アスペルガーの館の掲示板

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[#26652] 相互の理解は可能か? めえめえ 08/6/30(月) 9:39 [未読]
[#26656] Re:相互の理解は可能か? みいぽん 08/6/30(月) 14:56 [未読]
[#26664] Re:相互の理解は可能か? めえめえ 08/7/1(火) 1:31 [未読]
[#26662] Re:相互の理解は可能か? kaze 08/6/30(月) 20:17 [未読]
[#26668] Re:相互の理解は可能か? めえめえ 08/7/1(火) 7:40 [未読]
[#26671] [投稿者削除] [未読]
[#26692] Re:相互の理解は可能か? めえめえ 08/7/2(水) 9:39 [未読]
[#26919] [投稿者削除] [未読]
[#26949] Re:相互の理解は可能か? めえめえ 08/7/11(金) 23:31 [未読]
[#26676] Re:相互の理解は可能か? 08/7/1(火) 16:05 [未読]
[#26704] Re:相互の理解は可能か? めえめえ 08/7/3(木) 8:31 [未読]
[#26709] Re:定量化? めえめえ 08/7/3(木) 14:59 [未読]
[#26733] Re:定量化? 08/7/4(金) 16:46 [未読]
[#26732] Re:相互の理解は可能か? 08/7/4(金) 16:27 [未読]
[#26747] Re:相互の理解は可能か? めえめえ 08/7/5(土) 11:13 [未読]
[#26869] Re:相互の理解は可能か? 08/7/9(水) 10:58 [未読]
[#26708] Re:相互の理解は可能か? ぴっぴ 08/7/3(木) 10:21 [未読]
[#26735] Re:相互の理解は可能か? 08/7/4(金) 17:01 [未読]
[#26994] Re:相互の理解は可能か? ぶじこれきにん 08/7/16(水) 8:27 [未読]
[#27003] Re:相互の理解は可能か? ぶじこれきにん 08/7/16(水) 20:54 [未読]
[#27013] Re:相互の理解は可能か? ぶじこれきにん 08/7/17(木) 7:16 [未読]
[#26984] Re:相互の理解は可能か? 泰子 08/7/15(火) 13:47 [未読]
[#27023] Re:相互の理解は可能か? めえめえ 08/7/17(木) 14:46 [未読]
[#27048] Re:相互の理解は可能か? 泰子 08/7/18(金) 8:23 [未読]
[#26998] Re:相互の理解は可能か? peach peach 08/7/16(水) 14:08 [未読]
[#27000] Re:相互の理解は可能か? ぶじこれきにん 08/7/16(水) 19:00 [未読]
[#27102] Re:相互の理解は可能か? めえめえ 08/7/20(日) 7:32 [未読]
[#27082] Re:相互の理解は可能か? めえめえ 08/7/19(土) 1:42 [未読]

[#26652] 相互の理解は可能か?
 めえめえ  - 08/6/30(月) 9:39 -

引用なし
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   ジャーナリスト品川裕香さんの書いた記事をご紹介します。

> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります。(下記に続く)

アスペルガー症候群の息子が学んだもの
http://sankei.jp.msn.com/life/education/080527/edc0805270753003-n1.htm

場にそぐわないのは、独特の考え方ゆえhttp://sankei.jp.msn.com/life/education/080603/edc0806030821005-n1.htm



子どもの支援をする立場に立ってみると、この記事に出てくるお母さんのようなステレオタイプの”思い込み”や、誤まった”解釈(心理の分析)”を、自分も子どもに対してやっていないか、ときどき不安になります。
教育の戦略を立てる上で、ある程度の推測は必要かもしれませんが、なるべく支援者側の価値判断が入り込まないようにしたい、と気を引き締めています。



自閉者の立場からすると、この記事に出てくるような、場にそぐわない行動や表現をとってしまい、それを”深読み”されて驚いたり、自分自身でも周囲から評価されるように冷血だとか変人と感じて、自己責めに陥った経験は多々あります。
この記事のお母さんのような、情緒的に定型発達と同様のレベルに達してほしいという希望は、計り知れなく遠い道のりのように感じます。
いえ、そもそも定型発達の情緒的な感受性や処理方法に合わせる必要はあるのか、という疑問を抱いてしまいます。
自閉者にも情緒はあります。
ただ、感じ方や表現方法が、非自閉のひとびととは異なっているだけだと思います。



支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
また、どうしたら可能になるのでしょうか。

[#26656] Re:相互の理解は可能か?
 みいぽん  - 08/6/30(月) 14:56 -

引用なし
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   ▼めえめえさん:
めえめえさん、こんにちは。
とても良い記事のご紹介、ありがとうございました。
読んでいて、記事に出てくる少年の言葉に涙が出てくるとともに、自分にもここに出てくるお母さんと同じような経験があってドキリとしました。

あるとき私の実家に帰省している際、子供が大怪我をしてしまいました。
そのとき私はたまたま子供のそばにおらず、私の母と子供で農作業をしていたのですが、母のすぐそばで子供の不注意から大怪我をしてしまったのです。
病院へすぐに行き大事にはならずにすんだのですが、私と子供ふたりで診察を終えて診察室から出てくるとき子供が何回も「おばあちゃんには、(怪我がひどいこと)言わないで」と言いました。
私は、そのときひどいことに、子供が母に心配をかけまいとしてそう言うのはありえないだろう(怪我でパニくってるときにそこまで思えないだろう)、単純に「思い出すのがイヤだから、怪我の話はしないで」と言ったのかななんて思っていたんです。
ですが、後で子供本人に確認したところ、「心配かけたくないから、言わないで」とはっきり返事をしました。
あさはかな自分の思い込みに猛省した覚えがあります。それが、今回の記事にダブって見えました。

>教育の戦略を立てる上で、ある程度の推測は必要かもしれませんが、なるべく支援者側の価値判断が入り込まないようにしたい、と気を引き締めています。

必ずどんなことでも、本人に気持ちや考えを確認することが大事なんでしょうね。
つい、自閉圏の子だから…こうではないかと私など考えてしまいがちです。
自閉圏である前に 普通の子なのに。そこが落とし穴だな、と最近すごく実感しています。
正直なところ、診断名をもらって以来、メリットはいっぱいありましたが、デメリットもあるのだなと気をつけています。
先入観とまではいかないにしろ、必要以上に「ステレオタイプなものの見方」をしがちになりやすくなってしまいましたね。
なんとかしたいです。


>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>また、どうしたら可能になるのでしょうか。

相互の理解…理解と言う概念が何を指すのか、その到達点によって可能かどうかがまた違ってくるかもしれないと、私は思います。
主人とよく話すのですが、お互い相手の独特の感覚や感情を実感・体感として“わかる”というのは、絶対に無理だよな、と言い合っています。
非定型の人が定型の人の感性や考え方・認識の仕方と全く同じになることには無理があるし、定型・非定型が逆もまたしかり。
ただし、お互いが理性の部分で歩み寄ることはできるとも思っています。

難しいですね。
理解したつもり、になっているその自分に、気がつかない。それも、お互いに。
それが一番、怖い壁かもしれませんね。
この思い込みの部分の危険は、定型・非定型に関係ない罠のように思います。

[#26662] Re:相互の理解は可能か?
 kaze  - 08/6/30(月) 20:17 -

引用なし
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   はじめまして。kazeと申します。
 未診断ですが、発達障害の当事者です。

 私は息子もアスペなので、色々な本を読んできましたし、これからも読んでいくと思いますし、講演会などもいくつも聞いてきましたが、
自分に照らし合わせても、息子に照らし合わせても、
『人の感情を読み取れない』『人の気持ちが分からない』等の表現に関しては、少し異質なものを感じてきました。

 私は、子供のころ『うれし泣き』とか『別れの涙』というものが、全く理解できませんでした。
 泣くのは『悲しい時だけ』だと思ってきましたし、『別れの涙』にしても、いつか会えるかもしれないじゃないという思いがあって、何故泣かなければいけないのか、全くといっていいほど理解できませんでした。
 そうした私を母親は、『お前には人の心が無い!』と言ってきましたが、私の中では、喜怒哀楽は確実にありました。

 しかし、その場面で適切な喜怒哀楽を出せなかったのは、『インプットされた情報』というものが、ブレーキをかけていたからだと今は思っています。
 ですから、今の私は昔より遥かに、感情や場面によっては泣く事もありますし、その意味も理解しています。
 そうやって考えると、『思い込み』や『インプリント』された情報によって、場面で感情が発露できない、
または、その情報によって、融通が聞かない特性を持っていると考えます。

 特に、人の死による悲しみなどは、その人それぞれの主観が物を言うと思いますし、ましてや、泣かなければ悲しくないという事でもないと私は思います。

 人の心は、誰にも覗くことができません。
 だからこそ、表層に現れた行為で判断されるのでしょうが、そうした判断はとても残念だと私は思います。
 そういう人もいるという事を、念頭に置くだけでも、理解できずとも『受容』していく事は可能ではないでしょうか?

