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医者も出てくるけど、たしかに小説でフィクションなんだけど、ダメだわー。
この夫婦を野放しにして「どうですか?」ばっかり聞いててもダメじゃん。
夫婦カウンセリングってやつまで引っぱって、持っていけないと。
面談から奥さんを外したのはいいと思うけど、次はどこへだんなを引っばって行きたいのか、医者から探って行ったり、本人に自分で自分の中を内観させて探らせていかないと、いつまでもダメじゃん。
病状の出方の報告だけさせていたら、いつまでたっても医療が“報告会”だけとか、“病状の出るパターンの自己紹介会”だけになってしまう。
私はそうだった。
あの納得いかない気持、釈然としない苦痛の連続は忘れない。
この夫婦は、この夫婦のありのままのまんまだけだと、合わないんだってば。
それぞれが自主的に自分で行動分析をして、認知行動療法みたいのをするわけないじゃないか。
奥さんは自分が世界一正しいと信念持っているし。
だんなは思考停止の結果が病状に出ているんだから。
思考停止は、夫婦としての責任から、奥さんに疑問を持ってはいけない、従わなくてはいけないという、責任感とか自制心から来ているものだから。
それを崩したら意志の弱い人間に成り下がってしまうから。
そういう認知から崩すべきなんじゃないか。できなきゃ放置だよ。私と同じだよ。
正しい信念が、正しい手助けが、正しく理想通りに作用しないこともある。
そんな世界は味わって来なかった人がいたとしても、知らなかったとしても、たしかに存在するのさ。
その場合、関連する人間関係や関係性を、切って、消滅させて、終わりではなくて、再構築の道があること、多くの夫婦にそれができていること、できる可能性ならあること、そのために新たに身に付ける認知はどんなものがあるか、などまで示すのが仲介者の責任じゃないか。
私は再構築の過程に何があるか、そこに興味があるのに。
奥さんがますます看病(と管理)に燃える心理の裏には、愛や責任感の他にも、押さえ付ければすぐ病んで、逃げられないまま自分に征 服されてくれる手ごたえ、とか、目に見える安心感とか、そんな共依存があったとしたら
コワコワコワコワ!!だわ。
夫婦は、需要と供給が噛み合って成り立ってほしいと、蚊帳の外の私は、願う。(無責任って気持いい!)
奥さんは、自分が正論で人を管理する性分の人間だと自覚していれば、それに耐えうる、またはそれを求めている人を探すことができた。
だんなは、人にパーソナリティゾーンなんかを干渉され過ぎると、おかしくなる弱さがあるんだってことを自覚すべきだった。
停止した思考の続きを考えるとしたら。
どうして別れないのか。
結婚したら責任を取らなくてはならないから→これだと話が元に戻ってしまう。
毎日では無くて、たまになら干渉や管理をされる需要があったのか。
それとも目立たない広汎性障害や不注意優位性ADHDなんかがあって、思考や物の整理、生活管理には管理者が必要だったのか。
これでいいのか分からないけれど、ここまで白黒付けさせたりはしないのか?
昭和のむかしの小説だから、発達障害の存在なんて知られて無かったかもしれないけどさー。
白黒付けさせても、奥さんの代わりの管理者やカウンセリングを外部発注する先が無いから?
だから病気のまま放置されるんだろうか。
どうなんだろうか。
話は結論が出ないまま切られていて分からない。
小説ってブツ切りが出来て、カッコいいわねえ……!
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