|
12日のこと、京都・祇園の大和通四条の交差点で、染物屋さんに勤めていた30歳の男性が、配達に使っていた軽ワゴン車を暴走させてしまい、桜のシーズンで観光を楽しんでいた方など18名が巻き込まれ、8名の方が亡くなられ・10人がケガを負われ、運転していた彼も命を落とすという、非常に痛ましい交通事故がありました。
男性は、去年のやはり4月に発生し、6名の小学生が亡くなった、栃木県鹿沼市のクレーンの暴走事故で、現在服役中の運転手と同じく、“てんかん”の発作があったようです。
鹿沼市のケースでは、“病歴を隠して免許を取得して事故を起こした場合、危険運転致死罪に問い、懲役期間の延長など厳罰化を求める”という、意見がすでに出始めています。
しかし、僕は、“単にそれだけで済ませて良いのだろうか?”という、疑問符がどうしても頭から消し去れません。
乗用車を問わず、パワーショベルやフォークリフト、そして農業用トラクターまで、現代社会では、“有利な経済状況の保障”ということに対して、“車両を動かせる”という能力は、非常に必須視されています。実際、ハローワークの求人票を見ると、半分くらいの“資格欄”に“普通車免許を持つ人”という記載があります。
けれどもこれは裏返せば、“車を運転できる年齢で運転をためらう人≠一人前の大人じゃない”という、排除の方程式を作ってしまっていて、“私は…運転はむりです!”ということを、ためらいなく言い出せる状況を阻害していて、これが クローズという望ましくない方向へ、てんかんを含めた“意識・注意力のハンディを持った人々”を導いてしまい、水面下での軽微なものを含めて、事故への引き金を引いたのだと思わずにはいられないです。
実際のところ、“脳”というのは、判断力・運動の調節・意識レベルの維持・協調性の構築など、多数の安全運転にまつわる機能を有する“重要な器官”であるにもかかわらず、それらのことに対して不安感を持っている人が、安心して訪れられるような“相談窓口”は、皆無に近い状況です。
人間は“良い可能性”を信じなくては生きていけない生き物なので、単に“お医者さんからダメと言われた”というだけでは、“今は調子良いから…大丈夫”ということで、自動車学校へ通いだしてしまう方が、どうしたって出てきます。また中には、“自分は運転免許をとれない=落伍者”ということで、強いうつ状態に陥ってしまい、引きこもりに繋がっていくということもありうると思います。
科学的かつ客観的に納得のいく検診が受けられ、それを踏まえて免許取得の可否が解りやすくハンディを持った人に伝えられて、かつ今後の人生設計において“車両を運転しづらい”ということが“著しい不利益”とならないように、その人と一緒になって考えてくれる“コーディネーション”をしてくれるような機関・機構の
創設こそ、悲惨な事故を無くしていく第一歩だと思えてしょうがないです。
|
|