また、障害に渡ってそういう人もいれば、そうでない人もいるという事を、強調された著書等も必要ではないかと思う事もあります。

[#26664] Re:相互の理解は可能か?
 めえめえ  - 08/7/1(火) 1:31 -

引用なし
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   ▼みいぽんさん:
貴重な体験を聞かせていただいてありがとうございます。

そう、よく言われるように、わかってるようでわかってない、
できそうだけどできてない、という一面もある一方で、
わかってないようでいて実はわかってる、できてないようでいて実は
(彼なりの方法で)できている、ということもあるのね、と、
ときどき驚かされます。
こちらの想像力が試されているような気もします(汗

>必ずどんなことでも、本人に気持ちや考えを確認することが大事なんでしょうね。
>つい、自閉圏の子だから…こうではないかと私など考えてしまいがちです。
>自閉圏である前に 普通の子なのに。そこが落とし穴だな、と最近すごく実感しています。

本当に、自閉圏の子だからという目で見てしまうと、その子の個性や
成長ぶりを見落としてしまいがちですよね。

ただうちの子は気持ちや考えを言葉で表現すること、伝えること自体が
苦手なので、どうしてもあれこれ深読みしてしまいがちです。
通級の先生ともよく苦笑するのですが、こちらから見れば明らかに
困っている、わからない(課題が、会話のキャッチボールがでてきない等)
のに、質問すると「困ってない」「わかってる」と言いますもんね…orz
かと言って、こっちから「困ってるじゃない」「わかってないじゃない」
と指摘してしまうと自己評価も下がってしまうだろうし、難しいです…。

>主人とよく話すのですが、お互い相手の独特の感覚や感情を実感・体感として“わかる”というのは、絶対に無理だよな、と言い合っています。
>非定型の人が定型の人の感性や考え方・認識の仕方と全く同じになることには無理があるし、定型・非定型が逆もまたしかり。
>ただし、お互いが理性の部分で歩み寄ることはできるとも思っています。
>
>難しいですね。
>理解したつもり、になっているその自分に、気がつかない。それも、お互いに。
>それが一番、怖い壁かもしれませんね。
>この思い込みの部分の危険は、定型・非定型に関係ない罠のように思います。

なるほどー。お互い、理解したつもり、の罠に陥らないよう、
丁寧に話し合い、思いやりや愛情を、言葉や相手に伝わる表現方法で
示しあう、ということでしょうか。
うーん、相手にちゃんと伝わったという手応えが見えない場合、ちょっと
虚しくなっちゃうかもしれません。
意識して手応えを確認しないといけませんね…。

[#26668] Re:相互の理解は可能か?
 めえめえ  - 08/7/1(火) 7:40 -

引用なし
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   ▼kazeさん:
コメントありがとうございます〜。

>自分に照らし合わせても、息子に照らし合わせても、
>『人の感情を読み取れない』『人の気持ちが分からない』等の表現に関しては、少し異質なものを感じてきました。

そうなんですよー!
こういう言われ方しちゃうと、自己チューの人非人か、それこそ宇宙人
みたい、とガックリきますよね。

> そうした私を母親は、『お前には人の心が無い!』と言ってきましたが、私の中では、喜怒哀楽は確実にありました。

つらい言葉ですね。
実はワタシ自身は「わからない」ことを決して表には出さなかったので、
こういう言われ方をしたことはないですが、変人扱いはされたし、
なにより自分で自分が宇宙人のような違和感がずーっとありました。

> しかし、その場面で適切な喜怒哀楽を出せなかったのは、『インプットされた情報』というものが、ブレーキをかけていたからだと今は思っています。

まさにワタシも同じだったと思います。
パターンで考えるので、誤認知や認知の偏りがあっても自己修正が
ききにくい部分がありますね。

実家の家族が亡くなったときも、「遺族側がメソメソしてたら来てくれた
かたに失礼だ、しっかりしてるところを見せて安心してもらわなくては」
と気を張って、十分に死を悼むことができなかったので、長いこと
後悔が残りました。今思えば、なんかアホな思い込みだったなぁ、
明らかに過適応だったなぁ、と苦笑してしまいます。

> 人の心は、誰にも覗くことができません。
> だからこそ、表層に現れた行為で判断されるのでしょうが、そうした判断はとても残念だと私は思います。
> そういう人もいるという事を、念頭に置くだけでも、理解できずとも『受容』していく事は可能ではないでしょうか?

表層に現れた行為をそのまま「そういう人もいる」と受け取ってくれれば
お互いわかりやすくていいと思うのですけどねえ…
なんでだろう、レッテルを貼って自分達とは違う存在であるかのように
みなそうとするパターンは、残念ですね。

> また、障害に渡ってそういう人もいれば、そうでない人もいるという事を、強調された著書等も必要ではないかと思う事もあります。

本当におっしゃる通りです。
当事者の自伝とか読むと、受発信が不得意なことが原因で、誤解されたり、
孤立したりしてるかた、多いですよね。
読んでいて「そうそう…あるある…」と切なくなることがあります。

[#26671] [投稿者削除]
   - -

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   この書き込みは投稿者によって削除されました。(10/7/28(水) 18:03)

[#26676] Re:相互の理解は可能か?
   - 08/7/1(火) 16:05 -

引用なし
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   めえめえさん、こんにちは。笛です。
いつぞやは某ツリーで返事を書き込まなければと窮していたところ、めえめえさんがコメントをつけてくださり、
そのまま発展してしまった後管理人さんから書込禁止のお達しがあったため、何も書かないうちに終わってしまいました。
あの時のめえめえさんのコメントには色々と考えるところがあり、今度あらためてお話ができたらいいなと思っています。

▼めえめえさん:
>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>また、どうしたら可能になるのでしょうか。

療育を受けたこともなく、専門的な知識もない、一当事者が今まで主治医と話したり、他の当事者の意見を聞いた中で考えた個人的な意見を書きます。
立場を分けずに、お互いが当事者と考えるのはどうでしょう。

たとえば今の世の中の考え方でいくと、もし自閉症10人の中に定型発達が1人という状況があって、その状況で長期間生活をしなければならないとしたら、この場合支援が必要なのは定型発達の人でしょう。
これは「より少数派」は、「より多数派」に合わせなければ生きにくい、という現実があるからと私は考えます。

私は「多数派が支援者」という固定観念が一番の障害になっていると考えます。
多数か少数かではなく、「違いがあるから」という視点で見れば、誰も「支援者」でも「支援を受ける側」でもありません。

「違いがある」から発想を出発させれば、自閉症者は定型発達とつきあったり、利害関係が生じる場合処理をスムーズに行う必要性などから、定型発達について学ぶ必要があります。
逆に、定型発達者は上記の理由で、自閉症者について学ぶ必要が生じます。
両者は「違う」というだけで、優劣も強弱も考えない。どちらも互いに「おしえる」「おそわる」(又は互いに関わりを持たない自由もある)対等な人間です。
そんな当たり前の事を受け入れられる意識を持ち、精神的土台が拡大すれば、それで良いのではないでしょうか。

ところが上記はほとんどキレイ事です。
現状は、定型発達の人々はあくまでも「自閉症者を理解」し、定型発達の世界で生きやすいように「支援」する立場です。
土俵はあくまでも「定型発達」にあるところがネックです。

>ジャーナリスト品川裕香さんの書いた記事をご紹介します。
>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります。(下記に続く)

「理解」という言葉は非常に高尚で最善のように考えられがちですが、この言葉がどれほど成就しているのか、定量的に判断出来るテストのようなものでもない限りわかりません。
ちなみに、私は社会人として毎日定型発達の人々の中でサラリーマンをしていますが、それは私が定型発達を理解できているからではありません。
一体脳機能が「定型」に発達しているとは具体的にどういうことなのか、自分とはどのように違う機能をするのか、
私には全くわかりません。想像すら出来ません。
ですから逆に、定型発達の人が自閉症の実際をどの程度理解できるのかも全くわかりません。
ちなみに今の職場では、私が自閉症であることで特別な考慮・配慮はされていません。一度説明を試みましたが「幼稚園児じゃあるまいし」の一言で、私は自分の意思ですべての期待は放棄しました。
パニック防止のための抗てんかん薬と3種の抗鬱剤を常用し、自分でやり方を変えられる処は変え、あとはなんとか職場に合わせています。それでもどうしても会社を休んでしまう日があります。

生まれつき視力がない人のことを例にとると、理解の困難さ(あるいは不可能さ)がわかりやすいかもしれません。
目が見えないとはどういうことなのか。目を閉じてちょっと周辺を動き回ってみればその不自由さは想像できるでしょう。
でもそれは、人生の途中で事故や病気で視力を失った人の心理です。
生まれつき目が見えないとはどういうことか。私には全く想像が出来ません。
(もっとも、想像できないのは私が自閉症だからであって、定型発達の人には想像出来るのでしょうか。
だとしたらますます、定型発達は私の理解を超えていることを確認するだけです。)
そして生まれつき目が見えない人の心理が理解できないことを、私は悲しいと感じています。

[#26692] Re:相互の理解は可能か?
 めえめえ  - 08/7/2(水) 9:39 -

引用なし
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   ▼ウォルフルさん:
>特に現代においては何も人との相互理解の方法に悩んでいるのは発達障害者だけではないんですね。
>だから、どうすれば相互理解に至れるのかを知る為にこうしたマニュアル本が積極的に消費されていくのだと思います。

