもやさしいが、偏見に惑わされることがあるワトスン博士
>はどちらが、上でも下でもないと思います。

シャーッロク・ホームズ、いいですね。
わたしも彼が大好きです。
茶目っ気もありますしね。(=^・^=)

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