アスペルガーの館の掲示板

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[#4955] 反抗期 Chiquitita 05/3/20(日) 0:05 [未読]
[#4960] Re:反抗期 マキナ 05/3/20(日) 15:48 [未読]
[#4972] Re:反抗期 Chiquitita 05/3/21(月) 8:30 [未読]
[#4963] Re:反抗期 三月うさぎ 05/3/20(日) 18:01 [未読]
[#4966] お医者様の意見 マキナ 05/3/20(日) 23:20 [未読]
[#4973] Re:反抗期 Chiquitita 05/3/21(月) 9:06 [未読]
[#4988] Re:反抗期 went 05/3/22(火) 1:03 [未読]
[#4992] Re:反抗期 Chiquitita 05/3/22(火) 4:37 [未読]
[#4993] Re:反抗期(続き) Chiquitita 05/3/22(火) 4:39 [未読]

[#4955] 反抗期
 Chiquitita メールホームページ  - 05/3/20(日) 0:05 -

引用なし
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   どんなに親に従順に育ってきた子供でも、何れは反抗期を迎えることはあるでしょうが、形では反抗できなくても、最低でも胸の内では親に対する不満の気持ちがくすぶっていたことくらいはあろうかと思います。

私は、生まれてから大学へ通い始めるまでの19年間は、周囲が唖然とするほど親に従順な子供でした。親に噛み付いたのは、いじめが深刻だったときに「オフクロがこんな体に生んでくれたのが悪い」と自分の身体障害に対する恨みをオフクロに訴えたときぐらいでしょうか。それほどまでに親子関係は一見非常に仲睦まじく、まるでChiquititaファミリーに夫婦が2組重婚状態で存在しているような感じでした。

しかしこの状態は、1982年7月2日を境に崩壊しました。そう、変形性股関節症が末期状態を訴えて前途歩行不能になったあの日です。
もちろんそれまでも、親に対して不満はありました。しかし不満を訴えても、身体障害という負い目があったために反抗することはできませんでした。常に見捨てられる不安があり、私の場合は見捨てられるということは即前途歩行不可能を意味していました。
後日オフクロにそのことを話したら、「Chiquititaの思い過ごしだ」とたしなめられましたが、同時に「親父にそんなことを言えばあんた(Chiquitita)はこの家にはいられなくなるよ」とも言われました。
つまりは、親父は私の病院代をも管理していたので、私が曲がりなりにも日常生活が可能な状態でいられるためには、イヤでも従順でいなければなりませんでした★

もちろん、親父にASの疑いがかかるようなことさえなければ、もっと素直に意思の疎通ができたかもしれません。

気が付いたら、親父だけでなくオフクロにも従順でいなければならないような気がして、ひたすら畏縮していた自分がそこにいました。

私がこのサイトの存在を知って出入りするようになった頃は、既に親父が死んでから10年を経過するようになっていましたが、恋愛を「Chiquititaファミリーの恥さらしだ」といって社会人になってからも反対されたというのに、説得するに十分な理由が見出せないまま、人間関係でのPTSDばかりが蓄積され、気が付いたときには中学校の同級生2名を、何れも独身のまま相次いで39歳の若さで失う、といった悲劇に直面しました。

人生に焦りを感じ始めた私にとっては、オフクロの存在が私を縛り付けているだけのものにしか感じられなくなり、私はアイデンティティさえ見失いました。
反抗期に反抗できなかったことの付けが、まさに今回ってきたような気がしました。外見では仲が良くても、今の私にとっては親子関係は修復困難なほどめちゃくちゃです。

今回の茨城での就職にしても、オフクロは最後まで猛反対しました。「就職するのはオレなんだから、いい加減に縛り付けないでくれ」といっても、重症の鬱状態にあるオフクロには通じません。就職した会社の人事担当者まで説得に加わって、ようやくOKをもらったくらいです。
でもこれだけ苦労した甲斐があったのだから、茨城では今のところ期待に応えることが曲がりなりにも可能なのでしょうし、「病は気から」の一言で医療機関への通院も止められていた私にとっては、恋愛の前にPTSDを解決しなければならないほどなので、41歳にしてようやく実質的に恋愛には絶好の機会をもらったようなものでした。

またしても長々と愚痴ってしまいましたが、本当は私が知りたいのは、発達障害があると反抗期がなかったり、あるいはあっても定型発達の人と違う年代に反抗期を迎えたり、あるいは反抗期があっても他の人ほど顕著ではない、といった特徴があるのかどうかであります。

皆さんの体験談も差し支えない程度でお聞きしたいので、宜しくお願いします♪

[#4960] Re:反抗期
 マキナ メール  - 05/3/20(日) 15:48 -

引用なし
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   ▼Chiquititaさん:

こんにちは。マキナです。お元気そうで何よりです。
私は小児自閉症疑惑が高いので、反抗期という反抗期はありません
でした。どちらかというと従順なタイプでした。虐待されたから
もあると、「被虐待児症候群」という病名も、もらっています。

我が家は、私が高校生あたりで、すでに家庭が崩壊していたので
家族が誰かと家で出会うと、ひどい言い争いや暴力に発展して
いきました。私は、それが嫌で、逃げました。以来、親の顔すら
覚えていないくらい親子関係は希薄です。声や家の中の様子は
さすがに自閉者だなぁというくらい、正確に覚えています。
でも、顔を覚えるのが苦手な自閉者としましては、関わりの希薄な
親は「いないと同然」状態であります。