なるほど、定型発達のひとでもコミュニケーションに長けてるとは限らず、
悩んでは既成のマニュアルを参考にしている、ということですね。
PTAのお母さんたちとかを身近に見てると、実に易々と生き生きと
コミュニケートしているようで、すごいなぁと感心してしまうのですが、
まあ確かに、世の中そういうひとばかりではありませんよね。

>人間の情緒的な感受性のあり方や受け取り方、処理方法が個々で違っているのは当たり前のことなのですから、結局相互理解とはそうしたあたり前の前提にもう一度かちかえった上で行われなければならないと僕も思います。しかし、どうやら現代人はそこから人間関係を築いたり、そこから他者との相互理解を深めてゆくのが鼻から面倒臭らしく、なるべくその面倒臭さを少しでも省く為にマニュアル的なものに頼るという横着心を働くのだと思います。だからまあ、こうした現代的背景の問題のひとつに、発達障害に関して小冊子や発達障害に書かれた本を形式的道りにでも理解して、それですまして仕舞うといった問題があるのでしょう。

横着というより、自信のなさ、ではないかとワタシは思っていたのです。
たとえば集団による外遊び(缶蹴りや鬼ごっこやつなぎ鬼など)を
放課後、自発的に遊んでいる子ども達を、最近あまり見かけません。
また、学校でもワタシの時代には毎週行なわれていた学級会での議論など
今はあまりないですし、ゲームのルールを共有したり、話し合いのルールを
学んだりという体験が、極端に少なくなっているのかな?と。
ある、教育畑の友人は、物事を深く考えない傾向は「文科省の教育の
素晴らしい(<皮肉)成果」と自嘲していますが。
おそらく、今の子どもたちの親の年代も、あまり物事を深く追求したり、
深い友情を育んだりする体験が足りないような…。どうでしょうか?

[#26704] Re:相互の理解は可能か?
 めえめえ  - 08/7/3(木) 8:31 -

引用なし
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   ▼笛さん:
こちらこそ先日はパニクってしまって失礼しました。
その後も笛さんのコメントは全部拝読しております〜。

>あの時のめえめえさんのコメントには色々と考えるところがあり、今度あらためてお話ができたらいいなと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

>両者は「違う」というだけで、優劣も強弱も考えない。どちらも互いに「おしえる」「おそわる」(又は互いに関わりを持たない自由もある)対等な人間です。
>そんな当たり前の事を受け入れられる意識を持ち、精神的土台が拡大すれば、それで良いのではないでしょうか。

おっしゃる通り、立場を分けずに、人格と人格、個性と個性の関わりと
見られれば、元々ひとりひとりは「違う」ものですから、
コミュニケーションの甲斐も、ニーズもあるでしょうね。

>ところが上記はほとんどキレイ事です。
>現状は、定型発達の人々はあくまでも「自閉症者を理解」し、定型発達の世界で生きやすいように「支援」する立場です。
>土俵はあくまでも「定型発達」にあるところがネックです。

そうなんですよね…

>一体脳機能が「定型」に発達しているとは具体的にどういうことなのか、自分とはどのように違う機能をするのか、
>私には全くわかりません。想像すら出来ません。
>ですから逆に、定型発達の人が自閉症の実際をどの程度理解できるのかも全くわかりません。

おっしゃるように、「理解」というのは定量的に計測できるものでは
ないですし、「理解」≠「受容」でもないようですよね。

どうも、ワタシの知っている親たちで上手に子どもに接しているかたを
見ると、「理解」のターゲットが「行動」にある気がします。

>ちなみに今の職場では、私が自閉症であることで特別な考慮・配慮はされていません。一度説明を試みましたが「幼稚園児じゃあるまいし」の一言で、私は自分の意思ですべての期待は放棄しました。
>パニック防止のための抗てんかん薬と3種の抗鬱剤を常用し、自分でやり方を変えられる処は変え、あとはなんとか職場に合わせています。それでもどうしても会社を休んでしまう日があります。

うーん、ここらへんは性差や職場の方針の差も大きいのかしら・・・
かつて仕事してたとき、ワタシは女性で下っ端(契約社員など)という
こともあって裁量権の範囲が狭かったので、たとえば優先順位が
つけられないとか、この文書のフォントはこれでいいかといった細かな
ことまで確認とってたけど、あまりうるさがられた記憶がありません。
今は毎日仕事をするストレスはありませんが、人と会う約束の日などは
やはりワタシもお薬が手放せませんね。

笛さんが別スレッドのコメントでもおっしゃってたように、
定型の(多数派の)ひとびとには、たいてい、自閉圏の(少数派の)ひと
びとを「理解」したり「受容」したりする必要がない、というのは
実際その通りではないか?と思います。

ではなぜワタシには少数だけど友人がいるのか…?
しょっちゅう会いたいとは思わないけど、たまにメールしたり、
年に何回か会いたいと思うのはなぜなのか…?
もしかして、友人たちがワタシをことさらに「理解」しようと
したりしないからなのか?
なんて、天邪鬼なこと、考えてしまったりします。

笛さんは、以前、知りたいときいてきたひとには真摯に説明する、
とおっしゃってたような気がしますが、きいてこられたときは
どんな気持ちがしますか?また、どう説明なさいますか?

[#26708] Re:相互の理解は可能か?
 ぴっぴ  - 08/7/3(木) 10:21 -

引用なし
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   現在就労されている笛さんの言葉は、私にとって身につまされる思いがしました。書いてあることのほとんどが私の書きたかったことでもあり、たいへん驚いています。

定型発達者が非定型(自閉症者)を理解しない現状については、やはり社会の中でどちらが大多数を形成しているか、という問題に顕著に顕れるでしょうね。社会の中で大多数(マジョリティ)を形成しているのが定型発達者であるかぎり、なかなかわれわれ発達障害者の現状は理解できないように思います。

ここで、一冊の本を紹介させていただきたいと思います。
現在はあまり良著を書いていないのですが、中島義道の『うるさい日本の私』という本です。
この著者は聴覚過敏で、迷惑放送や視覚に見られる障害物に対して抗議を行っている大学の先生です。
ASの世界では、発達障害者の聴覚過敏を的確に表現している方としてよく知られているそうです。

中島先生は騒音論のほか、差別論の専門家でもあり、上に述べたマジョリティやマイノリティの問題についても言及しておられます。
(その多くの著書は眉唾ですが)一度手にとってみられたらいかがでしょうか。

>▼めえめえさん:
>>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>>また、どうしたら可能になるのでしょうか。
>
>療育を受けたこともなく、専門的な知識もない、一当事者が今まで主治医と話したり、他の当事者の意見を聞いた中で考えた個人的な意見を書きます。
>立場を分けずに、お互いが当事者と考えるのはどうでしょう。
>
>たとえば今の世の中の考え方でいくと、もし自閉症10人の中に定型発達が1人という状況があって、その状況で長期間生活をしなければならないとしたら、この場合支援が必要なのは定型発達の人でしょう。
>これは「より少数派」は、「より多数派」に合わせなければ生きにくい、という現実があるからと私は考えます。
>
>私は「多数派が支援者」という固定観念が一番の障害になっていると考えます。
>多数か少数かではなく、「違いがあるから」という視点で見れば、誰も「支援者」でも「支援を受ける側」でもありません。
>
>「違いがある」から発想を出発させれば、自閉症者は定型発達とつきあったり、利害関係が生じる場合処理をスムーズに行う必要性などから、定型発達について学ぶ必要があります。
>逆に、定型発達者は上記の理由で、自閉症者について学ぶ必要が生じます。
>両者は「違う」というだけで、優劣も強弱も考えない。どちらも互いに「おしえる」「おそわる」(又は互いに関わりを持たない自由もある)対等な人間です。
>そんな当たり前の事を受け入れられる意識を持ち、精神的土台が拡大すれば、それで良いのではないでしょうか。
>
>ところが上記はほとんどキレイ事です。
>現状は、定型発達の人々はあくまでも「自閉症者を理解」し、定型発達の世界で生きやすいように「支援」する立場です。
>土俵はあくまでも「定型発達」にあるところがネックです。
>
>>ジャーナリスト品川裕香さんの書いた記事をご紹介します。
>>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります。(下記に続く)
>
>「理解」という言葉は非常に高尚で最善のように考えられがちですが、この言葉がどれほど成就しているのか、定量的に判断出来るテストのようなものでもない限りわかりません。
>ちなみに、私は社会人として毎日定型発達の人々の中でサラリーマンをしていますが、それは私が定型発達を理解できているからではありません。
>一体脳機能が「定型」に発達しているとは具体的にどういうことなのか、自分とはどのように違う機能をするのか、
>私には全くわかりません。想像すら出来ません。
>ですから逆に、定型発達の人が自閉症の実際をどの程度理解できるのかも全くわかりません。
>ちなみに今の職場では、私が自閉症であることで特別な考慮・配慮はされていません。一度説明を試みましたが「幼稚園児じゃあるまいし」の一言で、私は自分の意思ですべての期待は放棄しました。
>パニック防止のための抗てんかん薬と3種の抗鬱剤を常用し、自分でやり方を変えられる処は変え、あとはなんとか職場に合わせています。それでもどうしても会社を休んでしまう日があります。

私は功鬱剤や睡眠薬を処方されていますが、社会性は回復しませんでした。
たいへんとは思いますが、ご健勝な日々をお過ごしください。

[#26709] Re:定量化?
 めえめえ  - 08/7/3(木) 14:59 -

引用なし
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   ▼めえめえさん:
>▼笛さん:

すみません自己レスです。

ふと思ったのですが、うちの上の子は喘息持ちなのですが、
アスペルガー症候群と、喘息などアレルギー性疾患って、
「理解」されにくさがちょっと似てるかも?

