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こんばんは。初めて書き込みをいたします
一児の母ですが、知的障害のない自閉症と息子を診断されて早2年。いまだに受け入れられず、見過ごしています。母側の苦しみも聞いていただけたらな、と書き込みをさせてくださいませ。
母親が叱らないから、甘やかすから、そう非難され続けてきた幼児期を超え、息子に厳しく接するようになったと自分が改心したつもりで学校へ息子を上げたのですが、そこで我が家は一気にすさんだ日々を送ることになりました。共同生活の壁、学習の壁、指導されることの拒絶、その息子のストレスの受け口が家族へ向かってきたのです。そして、相談に行ったところで、診断名を聞きました。
今でも忘れられません。アスペルガーという区分けを知ったとき、息子をその区分けで括ってもらったとき、自分がその症状を持つ子どもの母親なんだと烙印を押されて、あろうことか、私は泣きました。悲しくて、ではないです。救われて、ほっとして泣いたんです。「ああ、そうなんだ。私のせいじゃなかったんだ」と。
なのに、いまだに積極的な療法を取り入れたり、学校への要求を頻繁にしたりする前に、まだなんとかなるんじゃないかと息子に期待してしまいます。
母親の私が揺れてしまうんです。障害だからと、こちらが対処法を学ぶことで、日々の生活を緩やかにしようとする反面、その対処や理解は社会にでていったらないのだから、ある程度は息子もルールを身に着けないのじゃないかと。
先日、学校から帰ってきた息子が、「家であまっている空の500mlのペットボトルに、あずきかビーズを入れて持ってきてと先生に言われた」と、言いました。
一見、たいした要求でもない、この先生のお知らせ。我が家では、地獄のバトルの火蓋が切って落とされるんです。
「あまっている」、そんなペットボトル、早々家にないです。人間、掃除しますから。代替案として、マンションのごみ集積場にたまっているペットボトルを持参するよう提案しました。
まあ、却下されます。息子から。気持ちはわからないでもないです。人のゴミですからね。私がとってきて洗う、といっても、ま、無駄でした。「家」=「ゴミ捨て場」じゃない、というのが彼の言い分。ゴミ捨て場に人は住んでない。そうだ、そうだ、その通りだねー。
そこで、学校の行事のためにいらないペットボトルを買うのも疑問譜が浮かぶのですが、争うよりはましかと、ペットボトルを買おうとして、またも、バトル。
「あまっている」=「買って用意する」は違う、と。なので、母の女優魂に火がつき、「ママ、急にお茶が飲みたくなったわ。どうしても、あのお茶が飲みたいの。今から買ってくるわね」と。そこまではよかった。
「あまっていた」=過去形なわけで、「あまっていた」状態にするには、飲んだ直後のペットボトルは当てはまらないらしい。
そして、致命傷だったのが、500mlとの指定。おそらく、そのぐらいの、の指定だったと思います。先生にしてみれば、マラカスに使うのですから、mlはどうでもよいのでしょう。でも、息子には大事な数字なんです。私が飲みたかったお茶はくしくも480ml。
買いなおしを重ね、ビーズも(母のネックレスを解いたら、それもだめ、買ったのもだめ、もらったのもだめ、祖母に偶然訪ねてきてもらいさも発見した風を装ってもらい)解決。すべてがそろうまで学校へはいけないとてこでも動かず、学校を2日休んだ息子です。
端から見ると、「なんでそんなわがまま通させるの?」に映るでしょうね。
医学的にいえば、適応障害なんでしょうね。
本人に言わせると、「規定を(500mlとか)を守らない信じられない母親に僕は責められる理由がわからない」だし、
私から言わせると、「手がかかる子」なんです。時には相手してつぶれてしまいます。へこたれてしまいます。
融通が利かない、これを翻訳すると、アスペルガー?って辞書にのってないかなー。診断してもらうことも大事。それはわかるんです。でも、突きつけられたら、今度は診断に即した対処をしなきゃいけなくて、苦労するんです。対処を突きつけられるんです。
私だって、完璧じゃない。子どもの性格に対処できなくったって、柔軟な思考ができてほしいって、無理な望みを子どもに持つ日があったっていいじゃない。
息子へ
ママっていつもあなたを責めてるのね。でもね、ママも、いつもあなたに責められているのよ。お願い。たまにでいいから、「今日は天気で気持ちいいね」「うん、そうだね」って、会話して一日を過ごしてみたい。そんな夢をまだ捨てきれないママでごめんね。今日はちょっと反省したから、あしたは今日より耳を傾ける母親になれるといいな、って思ってます。
お読みいただいた方には愚痴で失礼。受ける側の愚痴も書いてみました。
理解するのも片側ばかり要求されると、辛いものです。理解しあう、そんな日は来ないかもしれないけれど、大きなお世話かもしれないけれど、親は愛情を持っています。子どもからすれば歪んだ愛情にうつるのかもしれないけど、愛してる、それは変わらないの。愛し方が完璧じゃなく映っても、許してあげてほしい。伝える側もまた、愛情を伝えることに不器用な、障害をもっているのかも。
そう考えると、病名なんて私にも当然つきそうですね。適応障害対不適応障害者、みたいな。そういう、癖を持つ同士の人間ってことで、まあるくおさまらないかなぁ、なぁ。。。
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