私が親に反抗をしだしたのは、子供を生み、育てた事からの記憶の
フラッシュバックで、色々と思い出したからです。もちろん、親
には通じませんでした。向こうにすると、勝手に行方不明のように
家出した娘が、電話で時々会話をしては、反抗的な言葉ばかりを
言うといった図式でしょう。母親は人格障碍を持っているらしく
現在は、家族以外とはまともに付き合えません。やはり、病んで
いたようです。

でも、二十数年かけて、私は、電話でのみですが、親に反抗して
「あなたが私に何をいつ、どこで、何曜日にした」
(ASならではの記憶の良さからの正確な記憶です)と、せめて
言いたい事は、すべて言いました。子供をみるにつけ、本当いうと
「親は苦労して子育てするんだなぁ」という感情と感謝が、普通なら
うまれるそうですが、私の場合は「何でこんな非力な子供に対して
あんなに残酷な事ができたのだろう?」と、しか思えませんでした。

私のすぐ上の姉はどうやら定型発達のようで、若い頃は
「よく飽きないなぁ〜」と、孤立していた私には理解ができない程
親につきまとい、文句を言い、反抗して大きな喧嘩をしていました。
慣れたので、被害が最小限ですむように、私は安全な場所で避難
して、終わるのを待っていました。

姉は、ある日(体力的にとてもすぐれた人物です)私が家出をした
事が原因で、きれてしまい、親を立ち上がれないくらい素手で
殴り続けたそうです。以来、親は姉の言う事をきくようになって
いるそうですが、親子の不毛な言い争いは続いているそうです。

姉は、親を超えたと実感した事で、性質的にとてもふところの深い
素敵な人物です。反抗期がない人物は、大人になってから問題を
起す場合もあり、精神的にも病気になる場合も多いそうです。
(医師からききました)

基本的には子供は親を超えていかないといけません。余力がある場合は
親の面倒をみたりしてもいいと思います。しかしながら、発達障碍
などを抱えている当事者には、そういう事は困難です。冷たいよう
ですが、「親にも子供にも限界がある」と、いう視点で今後は考えて
いかれた方がいいと思います。老人の事に関しては、行政は不備な
点もあるでしょうけど、あなたが背負うべきは、すでに障碍を持ち
ながらも、自立しているあなたの人生です。

あなたと私は、年代的に近いです。障碍という共通点も持っています。
あなたのPTSDなども理解はできますが、別人格なので、同調はでき
ません。それでも、ここの掲示板に私がROMしていた時代よりも
ずっとあなたの精神状態は好転していっている気がします。
親切に、人に意見を一生懸命返信を送っている、あなたの努力は
みえます。時々、暴走されていますが、以前よりも、あなたに
余力がみえるようになりました。

身体的に障碍がある場合の苦しみは、傍目からはわからない程度の
奇形しかない私にはわからない事です。あなたの経済状態も
もちろん知りません。あなたという人は、掲示板でしか、知りません。

何ごとについても「チャンス」などはありますが、「諦め」は危険
です。恋愛についても、もしかすると、いつどこから出会いが
ふってくるか?わかりません。

私が常にしている事は、ひとつだけです。私は、元々おっとりしている
せいか「にこにこ」して暮らしているのです。無理にではありません。
現在好きな環境で暮らしているので、にこにこが癖になりました。

私は身体的には、ぱっと見た感じでは障碍は判りに難いらしいです。
それでも動きがおかしいので、感の鋭い人は判るようです。
言葉も少し変です。発声言語にわずかに問題があります。美人でも
ないです。顔が歪んでいない程度の、平均的な日本人女性の容姿です。
でも、障碍を持つ子供を育てていますので、普通の男性なら怖がって
避けようとされる立場です。

でも、出会いは不思議なものです。現在、婚約者がいます。
彼も少し変った人です。いわゆる変人っぽいです。とても仲良く
過ごしています。距離感を保たないといけない関係です。私が人と
長くいるとストレスだからです。長年かかって理解してもらいました。

出会いは、突然やってきます。基本は「にこにこ」です。明るい人物は
容姿の善し悪しに関わらず、人に好かれます。そして、出会いは広がり
まる。にこにこしていきましょうね。お互い、大変ですけど。

[#4963] Re:反抗期
 三月うさぎ ホームページ  - 05/3/20(日) 18:01 -

引用なし
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   ▼Chiquititaさん:
反抗期!

実は、私も自分でそれをずっとおかしいと感じていた一人です。
思春期の、反抗期のあるべきときにそれはきませんでした。

20才をまわった頃、急に独立心が強くなりまして、親から干渉されるのが嫌になってきた頃に、反抗期はやってきました。

自分の食べる分を自分で買ってくるとするでしょ。
すると、母親が「なに買ってきたの?」と聞きます。
それだけでもうダメ。
「なんだっていいじゃない!」と、怒り出します。

なんか、自分のことは自分でしたくなりました。
一人暮らしにあこがれだしたのもその頃です。

全てにイライラしてました。
家で、母が茶碗を洗う音にすら脳の中で不快な音に変わり、爆発しそうでした。

でも。
わけのわからない思春期にきた反抗期ではなく、いいかげん社会人になっているいい大人の反抗期だったので、
自分でこれは「私は、きっと反抗期に入ったんだ。ははーん。反抗期っていうのは、独立心の現れなんだ。だから干渉されるのが嫌なんだなあ」
なんて、冷静に自分を分析することもしていました。