小児喘息も、かつては”母原病”とか誤解されて、発作が起こったら
「甘えるな」と背中をどやしたりしてたそうですね(涙
ほんの十数年前、子どもが小さかった頃でもまだこの”母原病”信奉者
がいて、「お母さんの接し方が…」とかご親切にアドバイスして
くださったりして、右往左往したものでした。
「喘息で死んだ人はいないでしょ?」などという、とんでもない誤解を
言われたこともありました。
大発作が命に関わるのは自明で、本人や家族にしてみれば恐怖なのに…。

でもその後、医者や保健士さんから正しい知識を得ることができて、
アレルゲン特定検査の数値なども客観的に定量的に示すことができて、
”母原病”信奉者や、知らないがゆえに(善意にしても)鈍感な人々に
対しても毅然と「理解」と配慮を求めることができるようになりました。

アスペルガー症候群の”一般像”については、「理解」を求めることは
あまり意味がない?し、ひとりひとり特性や個性の出方が違うので
下手に一般化されても困ります。
でも、アレルギー検査みたいに、定量的に数値化できるような側面が
あったら、説明しやすいかもしれませんね。
また、具体的な”困っている点”、あるいは上記の”母原病”のような
誤解がある点については、丁寧に説明する必要があるのかもしれませんね。

[#26732] Re:相互の理解は可能か?
   - 08/7/4(金) 16:27 -

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   ▼めえめえさん:
>うーん、ここらへんは性差や職場の方針の差も大きいのかしら・・・
>かつて仕事してたとき、ワタシは女性で下っ端(契約社員など)という
>こともあって裁量権の範囲が狭かったので、たとえば優先順位が
>つけられないとか、この文書のフォントはこれでいいかといった細かな
>ことまで確認とってたけど、あまりうるさがられた記憶がありません。

今の会社は今年で満5年になりますが、まだ私が一番下っ端です。
外資ですが個人商店のような少人数の職場で、純日本人根性のマネジメントがいます。
私の外見は、よく言えば「落ち着いている」「冷静」、悪く言えば「無表情」「冷たい」らしく、困っていても困っているように見えないらしいです。
それで本人は困ったり、焦ったり、動けなくなったりしていても、そうは見えない。
質問をすると冗談か甘えてると思われるのか、馬鹿にされているととれるのか、私にはそのつもりがないので不明ですが、
何度も指示を仰いだり質問したりすると「幼稚園児じゃあるまいし」になります。
うまく要領を得た質問が出来ない=どう質問すれば自分の知りたい答が返ってくるのかわからない、という部分が幼稚園児並と言われる所以かもしれません。
見た目の落ち着いた様子とも合っていないこともあり。

>ではなぜワタシには少数だけど友人がいるのか…?
>しょっちゅう会いたいとは思わないけど、たまにメールしたり、
>年に何回か会いたいと思うのはなぜなのか…?
>もしかして、友人たちがワタシをことさらに「理解」しようと
>したりしないからなのか?

理解ではなく自然に受容しているからではないでしょうか。
私にも同様な友人が少数います。付き合い方もめえめえさんと同じようなものです。
そういう数少ない友人に、アスペルガー症候群と診断されたと話した時も、あまり驚いていませんでしたね。
もともと変人だとは思っていたようで、それでも付き合いが続いていたわけでして。

>なんて、天邪鬼なこと、考えてしまったりします。

いえいえ。そういうのは天邪鬼とは言わないのではありませんか?
私は幼少の頃から「わがまま」と言われたり、「素直になりなさい」と言われたりしたことで、双方の意味が未だにわかりません。
今思い返しても、自分がわがままだったとは思えないし、素直に言ったつもりがわがままと言われ、甚だ混乱します。

>笛さんは、以前、知りたいときいてきたひとには真摯に説明する、
>とおっしゃってたような気がしますが、きいてこられたときは
>どんな気持ちがしますか?また、どう説明なさいますか?

はい。おぼえていて頂いて光栄です。
が、ひとつ確認させて下さい。
めえめえさんがお知りになりたいのは、「誰かがアスペルガー症候群とはどういうものか」と真剣に笛に対して聞いてきた場合、
笛はどのような気持ちがするか?
また、どのように説明するか?
ということでよろしいでしょうか。

[#26733] Re:定量化?
   - 08/7/4(金) 16:46 -

引用なし
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   ▼めえめえさん:
>アスペルガー症候群の”一般像”については、「理解」を求めることは
>あまり意味がない?し、ひとりひとり特性や個性の出方が違うので
>下手に一般化されても困ります。

同感です。

>でも、アレルギー検査みたいに、定量的に数値化できるような側面が
>あったら、説明しやすいかもしれませんね。
>また、具体的な”困っている点”、あるいは上記の”母原病”のような
>誤解がある点については、丁寧に説明する必要があるのかもしれませんね。

自閉症には身体的な特異性(場合により障害となるような)を伴っている場合が多いように考えます。
私自身そうです。
理解が必要だとしたら、むしろ身体的な特異性の方が定型発達の方々にはわかりやすいかもしれないとは常日頃考えています。

[#26735] Re:相互の理解は可能か?
   - 08/7/4(金) 17:01 -

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   はじめまして。アスペルガー症候群当事者で社会人の笛と申します。

▼ぴっぴさん:
>ここで、一冊の本を紹介させていただきたいと思います。
>現在はあまり良著を書いていないのですが、中島義道の『うるさい日本の私』という本です。
>この著者は聴覚過敏で、迷惑放送や視覚に見られる障害物に対して抗議を行っている大学の先生です。
>ASの世界では、発達障害者の聴覚過敏を的確に表現している方としてよく知られているそうです。
>
>中島先生は騒音論のほか、差別論の専門家でもあり、上に述べたマジョリティやマイノリティの問題についても言及しておられます。
>(その多くの著書は眉唾ですが)一度手にとってみられたらいかがでしょうか。

書籍のご紹介をありがとうございます。読んでみます。

>私は功鬱剤や睡眠薬を処方されていますが、社会性は回復しませんでした。

あははは。薬では無理でしょう。「回復する」という表現自体もおかしいのでは?
もともと私たち自閉症には「ないらしい」ものですから、「追加する」とか「付加する」が適当に思います。
(一当事者の考えとしてお受け止め下さい。諸論あるようですし。)
おそらく社会性には相互の心の働きが必要不可欠だと考えますが、私に出来るのは定型発達の下手な且つ一方的な模倣に過ぎません。
これも、自分の中で生じた疑問を外に出さないようにしなければ、うっかり模倣が失敗してしまいます。
又、ためこんでいると具合が悪くなり、更に薬が増える…という悪循環に陥らないよう、職場を出たらなるべく一人で過ごせるようにしています。
行動障害だけでしたら薬で何とかなるように思いますが。

>たいへんとは思いますが、ご健勝な日々をお過ごしください。

ありがとうございます。
私もぴっぴさんの絵を楽しみにお待ちしています。

[#26747] Re:相互の理解は可能か?
 めえめえ  - 08/7/5(土) 11:13 -

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   ▼笛さん:
>うまく要領を得た質問が出来ない=どう質問すれば自分の知りたい答が返ってくるのかわからない、という部分が幼稚園児並と言われる所以かもしれません。
>見た目の落ち着いた様子とも合っていないこともあり。

あー、どう質問したらいいかわからない、というのは確かにありますね。
あと、質問するタイミングもかなり苦労しました。
業務のフローや作業項目リストなど、文書を媒介に質問してましたが。

>>ではなぜワタシには少数だけど友人がいるのか…?
>>しょっちゅう会いたいとは思わないけど、たまにメールしたり、
>>年に何回か会いたいと思うのはなぜなのか…?
>>もしかして、友人たちがワタシをことさらに「理解」しようと
>>したりしないからなのか?
>
>理解ではなく自然に受容しているからではないでしょうか。
>私にも同様な友人が少数います。付き合い方もめえめえさんと同じようなものです。
>そういう数少ない友人に、アスペルガー症候群と診断されたと話した時も、あまり驚いていませんでしたね。
>もともと変人だとは思っていたようで、それでも付き合いが続いていたわけでして。

わー、似てるところがありますね。光栄です〜
ワタシも元々変人と思われてたので、そういう意味では変人のまま
受容してくれた友人はありがたい存在です。

>私は幼少の頃から「わがまま」と言われたり、「素直になりなさい」と言われたりしたことで、双方の意味が未だにわかりません。
>今思い返しても、自分がわがままだったとは思えないし、素直に言ったつもりがわがままと言われ、甚だ混乱します。

そうなんです。ワタシが素直に言うと、必ず誰かギョッとしたり、
角が立ったりするらしいです。
やはりひとの気持ちに鈍感なのかな?と、悲しくなります。

>が、ひとつ確認させて下さい。
>めえめえさんがお知りになりたいのは、「誰かがアスペルガー症候群とはどういうものか」と真剣に笛に対して聞いてきた場合、
>笛はどのような気持ちがするか?
>また、どのように説明するか?
>ということでよろしいでしょうか。

