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昭和62年4月6日、時折吹く優しい春風に満開の桜が舞う中、僕は自宅から徒歩3分の、地元の市立小学校に入学した。
幼稚園からの同級生は僅かに数えるほどで、殆ど見知らぬ子ばかりだった。それより驚いたのは、たったの2クラスで一学年52名しかいないこと。7クラスあった幼稚園の活気とは雲泥の差で、そのシーンとした環境に僕は戸惑いを隠せなかった…。
担任の先生は母より少し若そうな、笑顔が素敵な女性の大橋先生(仮名)。正直、隣のクラスの若い先生よりはよかったなと、幼心に思ったものだ。
小学校生活の最初の1月半は午前中授業で、登校は普通の集団登校、下校は先生引率の下、集団下校だった。
「小学校」という環境にはそれなりに適応しているという自覚は有った。しかし、落ち着きがなく動き回り、自分の話を聞いてくれない児童に対して、癇癪をおこしてすぐに暴力をふるってしまったり、国語のひらがなの宿題で、先生に指示された「か」という文字を「かかかかか」と5回書かずに、勝手にまだ習っていない「てとなやわ」と書くなど反抗的で、大橋先生にとっては早くも問題児と映っていたようだ。
けれども、誰に対しても惜しみない愛で接してくれる大橋先生を、僕は大好きで(他の児童も好いていたと思う)、“学校のお母さん”と感じるくらいに尊敬していた。
小学生初の夏休み前、母は落ち着きの無い僕を、一つ年上の幼馴染とそのお母さんと一緒に、市民センターの「子ども作法教室」(お茶の席での礼儀作法?)へと連れて行った。周りは女の子ばかりだったが、元々女の子と遊ぶことが多かった僕には抵抗無かった。それに、お茶が飲めてお菓子を食べられるので、凄く楽しそうだと僕は思い、早速この習い事に入会した(残念ながら幼馴染は入らなかった)。
人見知りなど全く無かった僕は、その習い事でも学校でも、友達はどんどん増え続け、楽しい小学校生活を送れるようになっていった(多少喧嘩っ早かったが、仲直りも早かった)。
その作法教室へ通い始めた頃とほぼ同じ頃、僕はアトピー性皮膚炎の治療のため「こども鍼灸」なるものへ、母に連れて行って貰っていた。
然程酷くは無いが全身にアトピーがあり、早いうちに治しておいたほうがいいという親心だったのだろう。全く感謝すべきである。
ところがドッコイ、鍼はあまり痛くなかったのだが、その陽性反応で逆に体中にアトピーが出てきてしまい、自分では痒いし、家族はビックリするしで大騒ぎだった。
2ヵ月ほど通い、鍼の先生から「もう80%治ったよ!」と言われ、家族も半信半疑だったようだが、鍼に通わなくなり、また、夏休みにアトピーに良いといわれる海水浴へ両親と行き、しばらく経った頃、自然とアトピーが沈静化し、思春期前まで殆ど出なくなった。
まさに驚くべき“鍼のパワー”である。
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