なので、後に
「私は、反抗期を20才すぎてから迎えたので、かなり冷静な反抗期だった」と、ことあるごとに人に話していたのを覚えています。

そんな20代の青い話も、遙かひと昔以上になるのよね…。
中身大人になってないのにさ、年だけとるのよね…。(笑)
今は、いずれ来るかもしれない子供達の反抗期が怖いわ…(^^)

[#4966] お医者様の意見
 マキナ メール  - 05/3/20(日) 23:20 -

引用なし
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   ▼三月うさぎさん:
>▼Chiquititaさん:

こんばんは。マキナです。

医師の意見なのですが、発達障碍がある人は「30歳くらいまで
子供でいさせてやりたいなぁ〜」だ、そうです。反抗期が遅い
のも、そういう理由からだと思います。

うちの子供も、もうほとんど成人なのに、時々反抗します。
でも、理由がわかっているので、ぶつかりながら、親子してます。

では。

[#4972] Re:反抗期
 Chiquitita メールホームページ  - 05/3/21(月) 8:30 -

引用なし
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   コメントありがとうございます。

そもそもこのテーマを持ち出したのは、金曜日の夕方、親元から電話がかかってきたときに、茨城でも駐車場事情が解決したから愛車を茨城で運転したい、と言ったとたんにオフクロが急に態度を一変し、「心配の種が増えるから止めろ」と猛反対したからです。
もちろん私は強行します。

▼マキナさん:
>私は小児自閉症疑惑が高いので、反抗期という反抗期はありません
>でした。どちらかというと従順なタイプでした。虐待されたから
>もあると、「被虐待児症候群」という病名も、もらっています。

やはりそうですか。
私は今まで親の性格や環境の要因がはるかに大きいかと思っていました。
ただ私は4歳のときに既に「自閉症」の確定診断が出ていまして、やはりどうしても目立った反抗期がなかったことと無縁ではないと思います。

>我が家は、私が高校生あたりで、すでに家庭が崩壊していたので
>家族が誰かと家で出会うと、ひどい言い争いや暴力に発展して
>いきました。私は、それが嫌で、逃げました。以来、親の顔すら
>覚えていないくらい親子関係は希薄です。声や家の中の様子は
>さすがに自閉者だなぁというくらい、正確に覚えています。
>でも、顔を覚えるのが苦手な自閉者としましては、関わりの希薄な
>親は「いないと同然」状態であります。

今にして思うと、私の場合は、私が物心付いたときには既に崩壊していました。(^^;)理由はもちろん、私の身体障害です。
根室にいたときも、親父は漁の時期になると家を空けることが多く、また病気で長期入院しても、親父は漁の閑散期ですら見舞いに来てくれなかったので、考えてみれば親父の顔を覚えたのは5歳の誕生日を過ぎてからでした。

>私が親に反抗をしだしたのは、子供を生み、育てた事からの記憶の
>フラッシュバックで、色々と思い出したからです。もちろん、親
>には通じませんでした。向こうにすると、勝手に行方不明のように
>家出した娘が、電話で時々会話をしては、反抗的な言葉ばかりを
>言うといった図式でしょう。母親は人格障碍を持っているらしく
>現在は、家族以外とはまともに付き合えません。やはり、病んで
>いたようです。

なるほど。
私の場合は、何気なく言った一言が「何でこんなにヒステリックになるんだ?」と思わせるほど親を怒らせることが多かったのですが、考えてみればみんな親が自分の都合で子供を過保護に育てたのに、それに気付かないのが理由でした。オフクロは過保護に育てたことは反省しているようですが、ただ単に「私が身障だったからやむをえなかった」ぐらいにしか捉えていません。
だから社会人になっても車の運転免許取得にも恋愛にも猛反対したのです。みんな世間体を気にしてのこと。
社会人になってようやく経済的にも自立可能になったので、もう親に反抗しても見捨てられる心配はない、と思った矢先に、親父はガンでこの世を去りました。不治の病とはいえ、タイミングをも選んだようにさえ感じられました。私は12年後の今も親父を恨んでいます。

>言いたい事は、すべて言いました。子供をみるにつけ、本当いうと
>「親は苦労して子育てするんだなぁ」という感情と感謝が、普通なら
>うまれるそうですが、私の場合は「何でこんな非力な子供に対して
>あんなに残酷な事ができたのだろう?」と、しか思えませんでした。

もしかすると、私がこれから結婚して子育ての順番が巡ってきたときに、同じようなフラッシュバックに囚われるかもしれません。ただ私自身は本来非暴力的な性格なので、最悪でもDVだけは起こさないように気をつけたいと思います。

>私のすぐ上の姉はどうやら定型発達のようで、若い頃は
>「よく飽きないなぁ〜」と、孤立していた私には理解ができない程
>親につきまとい、文句を言い、反抗して大きな喧嘩をしていました。
>慣れたので、被害が最小限ですむように、私は安全な場所で避難
>して、終わるのを待っていました。

私の場合は弟が定型発達でして、親父のDVはずいぶんと被害に遭っていたものの、それでも反抗期はありました。
何しろ学生服の詰襟のフックが外れているだけで往復ビンタが飛んでくることもあったほどのDVです。弟はそれをものともせず、高校生のときに友達の家に無断外泊(しかも実家の黒松内)したことさえありました。(このときに知り合ったガールフレンドと、8年後に結婚した)
結果、今ではむしろ弟とオフクロのほうがまともな親子関係を保っています。

>姉は、親を超えたと実感した事で、性質的にとてもふところの深い
>素敵な人物です。反抗期がない人物は、大人になってから問題を
>起す場合もあり、精神的にも病気になる場合も多いそうです。
>(医師からききました)