その通りです。
なぜかというと、ワタシ自身は家族でさえこちらから説明したことが
ないのです。上記の通り、家族や友人は、元々ワタシが変わってるのが
当り前になってしまっているので、説明を求められたことがありません。
子どもについても、「こういうときはこうしてほしい」と具体的な
対処法はお願いしてるけど、あまり詳しくこちらから説明しません。
おそらく、先入観を持たれて、一般的な理解から思い込みをされるのが
イヤなんだからだと思います。

でも最近、家族(特にダンナ)との関係がこのままでいいのかな?と
考えることがあって、もしよかったら、笛さんはどのような感じで
受け取って、どのように説明なさるか?ということを、参考までに
伺いたいと思いました。

[#26869] Re:相互の理解は可能か?
   - 08/7/9(水) 10:58 -

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   お返事が遅くなり、申し訳ありません。
言葉や表現を探しています。もうしばらくお待ちください。

[#26919] [投稿者削除]
   - -

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   この書き込みは投稿者によって削除されました。(10/7/28(水) 18:03)

[#26949] Re:相互の理解は可能か?
 めえめえ  - 08/7/11(金) 23:31 -

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   ▼ウォルフルさん:
>この物事を深く考えない傾向はステレオタイプの議論を垂れ流しする今の日本メディアにも言えますよね。今の日本メディアは情報発信者自身にも情報受信者にも知性(この知性とは良識ある判断力のことです)を要求しないのです。

お返事を書きかけて…1点、確認させていただきたいのですが、
日本メディア、とおっしゃる場合、日本におけるマスメディア、
端的に言えばマスコミを念頭におっしゃってらっしゃるのでしょうか?

マスコミのような一方的な情報の流通と、双方向の情報の流通とでは、
情報発信者、情報受信者のどちらに自分がいるのか、ちょっと考えなきゃ
ならないので、確認させてください。

[#26984] Re:相互の理解は可能か?
 泰子  - 08/7/15(火) 13:47 -

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   ▼めえめえさん:

>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>また、どうしたら可能になるのでしょうか。

こんにちは。発達障害のある息子がいます。

私はそんなに難しいことではないように思います。
一人ひとりが自分の気持ちを尊重するように相手の気持ちを尊重し、
互いに譲り合う気持ち、思いやる気持ち、
また話し合ってすり合わせていこう、という気持ち、
こういうものがあれば、理解するという言葉は適切では
ないように思いますが、違った感じ方や考え方を持っている者同士でも
同じ空間で互いにそれなりに自由に幸福に暮らしていけるのでは
ないかと思っています。

[#26994] Re:相互の理解は可能か?
 ぶじこれきにん  - 08/7/16(水) 8:27 -

引用なし
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   ▼笛さん:
>めえめえさん、こんにちは。笛です。
>いつぞやは某ツリーで返事を書き込まなければと窮していたところ、めえめえさんがコメントをつけてくださり、
>そのまま発展してしまった後管理人さんから書込禁止のお達しがあったため、何も書かないうちに終わってしまいました。
>あの時のめえめえさんのコメントには色々と考えるところがあり、今度あらためてお話ができたらいいなと思っています。
>
>▼めえめえさん:
>>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>>また、どうしたら可能になるのでしょうか。
>
>療育を受けたこともなく、専門的な知識もない、一当事者が今まで主治医と話したり、他の当事者の意見を聞いた中で考えた個人的な意見を書きます。
>立場を分けずに、お互いが当事者と考えるのはどうでしょう。
>
>たとえば今の世の中の考え方でいくと、もし自閉症10人の中に定型発達が1人という状況があって、その状況で長期間生活をしなければならないとしたら、この場合支援が必要なのは定型発達の人でしょう。
>これは「より少数派」は、「より多数派」に合わせなければ生きにくい、という現実があるからと私は考えます。
>
>私は「多数派が支援者」という固定観念が一番の障害になっていると考えます。
>多数か少数かではなく、「違いがあるから」という視点で見れば、誰も「支援者」でも「支援を受ける側」でもありません。
>
>「違いがある」から発想を出発させれば、自閉症者は定型発達とつきあったり、利害関係が生じる場合処理をスムーズに行う必要性などから、定型発達について学ぶ必要があります。
>逆に、定型発達者は上記の理由で、自閉症者について学ぶ必要が生じます。
>両者は「違う」というだけで、優劣も強弱も考えない。どちらも互いに「おしえる」「おそわる」(又は互いに関わりを持たない自由もある)対等な人間です。
>そんな当たり前の事を受け入れられる意識を持ち、精神的土台が拡大すれば、それで良いのではないでしょうか。
>

笛さんの意見に同感。定型・自閉がお互いを学びあう関係を構築すれば、支援する、されるから脱した横のつながりが構築されるのではないか。
>ところが上記はほとんどキレイ事です。
>現状は、定型発達の人々はあくまでも「自閉症者を理解」し、定型発達の世界で生きやすいように「支援」する立場です。
>土俵はあくまでも「定型発達」にあるところがネックです。
>
彼ら、彼女らが圧倒的マジョリティなのでそうなってしまう。支援する側の論理を主張しがちになる。そこから人と自分は違う。自閉と、定型は違うけれど、独自の世界を持っていて、その世界は豊かなものだという洞察力は支援者に育ちにくい。支援者も生活の為に仕事をしているから、そこまで自分自身の自己啓発までいたらない。職場の同僚・上司となるとなおさらだ。
>>ジャーナリスト品川裕香さんの書いた記事をご紹介します。
>>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります。(下記に続く)
>
>「理解」という言葉は非常に高尚で最善のように考えられがちですが、この言葉がどれほど成就しているのか、定量的に判断出来るテストのようなものでもない限りわかりません。
>ちなみに、私は社会人として毎日定型発達の人々の中でサラリーマンをしていますが、それは私が定型発達を理解できているからではありません。
>一体脳機能が「定型」に発達しているとは具体的にどういうことなのか、自分とはどのように違う機能をするのか、
>私には全くわかりません。想像すら出来ません。
>ですから逆に、定型発達の人が自閉症の実際をどの程度理解できるのかも全くわかりません。
>ちなみに今の職場では、私が自閉症であることで特別な考慮・配慮はされていません。一度説明を試みましたが「幼稚園児じゃあるまいし」の一言で、私は自分の意思ですべての期待は放棄しました。
>パニック防止のための抗てんかん薬と3種の抗鬱剤を常用し、自分でやり方を変えられる処は変え、あとはなんとか職場に合わせています。それでもどうしても会社を休んでしまう日があります。
>
>生まれつき視力がない人のことを例にとると、理解の困難さ(あるいは不可能さ)がわかりやすいかもしれません。
>目が見えないとはどういうことなのか。目を閉じてちょっと周辺を動き回ってみればその不自由さは想像できるでしょう。
>でもそれは、人生の途中で事故や病気で視力を失った人の心理です。
>生まれつき目が見えないとはどういうことか。私には全く想像が出来ません。
>(もっとも、想像できないのは私が自閉症だからであって、定型発達の人には想像出来るのでしょうか。
>だとしたらますます、定型発達は私の理解を超えていることを確認するだけです。)
>そして生まれつき目が見えない人の心理が理解できないことを、私は悲しいと感じています。
その辺は定型でも難しいのでは???

[#26998] Re:相互の理解は可能か?
 peach peach  - 08/7/16(水) 14:08 -

引用なし
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   はじめまして。アスペの子供の母です。

障碍あるなし、関係なく、人は皆違っています。
ですので、他者を完全に理解するという事はありえないのではないか?
とい前提に立って、人と関わると、不用意に違う事や、受け入れられない事で
傷付く事が少なくなるように感じます。
理解しあえない部分があるという前提に立って、人と関わる事で、
進む理解もあるのではないかと思っています。

人間、相手を傷付けようと思わなくとも、不用意に傷付けてしまう事は
たくさんありますし、
この記事のお母さんのように、自分の中にない感覚に驚いて、とっさに
傷付けるような言動をしてしまう事は、私にもあります。
子供の特性を理解したつもりでも、咄嗟の驚くような子供の言動に
反射的に、感情的になる事はありました。
だからって、子供を愛していないというわけではなく、これは理屈では
どうにも受け止め切れないものなのです。
時間をかけて、頭の中をひとつひとつ整理し、感情的になって子供を
傷付けてしまっただろう事を反省しつつ、少しづつ、理解することは
可能ですが、不意打ちのように自分の中にない言動をされると、
人は、反射的に、驚いて、酷い事を言ったりするものだと思います。
ニキリンコさんが、強調表現と言い換えていましたが、
本意ではない、又は、言っている程、真剣に思っているわけではないが、
その場の感情に流されて、オーバーな表現をする。
という事が、あると思うのです。

私は、完全に子供を理解するというのは不可能だと思っています。
それでも、理解したいという想いはあります。

>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります

これは、いろんな場面で、そう感じます。私自身、発達障碍の本などを読み漁って、知識を詰め込む事に専念してた時など、出来ない事があると、つい、障碍と結びつけすぎて失敗した事もあります。
そうやって、たくさん失敗を重ねていきながら、子供からたくさんの事を学び、少しづつ親として成長していくんだと思います。
発達障碍というのに捉われすぎず、その子自身をよく見る事が大事だとつくづく思います。

