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私は誰とでも人付き合いを持てるわけではありません。例えばそこに大勢の人の輪があったら、会話を十分に聞き取れない、答えをすぐに思いつけない、とか色々壁があってどうにもならないからです。そういう時、黙って、外れている事ばかりです。
でも、特に自分がはみ出し者なんだと思わないようにしてます。たくさんの人と一気に喋るのが、頭の回転の早さが必要で無理なら、自分とテンポの合う人を見つけてゆっくり喋り始めたらいいって思ってるんです。
だから、変な人がいるといいです。変わった人が。
(これを相手に直接言ったらマズイかとは思うけど)
大勢で会話するのに長けた人の中には、作法にうるさかったり、多数派と違う人を無条件に否定したり、上辺を作りすぎてて結局何を考えてるのかよくわからない人が結構いて、そこが難しいんですけど。
変わった人の中には、わりとゆっくり話を聞いてくれたり、自分の性質や他人の性質を相対的に捉えるフェアなものの見方を心がけてる人がいて、人間関係を作りやすかったりっていう事があるからです。
そうすると、相手の中には未診断のアスペルガーなんじゃ?って人も時々います。
とりあえず、わりと楽しいし、出来もしない付和雷同や礼儀作法を要求されながら合わない集団にいるよりも、充足感を感じます。(会話の内容的にも。上辺の態度で果てしなく機嫌をとりあったり、他人をけなすような噂に夢中になったりは、私には楽しめないし。不毛っていうか。こんなことに合わせられる能力が人としてそこまで大切なの???と頭が痛くなる)
色んな人で集まったら、それは十人十色に問題もあるだろうけど、変な人間は切り捨てられて終わりな世界より多分いい。変な人間になったら終わりだから、そう見えないようにだけ必死な人生より、きっといい。楽しい事だって多いはず。
だから、全部うまくいくかどうかなんて知らないけど、自分のやり方を試していくのを、躊躇なんかしないぞ、っていう考えになるんです。
…ただ、なんとなく。アスペルガーだと周囲にカミングアウトする時には、反射的な励ましを食らうことが多くて、へこみます。「そう否定的に考えなくても」とかの類ですが(大体、現状ではアスペルガーについての説明から自分でしなくてはいけないのですが)。私は、自分の能力の劣っている事を、自分の性質が変わってる事を、卑下してるわけじゃ決してないです。
自分の生活のことを専門家に相談したいときでも、お医者さんからすればこちらは「患者」だし、話は「治療」だし、どちらかというと定形発達の社会を「正しい」ものとする価値観をうっすら持っている気がするし…(私が合うお医者さんを見つけられていないだけなんでしょうか?)。それで元気がなくなるんです。
アスペルガーの名前をもらったって、人間は対等だし、意思があってプライドがあるんだ!って言いたい。
アスペルガーじゃない人間が人をいじめる問題だってずっと多いし、誰だって人の痛みを分かる超能力なんて持ってないのに、万能じゃないのに、「健常者」と「障害者」という名前で分けられたり、一方的な書き方とか、言い方とか多くて。
こういう事、どこに主張したらいいのか分からないけど。
「健常者」の社会には多様性に対する認識や開き直りが足りてないし、発達障害の人が立場を明らかにする事には価値や可能性がある…はずですよね。
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