私の伯父が岩見沢の隣町の栗沢で中学校の教師だったので、発達障害はどうか解りませんが児童心理学に詳しく、彼も「反抗期に大荒れするよりも、反抗期のない子供のほうが将来厄介な問題を引き起こす可能性が高い」と常日頃から言っていました。
彼に言わせると、「Chiquititaに反抗期がなかったのは親が過保護に育てたことが最大の原因」ということで、過保護の裏にはやはり親の都合(世間体や、私が幼児期に病弱だったことで育児ノイローゼが極大に達したことが原因)があったことも否定できないとのことで、私の両親もずいぶんとたしなめられました。
しかしオフクロはもともと鬱持ちで話には納得できても子育てには活かすことができず、また親父はDVが相当にひどかったので、伯父の話にはまったく聞く耳持たず;地球が自分中心に回っている、というよりは「地球を無理やり自分中心に回そうとしている」人間だったので、誰も忠告できませんでした。
親父の内弁慶ぶりは相当なもので、周囲には夫婦仲を大切にする紳士的な男だ、という印象を振りまいていましたが、額面どおり信じていたのは父方の親類だけで、母方の親類は非常に結束が強かったので私の身体障害を常に気に掛けてくれたこともあり、Chiquititaファミリーの家庭崩壊を見抜いていたと思います。

>基本的には子供は親を超えていかないといけません。余力がある場合は
>親の面倒をみたりしてもいいと思います。しかしながら、発達障碍
>などを抱えている当事者には、そういう事は困難です。冷たいよう
>ですが、「親にも子供にも限界がある」と、いう視点で今後は考えて
>いかれた方がいいと思います。老人の事に関しては、行政は不備な
>点もあるでしょうけど、あなたが背負うべきは、すでに障碍を持ち
>ながらも、自立しているあなたの人生です。

そうですね。
その点でも、親元で暮らしていれば今後50代〜60代になっても(下手をすると70代になっても)親の存在に縛られる状況は避けられないので、茨城に進出したのは正解だったと思います。もし今の仕事が失敗に終わっても、次の職探しもここで行います。

>あなたと私は、年代的に近いです。障碍という共通点も持っています。
>あなたのPTSDなども理解はできますが、別人格なので、同調はでき
>ません。それでも、ここの掲示板に私がROMしていた時代よりも
>ずっとあなたの精神状態は好転していっている気がします。
>親切に、人に意見を一生懸命返信を送っている、あなたの努力は
>みえます。時々、暴走されていますが、以前よりも、あなたに
>余力がみえるようになりました。

ありがとうございます。\(^o^)/

>何ごとについても「チャンス」などはありますが、「諦め」は危険
>です。恋愛についても、もしかすると、いつどこから出会いが
>ふってくるか?わかりません。
>
>私が常にしている事は、ひとつだけです。私は、元々おっとりしている
>せいか「にこにこ」して暮らしているのです。無理にではありません。
>現在好きな環境で暮らしているので、にこにこが癖になりました。
>(中略)
>でも、出会いは不思議なものです。現在、婚約者がいます。
>彼も少し変った人です。いわゆる変人っぽいです。とても仲良く
>過ごしています。距離感を保たないといけない関係です。私が人と
>長くいるとストレスだからです。長年かかって理解してもらいました。
>
>出会いは、突然やってきます。基本は「にこにこ」です。明るい人物は
>容姿の善し悪しに関わらず、人に好かれます。そして、出会いは広がり
>まる。にこにこしていきましょうね。お互い、大変ですけど。

やはり、まだ6ヶ月ですが茨城と北海道の違いを十分認識しています。度々コメントしているように、初対面の人にもフレンドリーな土地柄なので、それが私の心理的なゆとり(とはいってもまだまだゆとりがあるとはいえない状態だが、室蘭にいたときよりははるかにゆとりがある)につながっているのでしょう。今の職場も女ひでりであることは変わりませんが、チャンスは拡大していると思います。

[#4973] Re:反抗期
 Chiquitita メールホームページ  - 05/3/21(月) 9:06 -

引用なし
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   コメントありがとうございます。

▼三月うさぎさん:
>反抗期!
>
>実は、私も自分でそれをずっとおかしいと感じていた一人です。
>思春期の、反抗期のあるべきときにそれはきませんでした。
>
>20才をまわった頃、急に独立心が強くなりまして、親から干渉されるのが嫌になってきた頃に、反抗期はやってきました。

私の場合も、本来なら反抗したかったのだけど、身体障害というのが負い目だったために、ちょっとでも反論すると見捨てられるのではないのかという不安感が深刻だったのが原因でしたが、それでも大学進学まではやはり従順でした。弟が定型発達でしかも身体障害がなかったので、当たり前に反抗期を迎えたのと対照的でした。

もっとも、こんな親なら例え定型発達でも怖くて反抗できないでしょう。
●ケース1
Chiquitita>バスが遅れたので、また会社に遅刻した。(;_;)
親父>だから車に乗りたいのか? 貴様のような身障者に車の運転ができると思っているのか?(>_<)
●ケース2
Chiquitita>今度、ロングヘアのかわいらしい女の子が会社の事務部門に入ってきたんだ。(^^)
親父>もうそいつに目をつけてるのか? 身障の分際で恋愛なんてどういうつもりなんだ!?(>_<)