>子どもの支援をする立場に立ってみると、この記事に出てくるお母さんのようなステレオタイプの”思い込み”や、誤まった”解釈(心理の分析)”を、自分も子どもに対してやっていないか、ときどき不安になります。
>教育の戦略を立てる上で、ある程度の推測は必要かもしれませんが、なるべく支援者側の価値判断が入り込まないようにしたい、と気を引き締めています。

あまり、こうあるべきとか、こうしなければいけないという思い込みに捉われず、
一歩引いて、見守れるといいですよね。
ある意味、子育てに正解はないのですから、自分で悩んで、試行錯誤していくしか
ないのだと思います。
どれだけ正論であっても、人から、こうすべきと言われて納得できるものでもないように思います。自分自身が自発的にその事に気がついて〔この記事なら、お母さんが自分の過ちに自ら気がつく〕、悩みながら答えを出していくもので、本を読んで理解するとかではなく、まさに実践で悩みながら、理解していくしかないのだと思います。

>自閉者の立場からすると、この記事に出てくるような、場にそぐわない行動や表現をとってしまい、それを”深読み”されて驚いたり、自分自身でも周囲から評価されるように冷血だとか変人と感じて、自己責めに陥った経験は多々あります。
>この記事のお母さんのような、情緒的に定型発達と同様のレベルに達してほしいという希望は、計り知れなく遠い道のりのように感じます。
>いえ、そもそも定型発達の情緒的な感受性や処理方法に合わせる必要はあるのか、という疑問を抱いてしまいます。
>自閉者にも情緒はあります。
>ただ、感じ方や表現方法が、非自閉のひとびととは異なっているだけだと思います。

追い込んでしまわないように気をつけます。
でも、追い込んでしまう立場側も実は、深く傷付いているかもしれない事を
考えて、欲しいと思います。

相互理解は可能だとは、思いますが、どちからが一方的に理解を迫るのではなく、
思いやりの心を持って、互いに歩み寄る事が大事のように思えます。

[#27000] Re:相互の理解は可能か?
 ぶじこれきにん  - 08/7/16(水) 19:00 -

引用なし
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   ▼peach peachさん:
>はじめまして。アスペの子供の母です。
>
>障碍あるなし、関係なく、人は皆違っています。
>ですので、他者を完全に理解するという事はありえないのではないか?
>とい前提に立って、人と関わると、不用意に違う事や、受け入れられない事で
>傷付く事が少なくなるように感じます。
>理解しあえない部分があるという前提に立って、人と関わる事で、
>進む理解もあるのではないかと思っています。
>
>人間、相手を傷付けようと思わなくとも、不用意に傷付けてしまう事は
>たくさんありますし、
>この記事のお母さんのように、自分の中にない感覚に驚いて、とっさに
>傷付けるような言動をしてしまう事は、私にもあります。
>子供の特性を理解したつもりでも、咄嗟の驚くような子供の言動に
>反射的に、感情的になる事はありました。
>だからって、子供を愛していないというわけではなく、これは理屈では
>どうにも受け止め切れないものなのです。
>時間をかけて、頭の中をひとつひとつ整理し、感情的になって子供を
>傷付けてしまっただろう事を反省しつつ、少しづつ、理解することは
>可能ですが、不意打ちのように自分の中にない言動をされると、
>人は、反射的に、驚いて、酷い事を言ったりするものだと思います。
>ニキリンコさんが、強調表現と言い換えていましたが、
>本意ではない、又は、言っている程、真剣に思っているわけではないが、
>その場の感情に流されて、オーバーな表現をする。
>という事が、あると思うのです。
>
>私は、完全に子供を理解するというのは不可能だと思っています。
>それでも、理解したいという想いはあります。
>
>>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります
>
>これは、いろんな場面で、そう感じます。私自身、発達障碍の本などを読み漁って、知識を詰め込む事に専念してた時など、出来ない事があると、つい、障碍と結びつけすぎて失敗した事もあります。
>そうやって、たくさん失敗を重ねていきながら、子供からたくさんの事を学び、少しづつ親として成長していくんだと思います。
>発達障碍というのに捉われすぎず、その子自身をよく見る事が大事だとつくづく思います。
>
>>子どもの支援をする立場に立ってみると、この記事に出てくるお母さんのようなステレオタイプの”思い込み”や、誤まった”解釈(心理の分析)”を、自分も子どもに対してやっていないか、ときどき不安になります。
>>教育の戦略を立てる上で、ある程度の推測は必要かもしれませんが、なるべく支援者側の価値判断が入り込まないようにしたい、と気を引き締めています。
>
>あまり、こうあるべきとか、こうしなければいけないという思い込みに捉われず、
>一歩引いて、見守れるといいですよね。
>ある意味、子育てに正解はないのですから、自分で悩んで、試行錯誤していくしか
>ないのだと思います。
>どれだけ正論であっても、人から、こうすべきと言われて納得できるものでもないように思います。自分自身が自発的にその事に気がついて〔この記事なら、お母さんが自分の過ちに自ら気がつく〕、悩みながら答えを出していくもので、本を読んで理解するとかではなく、まさに実践で悩みながら、理解していくしかないのだと思います。
>
>>自閉者の立場からすると、この記事に出てくるような、場にそぐわない行動や表現をとってしまい、それを”深読み”されて驚いたり、自分自身でも周囲から評価されるように冷血だとか変人と感じて、自己責めに陥った経験は多々あります。
>>この記事のお母さんのような、情緒的に定型発達と同様のレベルに達してほしいという希望は、計り知れなく遠い道のりのように感じます。
>>いえ、そもそも定型発達の情緒的な感受性や処理方法に合わせる必要はあるのか、という疑問を抱いてしまいます。
>>自閉者にも情緒はあります。
>>ただ、感じ方や表現方法が、非自閉のひとびととは異なっているだけだと思います。
>
>追い込んでしまわないように気をつけます。
>でも、追い込んでしまう立場側も実は、深く傷付いているかもしれない事を
>考えて、欲しいと思います。
>
>相互理解は可能だとは、思いますが、どちからが一方的に理解を迫るのではなく、
>思いやりの心を持って、互いに歩み寄る事が大事のように思えます。

結局お互いがお互いの気持ちを理解する。しかも同時並行して相互理解をするしかない。
 自閉も定型を理解して、定型も自閉を理解する。それがうまく行けば仕事でのトラブルは減るんだろうな・・・・・。
 定型の文化の理解、仕事の理解、自閉の文化の理解。これをお互いがすればいいんだろう。と・・・・言う私も社会からドロップアウトして客観的に仕事を見たり、自分と相手の関係見たり、試行錯誤してその心境にたどりついた。
お互いの努力が大事。自分を理解して欲しいなら、相手を理解する。
これが大事だと思う。

[#27003] Re:相互の理解は可能か?
 ぶじこれきにん  - 08/7/16(水) 20:54 -

引用なし
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   ▼ぶじこれきにんさん:
>▼笛さん:
>>めえめえさん、こんにちは。笛です。
>>いつぞやは某ツリーで返事を書き込まなければと窮していたところ、めえめえさんがコメントをつけてくださり、
>>そのまま発展してしまった後管理人さんから書込禁止のお達しがあったため、何も書かないうちに終わってしまいました。
>>あの時のめえめえさんのコメントには色々と考えるところがあり、今度あらためてお話ができたらいいなと思っています。
>>
>>▼めえめえさん:
>>>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>>>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>>>また、どうしたら可能になるのでしょうか。
>>
>>療育を受けたこともなく、専門的な知識もない、一当事者が今まで主治医と話したり、他の当事者の意見を聞いた中で考えた個人的な意見を書きます。
>>立場を分けずに、お互いが当事者と考えるのはどうでしょう。
>>
>>たとえば今の世の中の考え方でいくと、もし自閉症10人の中に定型発達が1人という状況があって、その状況で長期間生活をしなければならないとしたら、この場合支援が必要なのは定型発達の人でしょう。
>>これは「より少数派」は、「より多数派」に合わせなければ生きにくい、という現実があるからと私は考えます。
>>

特に職場はその手の傾向が強く、当事者が長く仕事を定年まで続けるにはハードルが高い。マジョリテイ定型=男文化をスタンダードな基準にしているから、私を含めた個性の強い発達障がいの人は、定型男社会から弾き飛ばされやすい。
その中で生き残る人は、相当の努力を本人なりにしているから、かろうじて生き残れる。
>>私は「多数派が支援者」という固定観念が一番の障害になっていると考えます。
>>多数か少数かではなく、「違いがあるから」という視点で見れば、誰も「支援者」でも「支援を受ける側」でもありません。
>>
 同感。多数派が支援者だから前述した定型と違う。その考え普通ではないと,人と考えが違う事を多数派の支援者は、当事者に向って否定して受容交流すらしない。私も前述した人と違う考え、見方を多数派の支援者に否定されて、独自の世界を持つ自分の考えを人前で言っていいのか迷った。この場で自分の考えを述べるまで時間がかかった。私の体験からすると、そういう思いのする当事者は多いのではないか??

