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なにを整理しているんだっけ…?
当事者にとって、条件が付いているものなんて、無いものと同じだ。
障害の情報が国内に入ってきて、もう十年も過ぎれば、浸透なんてもうあり得ないんだ。やめたんだ。
なにがコンサータだ。コンサータが合わない身体だってある。
お医者がそもそもコンサータも知らない地域だって、いまだあるんだ。
知ってるお医者のところには長蛇の列ができているんだ。
セットで必ずトレーニングプログラムみたいなものは付いてくるのか。
バリューセット並みの確実さで、頼んだら必ずくれるのか。
待たされるものは無いものと同じなんだよ。
一般人が私たちの変化を同じだけ待っててくれるところまで保証してくれんのかよ。
なにを整理しているんだっけ…?
知的水準の高い当事者子への嘘の無い社会適応の誘い方?
健常者の一般社会を構成する人たちは“善良な一般人”と““異分子”で機能不全関係にも親密に適応する一般人”とでできている。
それはトランプの神経衰弱みたいなものなので、どっちがでてくるかわからないけど、両者は協力し合って共存しているのが前提なので、お仕事に関することは、だれの言うことでも聞き、わからないことを質問するのが前提。
しかし、人と仲良しゲームをするためだけにお仕事場があるわけではないので、いい人がいるかいないかではなくて、どうしてこのお仕事を選んだのか、の理由はずっと忘れずに思い出し続けるべし。
お仕事を覚えて誉められたとしても、誉められなければお仕事が出来ない労働者になってはならない。
なぜなら、学校と違って、お仕事場はお金をもらえるところであるからだ。
しかし、やっぱり学校と違うので、要領のいいやり方とか、変更になったこととか、失敗した時の始末の仕方とか、わからないことは謝って詳しく教えてもらっていかないとならない。
でも、一般の人達は、発達障害への説明の仕方が、難しくて込み入っててよくわからないから、苦しませるかもしれないので、自分からも毎日、観察したり聞いたりして探っていかなくてはいけない。
そしていっぺんにではなく、少しずつ詳しく教えてもらわなくてはならない。
教えてもらう人も、教えるのが上手なだけではなく、善良な人を選んだほうがいい。
“異分子”だと、頭のいい人もいるけど、罠にはめられていじめられてしまうこともあるから。
笑顔も安売りせず、甘やかしてもらった時では無く、お世辞を言ってもらった時でも無く、上手に教えてもらった時とかに出していくくらいに、出し惜しみする位で調節する。
“異分子”が権力を握っていて、明らかにお仕事場の総生産能力が落ちるようなルールで全員が支配されているなら、残念ながら事態が覆る可能性は無いので、お仕事場の中のゲームを当てにしてはいけない。
当事者は早期にダメージが来やすいので、そこで外部の支援に相談して指示をもらう段階に入る。
でも、一番の判断基準はお仕事場の総生産能力が落ちるかどうかなので、日常の雑事、人への愛着やお仕事の好き嫌いの問題とは常に区別して、不満を自覚しなければならない。
しかし不満も溜め過ぎると、本来持っている生活能力にも支障が出るような病気になる可能性があるので、進退問題とは区別した自覚を持ったうえで、不満を発散、解消、カンカイできる支援先に話す必要がある。
加えて、発達障害の特性として、自分の置かれた境遇を正確に認識できないことがあるので、もしも人間関係のスケープゴートとして設定され、虐待を受けていても気付かない可能性があるので、客観的な判断ができる支援先に話し、定期点検を受ける必要もある。
最低限、以上の用意をした上で、一般社会の一般企業に就職するなら、大半のリスクを避け、または対応しながら世の中を渡って行けるので、無意味な不安を自分に煽ること無く、ぜひ社会に出て行くべきである。
同時に経済観念を学び、お金を貯蓄すれば、勤務時間外に、自尊心を満たす行動を取り、精神衛生を高める趣味や娯楽に使うことが出来る。
それは法で守られた自分だけの財産である。
…と、こういう内容になる。
自分で書いてて感じた。
これ、聞かされる方も嫌だ。くどい。
発達障害は、短時間に情報を受け取れる許容量も狭い。
だから途中で嫌になる。わかっていないくせに嫌になる。
昭和のむかしの彼方は、生まれたら、いや生まれる前から苦痛で人生ができていたと言われる。
『おしん』に代表される東北、『北の零年』しかり開拓者がいた北海道なんかは、24時間凍えて餓えて生きるのが全員の前提で、当たり前だったと聞く。
だあれもだれかを優遇したり甘やかしたりできない環境から、温まるために、楽になるために、這い上がっていく過程で、病んだ人間も普通に大量にいたけど、やっとそこで個人が“お仕事”を第一優先にした経緯があったと察する。
そんな経緯やお膳立ての無い、平成の現代で、“お仕事”第一は、どうやって教えられるべきなんだろう。
特に、今時の“子どもの権利”なんて、どこまでぬくぬく守れば合格になるのか、どこまで干渉すればだれから見ても見栄えの良いものになるのか、個人個人の価値観が違い過ぎて、全然確定しないものじゃないか。
子を育てる側の人権が、始めからないがしろにされているようなもの。
それならだれでも人権を手放してまで子ども持ちたくありませんがな。
子どもの自己肯定感とか自尊心第一の環境から、何を梃子にしてお仕事第一にシフトさせるのか。
何を使ったら模範的で優秀で世間様に誉められる養育者の称号をもらえるんだろうか?
今存在している子には育って欲しいのが人情なんだけども、育てた先の社会で引っかかる。
子どもや若者が引っかかって、つまづいて、挫折しっぱなしでも知らないよ、いいよって放ったらかしているのが、当の一般社会である。
梃子なんて知らないよ、先のことは知らないよで、結果、何十年もとおしてきたんである。
“異分子”はいつまでも発達障害に噛みつき続けるだろうし、
発達障害はいつまでもわからないし、
善良な一般人はいつまでも問題を大きくしないように、暴力と憎悪と破壊を傍観し続けるんだろうね。
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