ちなみにケース1・2とも、私が社会人になってからの親子の会話です。

>自分の食べる分を自分で買ってくるとするでしょ。
>すると、母親が「なに買ってきたの?」と聞きます。
>それだけでもうダメ。
>「なんだっていいじゃない!」と、怒り出します。
>
>なんか、自分のことは自分でしたくなりました。
>一人暮らしにあこがれだしたのもその頃です。

どんな人でも、親のイエスマンでいていい理由などありません。

私の場合も、親は「親としての忠告」が100%正しいと思い込んでいるので、始末に負えません。
例えば、車の運転免許にしても、私よりももっと重症の身障者でも車を運転している人だっています。私は末期の変形性股関節症を経験していますが、水泳以外のスポーツが全面ドクターストップであることと、WCで和式便器が使えない以外は日常生活にはあまり不便を感じません。そんな私に車の免許が取れないはずはなく、AT限定という横着はしましたが、2ヶ月弱で運転免許を取得することができました。その後も自分で起こした事故は、4WDを過信した単独のスリップ事故が2件あっただけです。
恋愛にしてもそうです。親父が恋愛するわけでもないし、ましてや家と家が恋愛するわけではない。それが、親には私が身障+発達障害であることに目が眩んで、世間体ばかり気にするようになってしまったのです。
しかし、言葉は悪いですが、私に比べてはるかにちゃらんぽらんな生活をしている連中ですら、当たり前に恋愛をしています。「まじめに努力していればそのうち機会がある」というオフクロの台詞は、信憑性があるとは思えません。
私も一度オフクロに言ったことがあります。「仕事も勉強もまじめにやってるのに、どうして女の子に好かれないんだ? まったく、まじめに働いているのがバカらしくなるぜ。」
さすがにオフクロも「あんた(Chiquitita)はまじめ過ぎるからね…」としか返す言葉がありませんでした。

>わけのわからない思春期にきた反抗期ではなく、いいかげん社会人になっているいい大人の反抗期だったので、
>自分でこれは「私は、きっと反抗期に入ったんだ。ははーん。反抗期っていうのは、独立心の現れなんだ。だから干渉されるのが嫌なんだなあ」
>なんて、冷静に自分を分析することもしていました。
>
>なので、後に
>「私は、反抗期を20才すぎてから迎えたので、かなり冷静な反抗期だった」と、ことあるごとに人に話していたのを覚えています。

私もそう解釈しています。
だから、こうして茨城で暮らしているのも、人間関係の悪いしがらみや、室蘭での就職難に嫌気が差したのが原因ではありますが、このまま室蘭にいてもオフクロが健在である限りがんじがらめになりそうで、恋愛も思うままにならないのでいっそのこと独立したい、という思いがあってのことです。

>そんな20代の青い話も、遙かひと昔以上になるのよね…。
>中身大人になってないのにさ、年だけとるのよね…。(笑)
>今は、いずれ来るかもしれない子供達の反抗期が怖いわ…(^^)

私はそれ以前に、50歳になっても結婚できなかったらどうしようかと今から心配です(;_;)

[#4988] Re:反抗期
 went メール  - 05/3/22(火) 1:03 -

引用なし
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   ▼Chiquititaさん:
>私が知りたいのは、発達障害があると反抗期がなかったり、あるいはあっても定型発達の人と違う年代に反抗期を迎えたり、あるいは反抗期があっても他の人ほど顕著ではない、といった特徴があるのかどうかであります。
>
>皆さんの体験談も差し支えない程度でお聞きしたいので、宜しくお願いします♪

 私の場合、「大学入学してすぐに反抗期が来た」と思っています。
 高校までは、反抗できなかったというよりも、「大人が狡猾すぎて、思惑が読めなかった。更に、他の人も自分と同じようなものだと思っていた。」「中学・高校以上に、小学校時代がひどすぎた」という感じだったのだと思います。

 親は私を、次のような方針で育てました。

 「どうせ、wentには実力がない。だから、出来の良い男と結婚させるしか幸せになる方法がない。出来の良い男が満たすべき最低の条件は、地域のトップ高校を出ていることである。そいつと結婚させるためには、できればその高校に、それが無理ならそいつに相手にされるボーダーの高校に、wentを入れなければいけない。
 どうせwentには、自力ではそれらの高校に受からない。だから、親が監視しなければならない。また、高校入試は、内申書が悪ければ落とされる。wentがパニックをおこすと迷惑だし、内申書にも悪く書かれる。パニック回避のために、wentには積極的な行動をさせてはならない。お客様をやるように仕向けなければならない。塾通いや部活動なんか、論外だ。」
 
 「地域のトップ高校を、420人中380番位の成績で卒業し、高校教師が勧める就職先に腰掛的な就職をして、公務員のような男と見合い結婚をする。これがwentの身の丈にあった幸せだ。その高校でいい成績なんかとらなくていい。否、wentにとれる筈がない。」

 これらの方針を明確に述べることは、高校までずっとなされませんでした。
 「無理しなくてもいいのよ。出来ないのも個性よ。人の邪魔をしなければいいだけのことだから。あなたはその場にいるだけでいいのよ。お客様をやっていれば、あなたは普通の人として認められるのだから。普通にやっていさえすれば、その場にいるだけでそれなりにいいものがもらえて、守ってもらえるよ。」と、大人は私に言い続けたのです。
 これらのお客様適応が通用するのは、長く見積もっても高校卒業までです。大学入学後、他の適応方法を身につける必要が出てきました。しかし、方法について何も思いつきません。20代の間私はずっと、混乱し続けていました。
 このとき、親は、変わり身素早く、次の言葉を浴びせたのです。
 「これまであんたが努力しなかったからよ。あんたの責任よ。自業自得よ。」