>>「違いがある」から発想を出発させれば、自閉症者は定型発達とつきあったり、利害関係が生じる場合処理をスムーズに行う必要性などから、定型発達について学ぶ必要があります。
>>逆に、定型発達者は上記の理由で、自閉症者について学ぶ必要が生じます。
>>両者は「違う」というだけで、優劣も強弱も考えない。どちらも互いに「おしえる」「おそわる」(又は互いに関わりを持たない自由もある)対等な人間です。
>>そんな当たり前の事を受け入れられる意識を持ち、精神的土台が拡大すれば、それで良いのではないでしょうか。
>>
>
>笛さんの意見に同感。定型・自閉がお互いを学びあう関係を構築すれば、支援する、されるから脱した横のつながりが構築されるのではないか。
>>ところが上記はほとんどキレイ事です。
>>現状は、定型発達の人々はあくまでも「自閉症者を理解」し、定型発達の世界で生きやすいように「支援」する立場です。
>>土俵はあくまでも「定型発達」にあるところがネックです。
>>
>彼ら、彼女らが圧倒的マジョリティなのでそうなってしまう。支援する側の論理を主張しがちになる。そこから人と自分は違う。自閉と、定型は違うけれど、独自の世界を持っていて、その世界は豊かなものだという洞察力は支援者に育ちにくい。支援者も生活の為に仕事をしているから、そこまで自分自身の自己啓発までいたらない。職場の同僚・上司となるとなおさらだ。
 補足すると、確かに自閉の文化に対する洞察力を日々の仕事と、生活に追われる支援者には持ちにくいし、その余裕もない。
当事者が絵等アートで表現しても、表面的に自閉文化の理解はするが、本質的理解にいたらず、その良さを社会に向って訴えていく事も、アートを通した社会参加・自立も、定型の多数派支援者には出来ない。絵の展覧会をするのが関の山。
>>>ジャーナリスト品川裕香さんの書いた記事をご紹介します。
>>>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります。(下記に続く)
>>
>>「理解」という言葉は非常に高尚で最善のように考えられがちですが、この言葉がどれほど成就しているのか、定量的に判断出来るテストのようなものでもない限りわかりません。
>>ちなみに、私は社会人として毎日定型発達の人々の中でサラリーマンをしていますが、それは私が定型発達を理解できているからではありません。
>>一体脳機能が「定型」に発達しているとは具体的にどういうことなのか、自分とはどのように違う機能をするのか、
>>私には全くわかりません。想像すら出来ません。
>>ですから逆に、定型発達の人が自閉症の実際をどの程度理解できるのかも全くわかりません。
>>ちなみに今の職場では、私が自閉症であることで特別な考慮・配慮はされていません。一度説明を試みましたが「幼稚園児じゃあるまいし」の一言で、私は自分の意思ですべての期待は放棄しました。
>>パニック防止のための抗てんかん薬と3種の抗鬱剤を常用し、自分でやり方を変えられる処は変え、あとはなんとか職場に合わせています。それでもどうしても会社を休んでしまう日があります。
>>
>>生まれつき視力がない人のことを例にとると、理解の困難さ(あるいは不可能さ)がわかりやすいかもしれません。
>>目が見えないとはどういうことなのか。目を閉じてちょっと周辺を動き回ってみればその不自由さは想像できるでしょう。
>>でもそれは、人生の途中で事故や病気で視力を失った人の心理です。
>>生まれつき目が見えないとはどういうことか。私には全く想像が出来ません。
>>(もっとも、想像できないのは私が自閉症だからであって、定型発達の人には想像出来るのでしょうか。
>>だとしたらますます、定型発達は私の理解を超えていることを確認するだけです。)
>>そして生まれつき目が見えない人の心理が理解できないことを、私は悲しいと感じています。
>その辺は定型でも難しいのでは???

[#27013] Re:相互の理解は可能か?
 ぶじこれきにん  - 08/7/17(木) 7:16 -

引用なし
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   ▼ぶじこれきにんさん:
>▼ぶじこれきにんさん:
>>▼笛さん:
>>>めえめえさん、こんにちは。笛です。
>>>いつぞやは某ツリーで返事を書き込まなければと窮していたところ、めえめえさんがコメントをつけてくださり、
>>>そのまま発展してしまった後管理人さんから書込禁止のお達しがあったため、何も書かないうちに終わってしまいました。
>>>あの時のめえめえさんのコメントには色々と考えるところがあり、今度あらためてお話ができたらいいなと思っています。
>>>
>>>▼めえめえさん:
>>>>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>>>>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>>>>また、どうしたら可能になるのでしょうか。
>>>
>>>療育を受けたこともなく、専門的な知識もない、一当事者が今まで主治医と話したり、他の当事者の意見を聞いた中で考えた個人的な意見を書きます。
>>>立場を分けずに、お互いが当事者と考えるのはどうでしょう。
>>>
>>>たとえば今の世の中の考え方でいくと、もし自閉症10人の中に定型発達が1人という状況があって、その状況で長期間生活をしなければならないとしたら、この場合支援が必要なのは定型発達の人でしょう。
>>>これは「より少数派」は、「より多数派」に合わせなければ生きにくい、という現実があるからと私は考えます。
>>>
>
>特に職場はその手の傾向が強く、当事者が長く仕事を定年まで続けるにはハードルが高い。マジョリテイ定型=男文化をスタンダードな基準にしているから、私を含めた個性の強い発達障がいの人は、定型男社会から弾き飛ばされやすい。
>その中で生き残る人は、相当の努力を本人なりにしているから、かろうじて生き残れる。
>>>私は「多数派が支援者」という固定観念が一番の障害になっていると考えます。
>>>多数か少数かではなく、「違いがあるから」という視点で見れば、誰も「支援者」でも「支援を受ける側」でもありません。
>>>
> 同感。多数派が支援者だから前述した定型と違う。その考え普通ではないと,人と考えが違う事を多数派の支援者は、当事者に向って否定して受容交流すらしない。私も前述した人と違う考え、見方を多数派の支援者に否定されて、独自の世界を持つ自分の考えを人前で言っていいのか迷った。この場で自分の考えを述べるまで時間がかかった。私の体験からすると、そういう思いのする当事者は多いのではないか??
固定観念で一言。固定観念で当事者を決め付けると、当事者自身が成長しても固定観念がそのことを阻む場合がある。多数派の支援者ほど、その陥穽に陥りやすい。


>
>>>「違いがある」から発想を出発させれば、自閉症者は定型発達とつきあったり、利害関係が生じる場合処理をスムーズに行う必要性などから、定型発達について学ぶ必要があります。
>>>逆に、定型発達者は上記の理由で、自閉症者について学ぶ必要が生じます。
>>>両者は「違う」というだけで、優劣も強弱も考えない。どちらも互いに「おしえる」「おそわる」(又は互いに関わりを持たない自由もある)対等な人間です。
>>>そんな当たり前の事を受け入れられる意識を持ち、精神的土台が拡大すれば、それで良いのではないでしょうか。
>>>
>>
>>笛さんの意見に同感。定型・自閉がお互いを学びあう関係を構築すれば、支援する、されるから脱した横のつながりが構築されるのではないか。
>>>ところが上記はほとんどキレイ事です。
>>>現状は、定型発達の人々はあくまでも「自閉症者を理解」し、定型発達の世界で生きやすいように「支援」する立場です。
>>>土俵はあくまでも「定型発達」にあるところがネックです。
>>>
>>彼ら、彼女らが圧倒的マジョリティなのでそうなってしまう。支援する側の論理を主張しがちになる。そこから人と自分は違う。自閉と、定型は違うけれど、独自の世界を持っていて、その世界は豊かなものだという洞察力は支援者に育ちにくい。支援者も生活の為に仕事をしているから、そこまで自分自身の自己啓発までいたらない。職場の同僚・上司となるとなおさらだ。
> 補足すると、確かに自閉の文化に対する洞察力を日々の仕事と、生活に追われる支援者には持ちにくいし、その余裕もない。
>当事者が絵等アートで表現しても、表面的に自閉文化の理解はするが、本質的理解にいたらず、その良さを社会に向って訴えていく事も、アートを通した社会参加・自立も、定型の多数派支援者には出来ない。絵の展覧会をするのが関の山。
>>>>ジャーナリスト品川裕香さんの書いた記事をご紹介します。
>>>>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります。(下記に続く)
>>>
>>>「理解」という言葉は非常に高尚で最善のように考えられがちですが、この言葉がどれほど成就しているのか、定量的に判断出来るテストのようなものでもない限りわかりません。
>>>ちなみに、私は社会人として毎日定型発達の人々の中でサラリーマンをしていますが、それは私が定型発達を理解できているからではありません。
>>>一体脳機能が「定型」に発達しているとは具体的にどういうことなのか、自分とはどのように違う機能をするのか、
>>>私には全くわかりません。想像すら出来ません。
>>>ですから逆に、定型発達の人が自閉症の実際をどの程度理解できるのかも全くわかりません。
>>>ちなみに今の職場では、私が自閉症であることで特別な考慮・配慮はされていません。一度説明を試みましたが「幼稚園児じゃあるまいし」の一言で、私は自分の意思ですべての期待は放棄しました。
>>>パニック防止のための抗てんかん薬と3種の抗鬱剤を常用し、自分でやり方を変えられる処は変え、あとはなんとか職場に合わせています。それでもどうしても会社を休んでしまう日があります。
>>>
>>>生まれつき視力がない人のことを例にとると、理解の困難さ(あるいは不可能さ)がわかりやすいかもしれません。
>>>目が見えないとはどういうことなのか。目を閉じてちょっと周辺を動き回ってみればその不自由さは想像できるでしょう。
>>>でもそれは、人生の途中で事故や病気で視力を失った人の心理です。
>>>生まれつき目が見えないとはどういうことか。私には全く想像が出来ません。
>>>(もっとも、想像できないのは私が自閉症だからであって、定型発達の人には想像出来るのでしょうか。
>>>だとしたらますます、定型発達は私の理解を超えていることを確認するだけです。)
>>>そして生まれつき目が見えない人の心理が理解できないことを、私は悲しいと感じています。
>>その辺は定型でも難しいのでは???

