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リタリンが廃止された時、18才未満の子のコンサータは守られた。
具体的に薬を一つ、確保できるところにまで効果を出せたのは、だれの、どんな動きがあったからなんだろう?
だれがどこから危機感を集め、だれがだれの意思統一を図り、だれが厚労省との勝算を立てて、空白期間を作ることなく、コンサータの処方を確保できたんだろう?
この行動力とか、作戦を立てる力を持った人たちのことを知りたい。
快楽のために乱用する、一部の、間違った不良の大人を阻止するために、全国のリタリンは廃止になった。
発達障害の大人や子どもが、何か間違っていたわけじゃない。
でもちゃんと存在していた。
大人にはリタリンの効き目の代わりになるプログラムが用意されたわけじゃない。
むしろリタリンがあった時には過剰適応して仕事や家事や、役割をこなしていた。
うつを装った、よその依存者の罰とかペナルティの政策に巻き込まれる筋合いなんて、全然無かったのだ。
子どもだって切羽詰まっていたように
大人も切羽詰まっていたんだ。
リタリンが無いことで、ガタ落ちする集中力の持続時間や、勘違いのループから、落ちつこう落ちつこうと思っても抜けられなくなる恐怖におののきながら、遅刻しないように仕事に通うしか無かったわけだ。
この恐怖と、実際に落ちた作業効率の被害には、正当性があったはず。
その正当性を、証明できた人たちと、証明できなかった人たちに、どうして別れてしまったんだ?
証明できた人たちのやり方が知りたかった。
どうすれば正解だったんだ?
正当性を証明できたということは、人権とか、尊厳とか、生存権とか、そういうのも一緒に証明できたことになる。
そんなの証明出来て当たり前の物だ。
本当はこんな駄文を書いている時間は、違うことに使われるべきなんだ。
正当性を証明できなかった。
リタリンじゃないと、覚醒が全然足りないことを、その覚醒に正当性があることを証明できなかった。
二つ、三つの同時進行思考を求められても出来なきゃいけない。
二つ、三つの同時進行の判断をしなくてはならないときはしなくてはならない。
その確実さが落ちてしまうことは、信頼を欠くこと。
信頼を欠いて、仕事に不備を呼んでしまうことは、お金をもらうだけの仕事ができていないこと。
改善方法を自分で確保できないことは、罰されなければならないこと。
当人が、怠慢という責を負わねばならないこと。
内情は怠慢ではなくとも、仕事場の結束を乱して、生産を乱して、それを補填できないこと、その責任は当人に返ってくる。
医療や福祉のどんな偉そうな人に救いを求めたとしても、彼らの口をとおして生産現場に行くであろうメッセージは、「当人がああいってる」
口が変わっただけ。
当人から違う人に変わっただけ。
そしていつの間にか、私達当人たちは、口を開く罰を受けるようになった。
だれも聞きたくない、面倒くさい、小難しいことを訴える罰。
どうするのが正解だったんだ?
どこに正解があるんだ?
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