 小学校時代の私は、地域のトップ高校に入れる学力がないと親から思われていました。「もうひと頑張りすれば、例のボーダーの高校に入れるという程度」とみなされていました。
 私は、「大人を喜ばせる、情緒的な作文を書く」ことと「見た目が小奇麗なノートを作る」ということが苦手でした。そのことが理由で、学力がない子とみなされました。
 私は、理数系が好きな女の子でした。このことも、親から見たら好ましくないことだったようです。「理数系が好きな女の子なんか、可愛げがない、冷酷な子供だと思われる。『算数や理科よりも国語や社会が好きだ』と、言うようにしなさい。」と、親からさんざん言われていました。
 中学校に上がってからは、勉強に関する事情が変わってきます。ベンチャラ作文や小奇麗なノートよりも、「英語と数学の成績をあげる」という課題のほうが楽でした。また、理数系教科の成績がよいことは、地域のトップ高校合格に近づくこととみなされます。
 中学に入ってから、私の成績はあがりました。地域のトップ高校合格圏内に届くようになりました。こういうわけで、親は主要(?)教科の勉強に対しては、小学校時代ほどうるさく言わなくなりました。
 
 小学校中学年からずっと、私は、いわゆるいじめられっこでした。大学入学までずっと、「いじめの加害者は同じ学校に通っていた人達」と思っていました。
 しかし、大学入学後の反抗期に、「子供によるいじめは、単なる前座だったんだ。そのいじめに便乗して、大人が取った言動(しかもこれらは、教育的指導という大義名分のもとになされた)のほうが、いじめのメインだったんだ。」とわかりました。
 義務教育時代に私は、「私が考えたり感じたりすることには、ロクなものはない。私の考えたり感じたりしたことが他の人にばれたら、バカにされたりひどい目にあうことになるに決まっている。できるだけ、他の人の思考や感情と同調できるようにするようにしなければならない。」と思うようになりました。今思うに、こんな状態だと反抗もへったくれもありません。
 
 大学では、寮生活をやりました。「自分の思った・感じたこと」についてもある程度話さないと他の寮生との会話が続かないので、怖々それらを話すようになりました。いろいろな寮生といろいろな会話をやっていくうちに、「他の寮生は、高校までずっと、私ほど押さえつけられなかったようだ。他の人は、これまでのびのびと暮らしてきたようだ。田舎で冷や飯食ってきたのは、どうやら私だけだ。」とわかりました。
 サークル活動・アルバイト・寮自治会役員・大学での学業といった、いろいろな場面で、「他の人はこれまでのびのびと暮らしていた。そして、いろいろな実力を付けていった。一方私は、押さえつけられて窮屈な思いをして、何もできないまま今まできた。私は、足手まといのお客様でしかない。」ということを見せ付けられました。
 
 こうして、大学入学後に反抗期がきたという感じです。
 この反抗期は、「私のことを認めてくれる友人が、何人かいる」「大学の学生相談室(私にとっては、とてもよい施設だった)が使えた」という幸運に恵まれていました。もしもそれらがなかったらどんなものになっていたか、想像が付きません。

[#4992] Re:反抗期
 Chiquitita メールホームページ  - 05/3/22(火) 4:37 -

引用なし
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   コメントありがとうございます。

▼wentさん:
> 私の場合、「大学入学してすぐに反抗期が来た」と思っています。
> 高校までは、反抗できなかったというよりも、「大人が狡猾すぎて、思惑が読めなかった。更に、他の人も自分と同じようなものだと思っていた。」「中学・高校以上に、小学校時代がひどすぎた」という感じだったのだと思います。

私の場合はいじめがあまりにもひどすぎて、大人の心理を把握している余裕がありませんでした。しかし親も弟もあまり発達障害を理解している様子もなく、室蘭では私が安心できる場所がありませんでした。家庭内では小学校や中学校のような凄まじいいじめがなかった分、親父のDVに怯えながらも、まだ学校よりましだと感じていたくらいでした。

> 親は私を、次のような方針で育てました。
>
> 「どうせ、wentには実力がない。だから、出来の良い男と結婚させるしか幸せになる方法がない。出来の良い男が満たすべき最低の条件は、地域のトップ高校を出ていることである。そいつと結婚させるためには、できればその高校に、それが無理ならそいつに相手にされるボーダーの高校に、wentを入れなければいけない。
> どうせwentには、自力ではそれらの高校に受からない。だから、親が監視しなければならない。また、高校入試は、内申書が悪ければ落とされる。wentがパニックをおこすと迷惑だし、内申書にも悪く書かれる。パニック回避のために、wentには積極的な行動をさせてはならない。お客様をやるように仕向けなければならない。塾通いや部活動なんか、論外だ。」

まるで私の両親と同じように世間体を気にしているとしか思えませんね。私は絶対子育ての順番が巡ってきても、世間体を度外視して、本人のためになるような子育てをします。本人のためなら、親は泥水を飲んでも構いません。
私の両親、特に親父は泥水を飲むのをひどく嫌いました。あたかも親父のDVは、自分に回ってきた泥水を他の3名にそのまま飲ませたようなものでした。