[#27023] Re:相互の理解は可能か?
 めえめえ  - 08/7/17(木) 14:46 -

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   ▼泰子さん:
こんにちは。コメントありがとうございます。

>また話し合ってすり合わせていこう、という気持ち、

話し合うことは大事ですね。
発達障害の有無に限らず、言葉という手段を駆使して意思疎通を図る
という点では同じ土俵に乗っているように思います。

>一人ひとりが自分の気持ちを尊重するように相手の気持ちを尊重し、
>互いに譲り合う気持ち、思いやる気持ち、

うーん…ワタシにとっては難しい課題です。
まず、気持ちというのは、喜怒哀楽などの情動のことでしょうか、
意向(こうしたいという好み)のことでしょうか。
自分の気持ち、相手の気持ち、というものもイメージできにくいです(汗
譲り合うつもりで引くと他人行儀に走り勝ちで、思いやるつもりで
踏み出すと押し付けがましくなりがちです。
…加減の調整ができないのが問題なのでしょうか?

>同じ空間で互いにそれなりに自由に幸福に暮らしていけるのでは
>ないかと思っています。

互いに、それなりに、自由に、幸福に…いいですね!!
つい極端に走ってしまいがちなので、「それなりに」を心がけて、
諦めずにボチボチ生きていきたいと思います。

[#27048] Re:相互の理解は可能か?
 泰子  - 08/7/18(金) 8:23 -

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   ▼めえめえさん:

レスをありがとうございます。

>>一人ひとりが自分の気持ちを尊重するように相手の気持ちを尊重し、
>>互いに譲り合う気持ち、思いやる気持ち、
>
>うーん…ワタシにとっては難しい課題です。
>まず、気持ちというのは、喜怒哀楽などの情動のことでしょうか、
>意向(こうしたいという好み)のことでしょうか。
>自分の気持ち、相手の気持ち、というものもイメージできにくいです(汗

気持ち が表すものが曖昧なんですね。
私もうまく説明できません。
多分私は、喜怒哀楽のことでもあるし、こうしたいという意向も含めて
使っていると思います。

私も意識しないと自分の気持ちをしっかりつかむということが
難しいのですが、私の難しさとめえめえさんの難しさとでは
質が違うのかもしれないな、と思っています。

>譲り合うつもりで引くと他人行儀に走り勝ちで、思いやるつもりで
>踏み出すと押し付けがましくなりがちです。
>…加減の調整ができないのが問題なのでしょうか?

私も勝手な推測で気をまわして失敗することはよくあります。
だから言葉を使って相手に確認をすることが大事なんだと思います。

でもこのときに自分はどうしたいのか、ということも
しっかりと把握しておくことも大切だと思っています。

相手の状態や状況から100パーセントその人の意向を汲む、
と決心をつけてからならば、その時は相手にすべて合わせてやっても
そんなにストレスにはならないと思うのですが、
そうじゃないと譲りすぎたことで後悔するかもしれません。
(でも時間がかかるから、早い流れの中では難しいですよね。)

私は他人(家族も含めて)は自分とは同じように感じるわけではない。
というのを いちいち思い出しておかないと、こうあるべき!というのを
押し付けてしまったり、自分の思うようにわかってくれない相手に
怒りを持ってしまうことがあります。
そういう私に育てられた娘も同じところがあります。
(息子は娘ほどは私の影響を受けないところがあります。)

これが考え方や感じ方が違う者同士の間で大きく摩擦になってしまう
要因の一つかなぁと思います。

>互いに、それなりに、自由に、幸福に…いいですね!!

共感していただけて嬉しいです。


※昨日一度投稿した後、一部書き直しをしました。

[#27082] Re:相互の理解は可能か?
 めえめえ  - 08/7/19(土) 1:42 -

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   ▼peach peachさん:
丁寧なコメント、ありがとうございます。
お返事遅くなって申し訳ありません。

>障碍あるなし、関係なく、人は皆違っています。
>ですので、他者を完全に理解するという事はありえないのではないか?
>とい前提に立って、人と関わると、不用意に違う事や、受け入れられない事で
>傷付く事が少なくなるように感じます。
>理解しあえない部分があるという前提に立って、人と関わる事で、
>進む理解もあるのではないかと思っています。

おっしゃる通りですね!
「みんなちがって みんないい」というのは、
互いに関わり合おうとしたり理解し合おうという努力を放棄して、
勝手にすればいいという意味ではなく、
いかなる人も存在としてOKということなのでしょうね。

>この記事のお母さんのように、自分の中にない感覚に驚いて、とっさに
>傷付けるような言動をしてしまう事は、私にもあります。
>子供の特性を理解したつもりでも、咄嗟の驚くような子供の言動に
>反射的に、感情的になる事はありました。
>だからって、子供を愛していないというわけではなく、これは理屈では
>どうにも受け止め切れないものなのです。

率直にお話くださって感謝します。
感情的になったからといって、子供を愛していないとは思いませんよ。
反射的に、そう、火の粉を振り払うように反応してしまうのですよね?

実はアスペルガーの子供や大人が、逆ギレとも見えるパニックや、
自傷、他害を示すのも、同じように反射的な行動なのでは?と個人的には
思っています。
お互いさま、なのかもしれませんね。

>私は、完全に子供を理解するというのは不可能だと思っています。
>それでも、理解したいという想いはあります。

「理解したいという想い」は重要ですよね。
ワタシは自分が他者を「理解したいという想い」を自覚すると、
これが世間でいう「愛情」ってヤツかも?、と思います。

>発達障碍というのに捉われすぎず、その子自身をよく見る事が大事だとつくづく思います。

>あまり、こうあるべきとか、こうしなければいけないという思い込みに捉われず、
>一歩引いて、見守れるといいですよね。
>ある意味、子育てに正解はないのですから、自分で悩んで、試行錯誤していくしか
>ないのだと思います。

「一歩引いて」「その子自身をよく見る事が大事」
本当に、そうですね。

以前から、母性愛かわからないけど、子供がかわいそうとか、
感情移入の多い発言をみると、ワタシの中にはそういう感覚がないので
理解できなくて困っていたんです。
なので、定型発達のひとは、同じ母親でも違う感覚、たとえば情動に
基づいて親をしてるのかな?という思い込みがあったように思います。
でも、peach peachさんのおっしゃるように、みなさん、試行錯誤
してるだけなんでしょうね、多分。

>追い込んでしまわないように気をつけます。
>でも、追い込んでしまう立場側も実は、深く傷付いているかもしれない事を
>考えて、欲しいと思います。
>
>相互理解は可能だとは、思いますが、どちからが一方的に理解を迫るのではなく、
>思いやりの心を持って、互いに歩み寄る事が大事のように思えます。

とっさに傷つけてしまう側も、実は深く傷付いているかもしれない、
というのもわかるような気がします。意図しなかったのに、反省しても
謝ってもいったん出た言葉や行為はなかったことにはできませんものね。

「互いに歩み寄る事」ですね。心がけたいと思います。

[#27102] Re:相互の理解は可能か?
 めえめえ  - 08/7/20(日) 7:32 -

引用なし
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   ▼ぶじこれきにんさん:
コメントありがとうございます。

>結局お互いがお互いの気持ちを理解する。しかも同時並行して相互理解をするしかない。
> 自閉も定型を理解して、定型も自閉を理解する。それがうまく行けば仕事でのトラブルは減るんだろうな・・・・・。
> 定型の文化の理解、仕事の理解、自閉の文化の理解。これをお互いがすればいいんだろう。と・・・・

「お互い」というところがネックですね。
定型の文化の理解… というところですが、
最近、リアルでのトラブル(定型同士)を観察しつつ
定型同士なら、論理ベースで話し合いをすれば、理解し合えるのでは?
少なくとも立場の違いや、違うということ自体については了解し合える
のでは?と単純に信じてたけど、なかなかそうもいかないらしい…と
しみじみ自分の世間知らずっぷりを思い知りました。

考えてみれば定型発達のほうが圧倒的に多数派で裾野が広いのだし、
色々なひとがいるのも当然なんですよね。
定型同士がどうやって相互理解をしているのか、いまいちわからないの
だけれど、究極は個人対個人、ケースバイケースなのでしょうか。
なんとなく、(自閉には理解しづいらいが)”共通の文化”がある、
という固定観念を、ワタシも抱いていたような気がします。

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