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人を信じてみても、人様には人様の都合があることに行き着く。
“家族”の素敵さとかどんなに理想化されても、家族一人一人のキャパシティの限界や、人生の都合なんかを見極められるようになると、自分が望めるものの限界がわかってくる。
どんな説明能力を見に付けても、どんな誇らしい成功をしょって帰って来て見せても、その先に、だから自己顕示欲を満たしてほしいとか、欲求の充足を頼ってしまうと、受け止め切ってもらえない、限界の告知が待っている。
「本日は営業を終了しました」の看板が待っている。
人によっては、しがみついたり、親密になったり、喧嘩したり、試したり、疑ったり、詰め寄ったり、償わせたり、揺さぶらせたり、責めさせたり、怒らせたりしてボーダーな要求を満たしてやっと、満足の境地にたどり着く場合もある。
「本日は営業を終了しました」の看板は、自分にも出す権利がある。
同じように人様も出す権利がある。
看板を出されたら、人に傷を負わせ続けるのは基本、やめなければならない。
そこに薬を使うのも仕方が無いのが、現在の常識だ。
私は、どうも、教え諭されたい欲求、そして頭の中の霧が晴れるような、新しい真理とか真実とかを、斬新な説明方法で、雷のように頭に落とされたいと言う、面倒くさあぁ〜い、欲求があるらしい。
当事者の精神安定は、社会的に成功するかどうかの基準じゃないんじゃないか。
表面的に人に認められることだけがゴールではないんじゃないか。
見栄えのいい、誇らしいことだけがゴールではないんじゃないか。
そこにドーパミンが必ず出るかどうか。
そこにオキシトシンが確実に、間違いなく出るかどうか。
うつ予防にセロトニンが出るまで見届けてもらえるかどうか。
当人サイズの報酬が約束されるまで、支えられることが確約された時、そこでやっと、
発達障害の人は、人間社会をもう一度信じられるようになるものじゃないか?
だからそれまでは、社会は基本、挫折者や引き籠りの量産を、やめられないんじゃないのか?
この社会全体が、病人と引き籠りの増加を、心底から“困った。止まってほしい。減ってほしい。”と思えるようになる日は来るんだろうか?
今のままなら、私は、社会に心配されているとはどうしても思えない。
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