> 「地域のトップ高校を、420人中380番位の成績で卒業し、高校教師が勧める就職先に腰掛的な就職をして、公務員のような男と見合い結婚をする。これがwentの身の丈にあった幸せだ。その高校でいい成績なんかとらなくていい。否、wentにとれる筈がない。」
>
> これらの方針を明確に述べることは、高校までずっとなされませんでした。
> 「無理しなくてもいいのよ。出来ないのも個性よ。人の邪魔をしなければいいだけのことだから。あなたはその場にいるだけでいいのよ。お客様をやっていれば、あなたは普通の人として認められるのだから。普通にやっていさえすれば、その場にいるだけでそれなりにいいものがもらえて、守ってもらえるよ。」と、大人は私に言い続けたのです。

そうなのです。過保護は親の都合によるものなのです★
私も最近になって、ようやくそれに気付きました。
親が世間体を気にするあまり、社会人になっても車の免許取得にも恋愛にも猛反対したのはもちろんですが、私が身障であることを負い目に感じて反論できないでいるうちに、人間関係のPTSDばかりが拡大の一途をたどり、とうとう独身のまま、というより童貞のまま不惑を迎えてしまったのです。

茨城に出てきて、ようやく恋愛も自由になったと感じたとたん、恋愛のための心構えすらまったく解らない、という事実に気が付きました。
私が親に反抗できなかったという事実は、こういった悲劇を生み出してしまったのです。
恋愛のための心構えは、このBBSでも、またADHDのWebサイトでもずいぶんと相談に乗っていただきました。
そうしたら今度は、女性に対するPTSDが非常に深刻であるという第2の壁に突き当たってしまいました。
親が息子のいじめに対する対処の仕方を間違えたつけです。ここでも、親に反抗できなかったことが悲劇を生みました。

そうなんです。42歳になっても恋愛ができないのは、今までは身体障害そのものが理由だと思っていましたが、むしろ身障のために「親に反抗→見捨てられる→前途歩行不能」という図式をひたすら恐れていた自分自身の、親父のDVに対するPTSDが最大の原因だったのです。

> これらのお客様適応が通用するのは、長く見積もっても高校卒業までです。大学入学後、他の適応方法を身につける必要が出てきました。しかし、方法について何も思いつきません。20代の間私はずっと、混乱し続けていました。
> このとき、親は、変わり身素早く、次の言葉を浴びせたのです。
> 「これまであんたが努力しなかったからよ。あんたの責任よ。自業自得よ。」

自分の責任を棚に上げて、無責任極まりないですね。貴方の親も発達障害をまるっきり理解していないとしか思えません。
私も前述した「親に反抗→見捨てられる→前途歩行不能」のことを今仮に親父が健在だとして親父に伝えても、貴方の親御さんと同じ台詞を言うことは間違いないでしょう。

> 私は、「大人を喜ばせる、情緒的な作文を書く」ことと「見た目が小奇麗なノートを作る」ということが苦手でした。そのことが理由で、学力がない子とみなされました。
> 私は、理数系が好きな女の子でした。このことも、親から見たら好ましくないことだったようです。「理数系が好きな女の子なんか、可愛げがない、冷酷な子供だと思われる。『算数や理科よりも国語や社会が好きだ』と、言うようにしなさい。」と、親からさんざん言われていました。
> 中学校に上がってからは、勉強に関する事情が変わってきます。ベンチャラ作文や小奇麗なノートよりも、「英語と数学の成績をあげる」という課題のほうが楽でした。また、理数系教科の成績がよいことは、地域のトップ高校合格に近づくこととみなされます。
> 中学に入ってから、私の成績はあがりました。地域のトップ高校合格圏内に届くようになりました。こういうわけで、親は主要(?)教科の勉強に対しては、小学校時代ほどうるさく言わなくなりました。

私の場合は、どうしても身体障害では肉体労働が無理なので、最低でも大学進学は果たして欲しいからとずいぶん親には発破を掛けられました。しかし世間体のために一人暮らしが許されず、親も最初は地元の室蘭工大に行かせようとしていました。ようやく当時通っていた高校の進路指導担当教師との三者面談で、学校側が「Chiquititaは北大の理系を現役でパスできるだけの実力があるのだから、息子さんには目標は高く持たせなさい。」と説得されてようやく折れたほどです。

私はもちろん北大の理系には現役で合格しましたが、その直後に変形性股関節症が悪化して前途歩行不可能になり、緊急手術を受けました。ところが、発達障害がリハビリを阻害して、リハビリそのものの進捗が非常に悪く、また変形性股関節症が19歳で末期状態に至ったのはそれまでかかっていた医療機関での誤診が原因だといわれたのがショックで、引きこもり状態になりました。合コンでも身体障害を理由に毎回仲間外れにされ、周囲のものがすべて別世界にあるように感じられました。

結局引きこもりのために大学を卒業できずに室蘭に強制送還された私に親父が浴びせた台詞は一言「それ見ろ、だから言ったことじゃない。おとなしく室蘭工大に通っていれば、絶対に卒業できた。」私は反抗どころか、その場で両親を殺したくなるほど怒りました。(しかし実際には何もできなかった)
なぜなら、親父もオフクロも、単なる無気力で学校を休んでいたと思い込んでいたからでした。
しかし、小学校や中学校で全校生徒の99%が加害者になったほどのいじめを経験していながら不登校にならなかった人間が、どうして大学では引きこもりになったのでしょう? 答えはただ一つ。小学校や中学校のいじめでは、先生方が必死になって私に味方してくれたからでした。しかし大学では味方になってくれる人はいませんでした。だから私はおそらく室蘭工大へ通っていても、同じような引きこもり状態になっていたかもしれません。
あるいは、親父のDVがあんなにひどくなければ、毎日顔色を窺う癖も身に付かなかったであろうから、引きこもり状態になったときにもっと早くに親や親類の者にSOSシグナルを送ることだってできただろうし、そうすれば土壇場でも北大は卒業できたかもしれないです。

親の顔色を窺って、親に都合の悪いことを話せないというのは、DVによるPTSDが原因です。

> しかし、大学入学後の反抗期に、「子供によるいじめは、単なる前座だったんだ。そのいじめに便乗して、大人が取った言動(しかもこれらは、教育的指導という大義名分のもとになされた)のほうが、いじめのメインだったんだ。」とわかりました。

私も、考えてみればいじめのPTSDも延べ人数が天文学的な数字になるのでかなりのものですが、親父のDVによるPTSDも、毎日家庭内で長時間顔を合わせる人間が相手なので、いじめのPTSDに匹敵するくらい大きいものだと感じています。オフクロもDVから私をかばってくれたことは多かったものの、発達障害を理解しているとは到底思えず、今にして思えば私がトラウマに感じる言動も非常に多かったので、親父のDVによるPTSDに駄目押しをしていた、というのが正解かもしれません。

> 義務教育時代に私は、「私が考えたり感じたりすることには、ロクなものはない。私の考えたり感じたりしたことが他の人にばれたら、バカにされたりひどい目にあうことになるに決まっている。できるだけ、他の人の思考や感情と同調できるようにするようにしなければならない。」と思うようになりました。今思うに、こんな状態だと反抗もへったくれもありません。

確かにそうでしょうね。
私の場合はどうしても身障というハンデがあったために他人の思考や感情と同調することが困難だったので、一日も早く義務教育や高校が終わってくれないかとひたすら望んでいました。

> サークル活動・アルバイト・寮自治会役員・大学での学業といった、いろいろな場面で、「他の人はこれまでのびのびと暮らしていた。そして、いろいろな実力を付けていった。一方私は、押さえつけられて窮屈な思いをして、何もできないまま今まできた。私は、足手まといのお客様でしかない。」ということを見せ付けられました。
([#4993]に続く)

[#4993] Re:反抗期(続き)
 Chiquitita メールホームページ  - 05/3/22(火) 4:39 -

引用なし
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   [#4992]の続き)

今にして思えば、私も大学でサークル活動に参加しなかったのが、引きこもりを招いた原因の一つだと思います。もちろん、親はサークル活動なんてとんでもない、という意見の持ち主だったので、私が身障のために反抗できないのをいいことに増長していったとは信じたくありませんが、私の学生生活から自由を奪いました。

>▼wentさん:
> こうして、大学入学後に反抗期がきたという感じです。
> この反抗期は、「私のことを認めてくれる友人が、何人かいる」「大学の学生相談室(私にとっては、とてもよい施設だった)が使えた」という幸運に恵まれていました。もしもそれらがなかったらどんなものになっていたか、想像が付きません。

私は、ようやく社会人になって、もう親に見捨てられても自活できる状態になって親に反抗できるようになったのですが、このときには既に親父は胃ガンが末期状態を迎えており、しかもスキルス性という、2次元的にしかガン細胞が増殖しないタイプのものであることから発見が遅れました。そして1993年の夏、記録的な冷夏で室蘭では16日連続雨模様のさなか、享年53歳で死にました。
死んだ当初、肉親の臨終を看取ったということで悲しくてたまりませんでしたが、DVから開放された安堵感があったためか、涙を流して泣くことはできませんでした。(心の中では泣いていた)
そして、時間が経過するにつれて、「私の人生に最大の邪魔者がいなくなった」という思いだけが強まっていくのを感じています。親父にASの疑いがかかるようになって、納得どころか今までの言動がますます許せなくなったこともそのためだと思います。

そして残されたオフクロも、結婚してから43年間鬱状態に悩まされています。誰にも理解してもらえないばかりに、自分自身にも「病は気から」と言い聞かせて頑張ってきた結果、鬱状態が他人の行動をも束縛するほど重症化してしまいました。

室蘭での就職難のさなか、私は全国規模のコンピュータ会社の面接に応募し、ようやく関西の案件で面接をしてもらえるようになったとき、オフクロは「何でコンピュータの仕事にこだわるの? コンピュータ以外にできる仕事なら、室蘭でもいくらでもあるでしょう」と、私の関西での面接に猛反対しました。
私はもうオフクロの過保護が惰性になっているのに耐えられず、ようやく40歳目前にして親に反旗を翻しました。「働きに行くのはオレだぞ。オフクロが働きに行くわけじゃないのに、何でそう室蘭にこだわるんだ? 室蘭にいたって飯が食えるようになる保証があるわけじゃないから、確実に飯が食える求人案件に応募して何が悪い?」
結局、この案件と、翌年に申し込んだ名古屋の案件は何れも不採用になりましたが、名古屋の案件で不採用になった直後に、私を室蘭市内のコンピュータ会社が採用してくれることになりました。
しかし、例の脅迫メールの一件で理不尽な解雇を経験した私は、もう室蘭にはいられないと思い、札幌の案件に応募、札幌では不採用も、茨城のほうが私の業務経歴書を見て面接に応じていただいたおかげで、今こうして茨城にいるわけですが、40歳を過ぎても親に従順なら、おそらく人間的に成長できないで、完璧にダメな人間になっていたでしょう。
大幅に遅れてやってきた反抗期を経験し、親の束縛を振り切って、今ようやく充実した毎日を送っています。

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